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虚しい対峙

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 ユーラは、城壁の石組みのわずかな隙間に指とつま先を引っ掛けて移動し、身軽に上階のバルコニーへと飛び乗った。窓は鎧戸が閉められていたが、風が通るようにか隙間が残されており、わずかに室内を覗き見ることができる。繊細で優美な調度品が揃えられた室内は、城でも特に身分のある女性の部屋だろう。
 狙い通りだ。
 そこへ、数人の足音に続いて扉が開けられ兵士が中を確認するのを、待ちきれないとばかりにすり抜けて入ってきた女性が,持っていた扇を足元へと投げつけた。
 非力さと、密に編み込まれた毛足の長い絨毯のおかげで大した衝撃音もしなかったが、室内に待機していた身繕い担当の召使いたちは、息すら止めて、凍りついた。
 誰も拾いに来ない扇に近づいて、踏み付けにしたのは、王妃メイベル。つい今しがた、華やかな花火で息子の花嫁候補者とその後見人たちをもてなそうとして、当の息子に厳しく苦言を呈され、部屋へと戻ってきたところだ。
 その親子のやりとりも、ユーラは柱の影からしっかりと見ていた。



 そもそも、初めの花火が上がった時、ユーラは竜舎の中に潜んでいたのだ。苛立つ竜たちを刺激しないようにと、竜番たちは竜舎への立ち入りを控えていたので、入る時に見られないように気をつけたなら、後は誰にも気づかれなかった。
 竜たちが花火に気づいた時の、剣呑な様子といったら。ユーラでも少し動揺したほどだったが、幸い近くにいたケールトナが、始祖の香りを込めた鎮めの香を撒きながら駆け込んできたので、その場を任せて、花火の元を確認しに行ったのだ。
 正確に言えば、花火を止めに行くというリューセドルクを追いかけた。
 
 王城から北の湖側に突出した迎賓用の棟と向かい合う位置の城壁上に、王妃の姿はあった。花火に惹かれて庭園に出てきた者たち、迎賓用の部屋から覗く者たちにを鷹揚に見下ろして、城と花火とを背景に、息子の花嫁候補たちへの歓迎の意を告げようとしていたところだった。
 息子が駆けて来たのに、よく来ましたね、と頷いて見せていたが、それきり花火が途絶えたことに、眉を顰めて侍女たちを確認に向かわせようとした。

「打ち上げは私の名においてやめさせました。母上、城の防備規則上、花火は禁忌だとご存知であったでしょうに。——さあ皆、驚かせてしまったようだが、よい春の夜だ。楽しんでくれ」

 にこやかに微笑みながら、素早く王妃の腕を取り、如才なく注目する客達に向かって手を挙げてから去る王子。客たちは、王子の蒼い目が冷ややかだったことに気づいた敏感なものも、訳がわからないまま戸惑うものも、思惑を持って状況を眺めるものも、それぞれ、次第に客室へと引いていった。
 すでに食事は各部屋に届いている。本番の妃選びの宴は明日の予定だ。普段は会う機会が少ない相手と語らうにも、宴のための衣装を点検するにも、残された時間は貴重なのだ。

 リューセドルクは、城壁から塔の一つに入り、客たちからは視線が届いていないことを確認すると、雑に手を離した。よろめいた王妃を、侍女たちが支えるままさせておきながら、意識してことさらゆっくりと口を開いた。それは怒りのままに怒鳴りつけないようにするためだったが、いくら力を抜こうとしても、声は硬く、冷たくなってしまう。

「何をしたのか、わかっておいでか。竜と共存するこの城で、不意打ちの花火などと、自分の首を絞めるような真似を何故なさった。国の中枢を名実ともに脅かす大罪に問われる行いを、王妃たる立場で率先するとは。周りの者も、何故諌めなかった!」

 王妃の前では温厚で通していた王子の剣幕に、王妃はたじろいだ。

「そのように怒鳴らなくとも。たかが花火ではないですか」
「その花火を、どこの誰から仕入れたのです。城では禁忌扱いの物、正規の仕入れでは手に入りません。そこに噛んだ者が、竜を傷つけ我国の威容を失墜させようと目論む者ではないと、どう証明できましょう」
「おおげさな。私の侍女の生家が好意で差し入れてくれたものを」
「ではその侍女から、取り調べましょう。生家にも一隊差し向けます。潔白を証明できなければ、一族の成人はすべて牢に繋がれることとなる。王妃は調べが終わるまで部屋で謹慎。他の侍女も、事情の聞き取りが終わるまで城で謹慎、互いの交流は禁じる」

 これが、一国の王妃か。と思えば情けなさに声が尖っていく。斬りつけるように沙汰を言い渡せば、女の悲鳴を飲み込む音があちこちから洩れた。対照的に、リューセドルクの側近たちは、主人の言葉を実現すべく、すでに静かに動いている。

「リューセドルク、女性には優しくといつも言っているでしょう。あなたは世継ぎの王子なのですよ? 竜なんて恐ろしいものばかり優先していては、よい女性に会っても愛想を尽かされますよ」

 優しいばかりで、竜より女性を優先して、罪を犯した相手にまで不当な温情をかけるような無能でありながら、理想の世継ぎの王子と称される男がいたのなら、神がかった魅了の呪いでもかかっているに違いない。
 笑わせる。
 僅かにも頬を緩めることもなく、リューセドルクは心中吐き捨てた。
 だがもう幾度となく父王と二人、話して聞かせ、対話を試みた、その甲斐もなくこの状態なのだ。もうお前は王妃の言うことをきくことはない、と、王からも何度も言われていたのだが。
 母(王妃)は、子(リューセドルク)の体のどこかに自分の存在を焼き付けているらしい。捨て去るにはいつも一歩思い切れず。ずっと背にしなだれかかられるままに、泥の詰まった冷たく腐臭のする人形を引きずって歩いている気分だった。
 だが、その人形が、首に手を回して締め付けて来たのなら。
 ——もう、打ち捨てても、よいだろうか。
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