前世の真実、それは今世の偽の記憶、春は去り

日室千種・ちぐ

文字の大きさ
10 / 10

春を残して春は去り

しおりを挟む
 朝の挨拶が交わされる工房に、ぽつりと置かれたままの紐台がある。

「おや、フォルセは今日はまだ起きてきてないのかい?」

 だが、昨日まではなかった紐が、端まで綺麗に整えられて畳んでおかれている。

「吹っ切れたのかな?」

 それは見事な、春そのものの紐だった。
 魔術師の求めた銀の鎖に置き換えて、柔らかな螺旋を描く草花の意匠が組み込まれている。
 伝統的な草模様は男性の好むところだが、合わせて組み込まれた花の色は優しく、まさに萌えいずる春を描き出している。きっと女性の心もくすぐるだろう。
 いや、春を心待ちにする誰の心をも掴むに違いない。
 壁を越えた。
 弟子の手応えを、まざまざと感じる逸品だった。

「昨夜無理して仕上げたんだろ。いくらフォルセでも、無茶したもんだよ。いいよ、昼くらいまで寝かしてやろう。その後は、それはもう、働いてもらおうじゃないか」

 親方も、仲間たちも、くすくすと温かく笑って、それぞれの仕事に取りかかる。

「これを、見せつけてやりたいねえ」

 あの子はあんたたちの付けた傷を乗り越えた。そう、あの高貴な男女に突きつけてやりたい。
 だが、もうそんなことは些末な過去になるだろう。
 きっとフォルセは、引く手あまたの職人となり、身分は低けれど、この世界で大きく自由に羽ばたくだろう。いかに貴い身の上の者でも、無理を通せないほど、高く強く。

「楽しみだね」

 親方は、その紐を丁寧に整えて、化粧箱に入れた。
 美しい白木の蓋には、フォルセの名が確かに焼き付けられていた。



しおりを挟む
感想 1

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

ぱんださん
2025.06.21 ぱんださん

面白かったです。
思いがけない方向に向かうお話は大好きですが、この作品は組紐作りの描写も美しく、
「前世」から解放されたフォルセの成長に心からエールを送りたくなりました。
親方が女性なのが、ロールモデルにもなってまたよかったと思います。

作者様をお気に入り登録しました。
他の作品も楽しみです。

2025.06.24 日室千種・ちぐ

感想ありがとうございます!
実は最後はあえて読み手次第な終わり方にしているので、ぱんださんがフォルセのこれからを明るく読み取ってくださって、とても嬉しいです。
きっと、強く優しい職人として、しっかり歩いて行くと思います。

手仕事が好きなので、今回は組紐の美しさが伝わると嬉しいです。

お気に入りまで、ありがとうございます!
少しずつお話増やすので、どうぞよろしくお願いします。

解除

あなたにおすすめの小説

白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』

鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」 華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。 王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。 そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。 レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。 「お願いだ……戻ってきてくれ……」 王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。 「もう遅いわ」 愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。 裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。 これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。

冬薔薇の謀りごと

ono
恋愛
シャルロッテは婚約者である王太子サイモンから謝罪を受ける。 サイモンは平民のパン職人の娘ミーテと恋に落ち、シャルロッテとの婚約破棄を望んだのだった。 そしてシャルロッテは彼の話を聞いて「誰も傷つかない完璧な婚約破棄」を実現するために協力を申し出る。 冷徹で有能なジェレミア公爵やミーテも巻き込み、それぞれが幸せを掴むまで。 ざまぁ・断罪はありません。すっきりハッピーエンドです。

マリアンヌ皇女の策略

宵森みなと
恋愛
異国の地シンホニア国に、帝国から輿入れした若き王妃セリーヌの死。 王妃としての務めを果たし、民との交流に心を尽くしてきた、優しき王妃の裏の顔は誰も知らなかった。セリーヌ王妃の死は、なぜ起こったのか。なぜ、シンホニア国は帝国の手に落ちたのか、そこには一人の少女の静かなる策略があった。

魔力ゼロと捨てられた私を、王子がなぜか離してくれません ――無自覚聖女の王宮生活――

ムラサメ
恋愛
伯爵家で使用人同然に扱われてきた少女、エリナ。 魔力も才能もないとされ、義妹アリシアの影で静かに生きていた。 ある日、王国第一王子カイルの視察で運命が動き出す。 誰も気づかなかった“違和感”に、彼だけが目を留めて――。

引きこもり聖女は祈らない

鷹 綾
恋愛
内容紹介 聖女ポーラ・スターは、引きこもっていた。 人と話すことができず、部屋から出ることもできず、 彼女の意思表示は、扉に貼られる小さなメモだけだった。 「西の街道でがけ崩れが起きます」 「今日は、クラムチャウダーが食べたいです」 祈らず、姿も見せず、奇跡を誇示することもない聖女。 その存在は次第に「役立たず」と見なされ、 王太子リチャードから一方的に婚約を破棄され、聖女の地位も解かれる。 ──だが、その日を境に、王国は壊れ始めた。 天候不順、嵐、洪水、冷害。 新たに任命された聖女は奇跡を演じるが、世界は救われない。 誰もが気づかぬまま、 「何もしない聖女」が、実はすべてを支えていた事実だけが残されていた。 扉の向こうで静かに生きる少女と、 毎日声をかけ続ける精神科医フォージャー。 失われていく王国と、取り戻されていく一人の人生。 これは、 祈らない聖女が選んだ、 誰にも支配されない静かな結末の物語。 『引きこもり聖女は祈らない』 ざまぁは声高でなく、 救いは奇跡ではなく、 その扉の向こうに、確かにあった。

捨てられ侯爵令嬢ですが、逃亡先で息子と幸せに過ごしていますので、邪魔しないでください。

蒼月柚希
恋愛
公爵様の呪いは解かれました。 これで、貴方も私も自由です。 ……だから、もういいですよね? 私も、自由にして……。 5年後。 私は、ある事情から生まれ育った祖国を離れ、 親切な冒険者パーティーと、その地を治める辺境伯様のご家族に守られながら、 今日も幸せに子育てをしています。 だから貴方も勝手に、お幸せになってくださいね。 私のことは忘れて……。 これは、お互いの思いがこじれ、離れ離れになってしまった一組の夫婦の物語。 はたして、夫婦は無事に、離婚を回避することができるのか?

夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました

香木陽灯
恋愛
 伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。  これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。  実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。 「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」 「自由……」  もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。  ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。  再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。  ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。  一方の元夫は、財政難に陥っていた。 「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」  元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。 「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」 ※ふんわり設定です

愛に代えて鮮やかな花を

ono
恋愛
公爵令嬢エリシア・グローヴナーは、舞踏会の場で王太子アリステアより婚約破棄を言い渡される。 彼の隣には無垢な平民の娘、エヴァンジェリンがいた。 王太子の真実の愛を前にしてエリシアの苦い復讐が叶うまで。 ※ハッピーエンドですが、スカッとはしません。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。