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 がぶり。

 歯は、立ててないけれど。
 それくらい勢いよくかぶり付いた私を、深い綺麗な緑の目が見ていた。

 こんなに間近で目を合わせたことなんてなかった。
 女の子たちが騒いでいるのを聞いたことはあったけど、本当に濃密な森みたいな色なんだ。
 今は昔、魔法の時代に精霊が住んでいたのは、きっとこんな森。

 ――けど、そんなに見ないでほしい。
 ほら、またつま先からゾワゾワと這い上がってくる違和感。顔は熱くて膨張感。発熱してそう。鼻水出そう。反対に喉は干上がり、カラカラで、カサカサで、息をするのもやっとやっと。
 やばいやばい。ここから頭痛が始まると、本格的に危険なサインだ。

 私は焦って、咥えたたままのそれを、口の中でぺろりと舐めた。

「…っ、えっ、何、してるの、ブルーネ・ベアリー?」

 フルネームを呼ばれると、改まった感じになるはずなのに。
 その声は、私をまるごと包み込むみたいな響きだった。
 前も思ったけど、すごい威力だ。耳の奥で羽が舞うような感触がして、こそばゆくてこそばゆくて、指を突っ込んでわしゃわしゃしたい!

 落ち着いて、私。
 いま叫んでしまうと、モガー、とか、ウガー、とかになるから。恥ずかしいから!

 仕返しじゃないけど、耳をわしゃる代わりに、口の中のものをちゅうううっと吸った。
 かすかに花のような香りが、鼻に抜けた気がした。鼻、詰まってたから、微かにだけど。
 その香りを唾液に溶け込ませるようにして、ゴクリ、と飲む。

「ブルーネ……、ビー」

 彼の声が上擦るのは、初めて聞いた。しかもそんな声で、今、私の愛称を呼ぶとか。
 逃さないように両手で握りしめていた彼の手が、私の手を逆に握ってくるとか。
 私を、殺しにかかってるとしか思えない。
 視界を歪め始めた涙がこぼれ落ちないように瞬きを耐えて、可愛さ余って、な気持ちで彼を睨んだのだけど、彼はいつもは涼しげな眉を苦しげに顰めて、じっと私を凝視していた。
 殺しそう、というよりは、迷ってるような。
 
 目の前の麗しい青年、レアンティ・マクラネンは、いつも物静かで淡々としている。
 実力主義の王立学園にあって、北の領主の血筋だと噂される彼は植物学の天才として頭一つ抜きん出ており、在学中に既に博士の称号を得ている、将来を嘱望される青年だ。さらに整った容貌と長身、青銀の髪と深い緑の目という珍しい色合いを持っている。
 要するに、外見も中身もいい男として、レアンティは入学以来、常に女の子に群がられていた。
 群がられすぎて学園長からレアンティが苦言を呈されたという時も、目の前で女の子同士が掴み合いを始めた時も、慌てず騒がず、淡々と対処していた。対処しても対処しても、女の子たちの猛攻が止まないのにも、特に苛立ったり怒ったりはしていなかったと思う。
 だけどさすがに、今は困っているのだろうか……。

 私と彼は王立学園のクラスメイトで、適切な距離で三年を過ごしてきた。
 仲間、というにはあまり会話をする機会もなかったけれど、良識ある知人としてくらいは認識されていると思っていたのに、卒業を控えたある日、誰もいない放課後の教室で告白されて、心底驚いた。

 誤解のないように、もう一度言っておこう。
 レアンティが、私に、告白したのだ。そのはずだ。妄想ではない。
 そういえばその時も、今のように少し眉間が険しかった。
 私が、卒業制作の展示用の名札を用意するために一人教室で作業をしていた時だった。七日前のことだ。
 珍しく険しい表情をしたレアンティが、静かに教室に入ってきた。
 入ってくるのは構わない。レアンティの教室でもあるのだから。
 ただ、入室の気配に視線を向けた私は、彼が一人であることと、その表情に、ふと違和感を感じたのだ。
 彼は自分の机に向かうのではなく、なぜか私の方へと近づいて来て、すとんと、空いていた隣の席の椅子に腰を下ろした。
 ポカンとして見返した私に、至極真剣な顔で、ただ、ポツリと言ったのだ。
 ブルーネ・ベアリー、ずっと好きだった、と。

 ここまで仔細を覚えているのだ。妄想ではない。
 妄想では? と私自身も何十回か自分に尋ねたけれど。

 そして今日は、逆に私がレアンティを驚かせている。
 彼だって、告白の返事をもらいにきたつもりが、突然噛み付かれるなんて、予想しなかっただろう……。
 驚いて、そして困ってるだろうし、怒っても当たり前だと思う。
 私が逆の立場で噛まれたなら? 突き飛ばして、逃げ出してる……。

「ほへんははい(ごめんなさい)」

 考えた末決めた、必要なことだけど。
 申し訳なくて、私は困惑顔のレアンティに、もがもがと謝った。



 飲み込んだものが効いたのかどうか、諸症状は治まってきたようだった。
 ほっとして目を伏せ、指から口を離したが、うっかり唾が糸を引いてしまったので、慌ててもう一度口の中でペロリと舐めとった。
 やっぱり、水辺の花のような、微かな香りがする。
 彼の、指の香り。

「ビー、手遅れになる前に聞きたいんだけど。――僕の勘違いじゃないよね」

 書き物用の机をまたいで手を掴んでいたと思ったのに、いつの間にか彼が片手と足でどうにかして机を退けてしまった。間に何もなくなって、膝が触れるほど彼が近づく。
 私は腹を据えて、グッと踏ん張った。
 これまでなら、脱兎の如く逃げているはずの距離だ。
 でも、ここまでしたんだ。
 逃げない。
 私は瞬きをして滲んでいた涙をひっこめて、それから、そろそろと伏せていた顔を上げた。でも緑の目とばっちり合わせるのは刺激が強いので、上げすぎないように注意が必要だ。膝、意外としっかりした太ももから、彼のシャツ、その胸元くらいまで。
 彼の喉仏が、ごくりと上下した。
 私の体調に、変化はなし。
 大丈夫そう、だ。

 次は、そうっと、目線だけ上げてみる。
 シャープな顎は滑らかで、ニキビの跡すらない。いつも微笑んでいるのに、今は少し力の入った唇。北方の人特有の白い頬は少し赤らんでいる。高い鼻筋。そして髪と同じ氷河のような青銀の睫毛に縁取られた、森の緑の目ーーこちらを、ひたと熱く見下ろしている。

「む」
「……む?」
「むり」
「そんな」

 そんなもこんなも。
 ブワッと一瞬で、私は茹でたエビィかカニィのように赤くなった。
 いっそエビィカニィと同じように、昇天してしまいたい。
 だって、だって、遠のいていた動悸息切れ涙鼻水が諸々ぶり返している。これは、効果がなかった、ということだ。
 悩んで悩んで、決死の覚悟で噛み付いたのに。それがまったく意味がなかったなんて。
 それって私、ただの痴女……。
 羞恥心まで加わって、症状が加速度的に増していく。ついに、がんがんと頭が痛みだし、眩暈がして、耳に閉塞感と微かな耳鳴りが出てきた。
 どどどどどど、と心拍と血圧が上がっていく。

 彼に告白をされたその時から、突然こんな過敏な反応が表れるようになった。
 彼の姿を見たり、彼の声を聞いたりすると、命の危険さえ感じるほどの、異常な状態になる。

 ――そう、これは、典型的なア・レルギ症状。


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