世界の色が失われる前に

雪原 秋冬

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第一部

2:taupe mist

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 ちゃんと空腹などを感じるようになった俺は、食事を手早く済ませて部屋に戻っていた。小説の続きを読まなくては。

 読み進めた先でようやく出てきた主人公の名前に、俺は息が詰まった。

 ――菜種空楽……正真正銘、この小説の作者である空楽のフルネームだ……。もちろん本来なら、まったく別の名前が主人公に設定されている。

 どうして、なんで、という言葉が頭を巡る。死ぬ直前に自らの本名を利用して内容を書き換えた? そんなことに何の意味が……? まさか死期を悟っていたとでも言うのか?

 仮にそうだとしても、やはり理解ができない。

『誰かこれを見ていないか』

 はやる気持ちに掻き立てられながらもさらに読み続けると、そんな台詞の描写が入っていた。異形たちは大半が夜行性のようで、昼間なら夜間よりも少なからずゆとりが生まれるらしく、疲れ果てた身体をなんとか動かしながら、ようやく登った大木の枝でつかの間の休息をとっているシーンだ。

『異世界転移、だと思うんだけど、人間を含めて意思疎通できそうな種族が全く見当たらない世界なんだ』

 遠くから異形の咆哮が聞こえるという描写に、作中の空楽のみならず俺自身も息をのんだ。

『助けてほしい』

 憔悴しきった身体を抱えながらも、解けない警戒に精神は追い詰められるばかりだ。

「……助けるっていったって、どうやって……!」

 これは本物の空楽が、どこかの異世界で実際に過ごしている風景だと思った。誰かに言えば頭がおかしくなったとしか思われないであろう解釈だとしても、俺はこの小説に住まう空楽を助けたい。

「何か……、何か連絡手段はないのか……っ」

 そう考え始めてすぐにハッとする。感想コメントがあるじゃないか。空楽に伝わるかは分からないけれど、試さないよりは絶対にマシだ。

 震えのひどい手で入力ミスを繰り返しながらも、俺はなんとかコメントを通じて空楽へコンタクトを試みた。内容の変わってしまった小説を読んでいることや、そちらの詳しい状況について、そして自分にできることはないのか、という問いかけだ。

 ネット上だから本名は伏せつつも、俺が誰だか分かるように説明も入れておいた。もちろん証明のしようがないから、空楽がそれを信じるかどうかはまた別の話だけれど。

 誰かのいたずらでそうなっているのなら、それでいい。死んでしまった空楽が、異世界で苦しんでいるという事実もなくなるのだから。

 どうか俺の勘違いであってほしいと思いながらも、もしかしたらまた空楽と話せるのかもしれないという、汚れた期待が胸を蝕んでいた。

 返信や本文に変化はないだろうか――そわそわと気持ちが落ち着かず、部屋の中を歩き回りながらこまめに確認してしまう。しかし俺の行動に対するリアクションは何も確認できないまま、いつの間にか俺は眠りについていた。

 翌朝、ドアのノック音でまどろみから現実へ引き戻される。何か夢を見ていたような気がするけれど、気のせいだったかもしれない……。

 ぼんやりとする頭で訪問してきた母の対応をしながら、どうして寝落ちしてしまったんだろう、と昨夜のことを思い起こす。

 …………。そうだ、小説……!!

 急に頭が冴えて、床に放置されたままだったスマートフォンに飛びつく。母さんとの「朝食はどうするか」という会話はもう終わっているから、すでに俺の部屋の前からはいなくなっていた。

 空楽の作品ページを確認する。感想コメントへの返信はないようで落胆したけれど、一縷の望みに賭けて本文の確認に入った。

 相変わらず俺に対する反応はない――けれど、反応しないというよりも、反応できないと表現するほうが正しい状況だった。

 安全そうな場所を見つけて少しだけ休息をとるつもりだったのに、たまりすぎた疲れがたたって深く眠り込んでしまう。そのせいですぐそばまで近づいていた異形に気付かず、耳障りな叫び声を放ちながら追ってくるものから必死に逃げまどっているようだ。

 何か手はないのか――!?

 そう思っても、こちらの行動が小説内に影響をもたらせられるのか判別できておらず、試す以前の問題だった。

「くそ……どうしたらいいんだ!」

 やっぱりこの小説は本当にただの作り話で、俺はただ馬鹿なことをしているだけなのだろうか……。それとも事実なのに、俺の声は届かないだけ……?

 分からない……。ただ一人で考えたって仕方のないことだと、心のどこかで理解はしていても、相談できる相手が誰もいない。自分と同じく空楽の小説を読んでいた友達はいるけれど、こんなこと話せるわけがない。

 俺は空楽の事故死を目の前で見てしまってから未だに立ち直れていないのだから、話したところで妄想だと一蹴されるのが妥当だ。それは家族相手でも同じで、表向きは否定しないかもしれないけれど、いずれカウンセラーが訪問してくるに決まっている。

 ……落ち着け。誰かに話さずとも、精神が荒れて態度に出てしまっては意味がない。なんとか「柊鈴真は日常を取り戻しつつある」と思わせなければ。そうしないと、俺の自由はなくなってしまう可能性だってある。

「……! そうだ!」

 直接この小説を書き換えてしまえば、空楽を救えるんじゃないか!?

 しかしそれを実行するには、空楽の家へ行く必要がある。すぐそばにいたのに空楽を救えなかったこと、俺自身はほぼ無傷だったことが彼の家族に申し訳なくて、たぶん、葬式以来会いに行っていないと思う。

 別に、先方の家族から罵られたわけでもないんだ。むしろ、よく無事だったって言ってくれていた。……空楽は死んでしまったのに。

 気持ちが沈みかけていることに気づき、切り替えるために小説の続きを読むことにした。

『――鈴真――、まさか、鈴真なのか!?』

 異形に追われ、身を隠しながらもそんな台詞が描写されている。気付いてくれた、そしてやっぱりこの小説は、本当に繋がりのある世界での出来事なのだと確信した。

 感想コメントでは伏せていた俺の本名が本文に出てしまったけれど、まあそもそも空楽の名前も出ているからな、と受け流す。それよりも、なんとか意思疎通できそうなことが判明した喜びのほうが上だ。

『俺がそっちの世界でどうなったのか分からないけど、最期の記憶を鑑みるに事故死……、したんだよな』

 俺も事故当時の状況はよく分かっていない。記憶があいまいなのもあるけれど、周りが教えてくれないからだ。でもたぶん、大型トラックが急に突っ込んできたか何かなのだと思う。それで即死した空楽から見ると、何がなんだか分からないまま転移してしまったというところだろうか。

『目が覚めたらこの世界にいたから、どうして俺がここにいるのか理由も原因もさっぱりなんだ』

 直接対話できないのがもどかしい。俺がコメントを書き込んでから空楽に届くまで、ある程度タイムラグも発生しているのだと思う。

『だから鈴真に頼めそうなことも思いつかない。ごめん』

 謝る必要なんてないのに。自然と胸からこみあげてきた感情を制御できず、涙がこぼれ落ちる。それを腕でふき取ってから、返信を感想コメントに打ち込んだ。

 ――小説自体を書き換えてみようと考えていることは、書かないほうがいいかもしれない。俺と空楽の二人だけが閲覧できる場所ではないから、閑散とした作品ページだとしても、誰かが閲覧する可能性はある。

 俺なりに考えてこちらの世界で動いてみる。だからどうか死なないで。……というようなことを入力した。

 次に空楽から反応があるのは数時間後か――あるいは翌日だろうか。もっとレスポンスよく会話できればいいのにと考えながらも、贅沢な願いだと理解はしている。

 まずは勇気を振り絞って、空楽の家に行ってみよう。スマホでもパソコンでも、何か端末が残っていれば空楽のアカウントでログインできる確率が上がる。

 しかし空楽の死からそれなりの月日が経っており、遺品整理が行われていたらどん詰まりだ。これまでの会話や行動を思い出しながらログインを試みるというのも、まあ手段としてはありだけれども……、できることならやりたくない。そもそも、それでログインできるかどうかも分からないし。
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