私が育てたのは駄犬か、それとも忠犬か 〜結婚を断ったのに麗しの騎士様に捕まっています〜

日室千種・ちぐ

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ランドリックという人

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「簡単なことですよ、母上。ほら、彼女のドレスだけ後ろがたっぷり長い。これは母上のお若い頃の、一番気に入っていたドレスですね? 肖像画で見ました。よく似合っているけれど、これでは普通に降りるのは難しいだろうと思いまして」

 さらさらと澱みない説明で、ランドリックは周囲の好奇に溢れた目を、柔らかく溶かしてしまった。まあ、さすがねえ、と褒める声があちこちで聞こえる。
 それどころか、夫人の大切なドレスを与えられていたジョゼットに対する視線まで、温かくなったようだ。

 ジョゼットが、自分の至らなさを嘆く必要など、どこにもなかった。
 ランドリックは、鋭い観察眼とその魅力で、一瞬にして皆の心を慰撫してみせた。

「それで、母上。今日は散策ですか? 俺もちょうど休憩時間です。ご一緒しましょうか」
「……そうね、少し散策しましょうか。ちょっと貴方にお話があったの」

 ランドリックが、この場で最も地位の高い侯爵夫人をエスコートして歩き始めた。
 夫人に手招かれて、ジョゼは二人の一歩後ろについた。
 夫人の友人たちは、円を描くように広がって歩く。すると、二人の会話は周囲の他人には聞きとれない距離になる。

「貴方に報告があって。貴方のお父様がね、ジョゼットに貴方との婚姻を打診したの」

 ランドリックが、一瞬だけ、視線で撫でるようにジョゼットを振り返った。彼も初耳なのだと分かる動作だった。

「けれどね、ジョゼットに断られました」

 夫人としては、驚いたり慌てたり、衝撃を受けることを想定したのだろう。思わせぶりに言葉を区切ったが。
 ――ランドリックの反応は、鈍かった。

「はあ、……それで?」
「それでって貴方……。何か、思うことはないの?」
「思うこと、ですか。よかったな、と」

 は、と夫人の視線が凍ったようだった。

「よかっ、た?」
「ええ、父上が無理強いをする方でなくてよかったな、と。ジョゼットが婚姻が嫌だと正直に言えてよかったと思います」
「……貴方、正気? 貴方との婚姻を断られたのよ?」
「――奥様」

 ジョゼットが控えめに夫人に声をかけた。
 はっと口を押さえた夫人をよそに、正気を疑われたランドリックは、真剣に自分の中を探ったようだった。
 そして、優雅に頷いた。

「ええ、構いません。そうジョゼットが望んだなら、それでいい」
「あなた……」
「婚姻しようがしまいが、俺はジョゼットが好きですよ。ジョゼットも俺を好いてくれていると知っています。問題は、何もないのでは?」

 ねえ、ジョゼ。
 息子が誰にかけるよりも優しい声で後ろに呼びかけるのを見て、侯爵夫人は魂が抜けたような顔をした。





 

「重ね重ね、申し訳なかったわ、ジョゼット。あれでは、婚姻しようという気にはならないわよね。私たち、あの子のそういうところも育てられなかったのね」

 あれからすぐに、夫人は理由をつけてさっさと公園を後にした。帰りの馬車の中では我慢していたものが、部屋に戻ってついに耐えきれなくなったらしい。肩を落として、椅子にがっくりと座り込んだ。
 ジョゼットは少し思案してから、夫人の足元に座り、片手をそっと両手で取った。

「奥様。侯爵様と奥様がランドリック様のことについてお願いがあると、私のもとにおいでになった時も、奥様はそうしてご自分を責めておいででした」

 それは、四年と少し前のこと。
 長年かけて静かに広がっていた罅が、凍つく夜に熱湯を浴びて決壊するように。
 従姉妹とその婚約者との関係をランドリックが意図せず引っ掻き回したことで、侯爵夫妻はランドリックの「欠落」に気がついた。
 それまで親としてふとした時に感じていた、ランドリックとの微妙なズレが、貴族社会を生き抜くどころか、ごく一般的な社会生活を送るにも大きな問題になると、ようやく悟った。
 問題の認識が遅かったのは、ランドリック本人も自分の「欠落」に気がついており、高い学習能力を駆使して、身内からも気がつかれないほどに、自分をマナーや経験則で鎧っていたためだ。

 医師は、ランドリックには何も問題は見られない、と診断した。
 では「欠落」しているものは何か。
 医師は言い淀んでから、こう言ったそうだ。

「ご本人にも話しましたが、ご子息は、非常に優秀で、学んだことは実にうまく活用なさる。家族の扱いは家族から。女性の扱いはマナーの教本で。騎士たちとのやりとりは、騎士団での実践で、それぞれ学んで来られたのでしょう。
 ですが、恋人や妻という存在については、学ぶ機会がないまま、相手に求められて応えられずに破綻を繰り返し……、もうそれが嫌になっている段階、でしょうかな。どなたか身内でありながら家族ではなく、まして他人でもない、ほどよい距離感の相手がいれば、慣れと学習にはいいのでしょうが……」

 それではまるで、伴侶ですな。という医師の最後の呟きは、誰にも拾われなかった。
 
 侯爵夫妻は、その医師の言葉にすがり、ちょうど屋敷にやってきたばかりのジョゼットに注目したのだ。
 家族よりは遠い身内で、教本の女性とは違う、生身で妙齢の女性として。

「とても都合の良い願いだけれど、決して無体はさせないからと誓約書を用意して、ランドリックと『対話』をしてくれないかとお願いしたのよね。覚えているわ。
 ジョゼ、貴方は、私たちの軽い気持ちのお願いに、これ以上なく応えてくれました」

 夫人がぎゅっと手を握り返してくれたことに、ジョゼットは安堵の息をつく。
 これで随分、言いやすくなった。

「では、私の言葉を、お信じくださいますか?」
「ええ、もちろん。ランドリックのことについて、貴方を信じます」
「……では、ご自分たちを責めるのはおやめください。反対にランドリック様の正気を疑うのも。それは、どちらもランドリック様を意図せず責めておられます」

 まあ、と夫人は眉を顰めたが、手の力は抜けない。

「……そうね。以前も貴方に言われたわ」
「失礼をお許しください。でも、ランドリック様は、まさしく正気でいらっしゃいます。私は、初めてお会いした時から一度も疑ったことはございません」

「今日も、貴方の方が正しかったもの。ランドリックを一番理解している貴方が、そう言うのね。……私たちの考え方が、唯一正しいものではないのね。いつも、私忘れてしまうの。わかりました、そうするわ」

 夫人の呟きのような答えを聞いて、ジョゼットの背がくにゃくにゃと力を失いかけた。
 どっと汗が出てくる。
 目上の相手、しかもはるかに格上の相手に意見を申すのは、重圧だ。まして、ジョゼット自身にやましいことがある時には。

「あの、奥様、私も偉そうに言えません。私、私だって、私の求める男女の愛にこだわって、婚姻をお断りするのですから」

「ジョゼット……」

「幼い時から、私はいつでも人の気持ちを先回りして考えてしまって、察したふりで動くものですから、よく父からは小賢しいと叱られていました。ぼんやりおっとり、与えられるものを喜び、気づいてもらえるまで待てと。
 本当は、私のこんな奥様へのおせっかいな口出しは、ランドリック様には不要かもしれません。私が、私がただ、怖がりなだけなんです」

 俯いたジョゼットの頭を、夫人がそっと撫でた。

「そう、そうね。誰もが未来を恐れるのよ。貴方のその小賢しさは、侯爵家では宝となりますよと、何度もお話ししているのにね」

 優しい声だ。

「うまく、いかないわねえ」

 とても、優しい声だった。
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