1 / 22
婚姻謝絶
しおりを挟む「申し訳ございません。許されるのであれば、お断りさせてください」
ジョゼットは、できる限り低く腰を落とし、頭を下げた。淡い紫のドレスに絹糸のような金褐色の髪がこぼれ落ちた。
ジョゼットは使用人ではない。だが本来なら逆らうことなど許されない、身分と立場の差がある。
人払いされた執務室に重たい吐息が響いたが、部屋の主のゼンゲン侯爵はすぐに自らその空気を打ち消した。
「もとより、他家から預かった令嬢に我が家の嫡男との婚姻を勧めるのは、マナー違反。はじめに無理を言ったのはこちらだ。断ってくれて構わない。ただ、理由は聞いてもいいかね?」
ジョゼットの父親だったなら、きっと即座に娘の頬を張っていただろう。だが、騎士総長という、軍において国王に次いで高い地位にある侯爵は、娘ほどの年齢の分家の娘に、丁寧に問いかけた。
いかなる時も威風堂々とした侯爵が、今は年相応の疲れを滲ませている。
その憔悴ぶりを見て、ジョゼットはもう一度頭を下げた。断ることへの罪悪感に胸が痛む、けれど引っ込めるわけにはいかず、かといってずけずけと返答できるはずもない。
「頭を上げて。思うところを正直に言って欲しい。君から聞いたことで怒ったりはしないと約束しよう。私は、ただ知りたいのだ。あいつの悪い噂もわかっているが、きっと君が断るのは、噂が理由ではあるまい。……ああそうだ、それを私に語るのを、断る条件としよう」
躊躇っているうちに、ジョゼットの逃げ道が塞がれた。断る条件にされてしまっては、失礼なことを言いたくないからと、ごまかしてやり過ごすこともできなくなった。
それでもなお、上辺だけの回答をすることもできただろう。
だが、ジョゼットは自分に求められていることを敏感に悟る性質だったので。
覚悟を決めた紫の目で、侯爵を真っ直ぐに見つめた。
「……包み隠さず申し上げます。お断りするのは、決して、ランドリック様に関するお噂を信じたからではありません。何人もの女性と親密だという噂は今ははっきりと嘘ですし、従姉妹君に横恋慕のうえご夫婦仲を邪魔しているという噂も言いがかりです。そのことは、この四年、ランドリック様の近くで過ごす時間をいただいたおかげで、よく存じております。
――ただ。ランドリック様は、私のことを女性としては見ておられないことも、よくわかっているのです。私ではランドリック様のお相手として力不足です。大変心苦しいのですが、お許しくださいませ」
侯爵が瞠目したのは、理由そのものより、ジョゼットの明確な物言いのためかもしれない。
人の言いたいことを察し過ぎるのも、それに応えることのできる明晰さも、両親をはじめ年長者から、令嬢らしくないとたびたび窘められてきた。だからジョゼットは、滅多にこんな喋り方はしない。
「なるほど、だが、まさかそんなことはないだろう。ランドリックは君にとても心を開いている。君なくして、今のあいつはいないことを、よくわかっていると思うが」
侯爵がそこまで言ってくれるとは想像もしておらず、今度はジョゼットが驚いた。
慰めようとしてくれたのだろうか。
それは確かに事実を含んでいるとジョゼットも思う。ランドリックは確かにジョゼットに心を開いてくれている。
けれどやはり、肝心のところは変わらない。
『ご子息は、きっと家族でも女性でもない、犬か猫のように私を認識していると思います。動物と触れ合ったり、話の聞き手になってもらうことで、心の安定が得られることが実際にあるそうですよ。ご存知ですか?』
喉元までせり上がった言葉を呑み込んだのは、少年であれば将来が楽しみだと目を細められる小賢しい物言いが、少女であれば疎まれるだけだと知っているからだ。
ジョゼットは今度こそ沈黙のまま、震える膝を励まして静かに礼をとり続け、やがて侯爵に許可され退室した。
初めて招き入れられた侯爵家当主の執務室。ジョゼットが入る機会は、もうないだろう。
とても重厚でいて、雅な趣の部屋だった。ランドリックの執務室もよい誂えだが、やはり部屋の格式が違う。
「もう少しゆっくり見てみたかったわ」
そんなことを呟いてみて、心を落ち着けようとするが、胸の切ない震えはおさまらない。
仕方ない。
今、ジョゼットが婚姻を打診されてお断りした相手、ランドリック・ゼンゲンは、ジョゼットの好きな人だったから。
38
あなたにおすすめの小説
ストーカーに狙われたので歳上騎士様に護衛をお願いしました。
ねーさん
恋愛
「氷の彫刻」と呼ばれる美貌の兄を持つ公爵令嬢のクラリッサは不審な視線に悩まされていた。
卒業を二日後に控えた朝、教室のクラリッサの机に置かれた一通の偏執狂者からの手紙。
親友イブを通じてイブの婚約者、近衛騎士団第四分団員のジョーンズに相談すると、第四分団長ネイトがクラリッサのパートナーとして卒業パーティーに出席してくれる事になって───
〈注〉
このお話は「婚約者が記憶喪失になりました。」と「元騎士の歳上公爵様がまさかの××でした!?」の続編になります。
天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎
ギルドで働くおっとり回復役リィナは、
自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。
……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!?
「転ばないで」
「可愛いって言うのは僕の役目」
「固定回復役だから。僕の」
優しいのに過保護。
仲間のはずなのに距離が近い。
しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。
鈍感で頑張り屋なリィナと、
策を捨てるほど恋に負けていくカイの、
コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕!
「遅いままでいい――置いていかないから。」
【完結】令嬢憧れの騎士様に結婚を申し込まれました。でも利害一致の契約です。
稲垣桜
恋愛
「君と取引がしたい」
兄の上司である公爵家の嫡男が、私の前に座って開口一番そう告げた。
「取引……ですか?」
「ああ、私と結婚してほしい」
私の耳がおかしくなったのか、それとも幻聴だろうか……
ああ、そうだ。揶揄われているんだ。きっとそうだわ。
* * * * * * * * * * * *
青薔薇の騎士として有名なマクシミリアンから契約結婚を申し込まれた伯爵家令嬢のリディア。
最低限の役目をこなすことで自由な時間を得たリディアは、契約通り自由な生活を謳歌する。
リディアはマクシミリアンが契約結婚を申し出た理由を知っても気にしないと言い、逆にそれがマクシミリアンにとって棘のように胸に刺さり続け、ある夜会に参加してから二人の関係は変わっていく。
※ゆる〜い設定です。
※完結保証。
※エブリスタでは現代テーマの作品を公開してます。興味がある方は覗いてみてください。
ホストと女医は診察室で
星野しずく
恋愛
町田慶子は開業したばかりのクリニックで忙しい毎日を送っていた。ある日クリニックに招かれざる客、歌舞伎町のホスト、聖夜が後輩の真也に連れられてやってきた。聖夜の強引な誘いを断れず、慶子は初めてホストクラブを訪れる。しかし、その日の夜、慶子が目覚めたのは…、なぜか聖夜と二人きりのホテルの一室だった…。
狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します
ちより
恋愛
侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。
愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。
頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。
公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。
恋詠花
舘野寧依
恋愛
アイシャは大国トゥルティエールの王妹で可憐な姫君。だが兄王にただならぬ憎しみを向けられて、王宮で非常に肩身の狭い思いをしていた。
そんな折、兄王から小国ハーメイの王に嫁げと命じられたアイシャはおとなしくそれに従う。しかし、そんな彼女を待っていたのは、手つかずのお飾りの王妃という屈辱的な仕打ちだった。それは彼女の出自にも関係していて……?
──これは後の世で吟遊詩人に詠われる二人の王と一人の姫君の恋物語。
公爵令嬢は嫁き遅れていらっしゃる
夏菜しの
恋愛
十七歳の時、生涯初めての恋をした。
燃え上がるような想いに胸を焦がされ、彼だけを見つめて、彼だけを追った。
しかし意中の相手は、別の女を選びわたしに振り向く事は無かった。
あれから六回目の夜会シーズンが始まろうとしている。
気になる男性も居ないまま、気づけば、崖っぷち。
コンコン。
今日もお父様がお見合い写真を手にやってくる。
さてと、どうしようかしら?
※姉妹作品の『攻略対象ですがルートに入ってきませんでした』の別の話になります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる