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八.遠雷
しおりを挟む夏が過ぎ、年が明けても種恒の容態は変わらなかった。
十三郎が一波乱起こしたなべ姫の婚礼も、暮れには何とか体裁も整い、邸内に暮らす佐渡守の子女はまたその数を減らした。
あの一件以来、十三郎が目立って万作や源之丞に悪態をつくことはなくなっていたのだった。
種恒の諭しで、多少は挙措を改めたらしい。
が、それでも源之丞と顔を突き合わせると睨み合いのような雰囲気になる。
遠巻きに牽制されている気分だが、以前のように手や足が出てこないだけましだろう。
近頃では、穏やかで如才なかった兵部のほうがぴりぴりと神経を尖らせている様子だ。
種恒に代わって、何かと裁量を仰がれることが増え、源之丞に稽古をつけたり、万作に構うことも少なくなっていた。
「源之丞、源之丞!」
不意に名を呼ばれ、源之丞ははっと顔を上げた。
同時に、庭木の松からしずる雪が、どさりと音を立てて落ちるのが目に入った。
長沼の藩邸を訪れ、庭に積もった雪に触れようと屋外に出てきたのだが、利宇やきくにせがまれて雪洞を作っている最中だったのだ。
見れば両手に抱えるほどの雪の塊を持ち上げようと、白銀の中に屈み込む万作がこちらを見上げていた。
「ぼうっとしてないで手伝ってよ、四人が入れるかまくらを作るんだから」
そう言う万作のそばには、こんもりと身丈半分ほどの雪山が築かれていた。
「ああ、悪ぃ。手伝うよ」
万作の手も頬も、鼻の先まで真っ赤になっていたが、それでも構わず一心に雪を積み上げていく。
子供が四人も収まるほどのかまくらなど、土台無理ではないかと思うものの、万作は雪に喜び懸命な様子であった。
利宇はきゃっきゃと声を上げて、きくの提げる盆の上に、歪な雪うさぎを作っては並べている。
小さな手を真っ赤にして、それでも雪に戯れるのが楽しくて仕方ないのだろう。
この頃になって漸くだが、利宇は源之丞を見ても人の背に隠れることをしなくなった。
少しは慣れてくれたのだと思う。
「万作さま、見て見て! これね、利宇と万作さまなの!」
利宇は得意げな顔で、大小の雪うさぎを載せた盆を差し出す。
大きなうさぎが万作で、小振りなものが利宇なのだろう。
緑の笹と紅い南天の実が、雪の白によく映えた。
「上手だね、利宇姫。可愛いうさぎだ」
万作が背を丸め、利宇の目線を覗き込むと、利宇は丸い頬をさらに紅潮させて、はにかんだ笑みを浮かべる。
自信作を褒められ、ご満悦らしい。
「なあ利宇姫、俺ときくも作ってくれよ。仲間だろ?」
「ちょっと源之丞どの!? ばかね、私たちが若君と姫さまの仲間って、無礼が過ぎるでしょ」
「何だよ、仲間みたいなもんだろ? きくは仲間じゃ嫌なのか?」
尋ねると、きくは一瞬目を見開いてから、何か思案するように黙り込んだ。
長沼藩邸では四人で過ごすことも多く、主従とは言え、すっかり慣れ親しんだ間柄である。
「だって、万作さまや利宇姫さまは、私たちとは身分が違う御方だからって。……お祖父様が」
「はいはい出た出た、きくの爺さんな」
時々きくの話に出てくるが、対峙したことこそないものの、すっかり厳格な頑固爺さんの印象が強くなっている。
そういう祖父に懇々と諭されてきたきくにとっては、祖父の言うことは絶対的に正しいものらしい。
ふと万作と利宇を脇目に見ると、二人は白い息を漂わせながら、せっせと追加の雪うさぎを作り始めていた。
「……ねえ。それより、万作さまのお兄さま、お加減が良くないって聞いたけど」
「だな。ずっと寝込んでるって話だ」
元々、春には父子揃ってまた国許へ入る話であったが、それは難しいだろう。
佐渡守だけで国へ入るような話も聞こえてくる。
「早くお元気になられるといいけど」
「そういや、佐久間の殿さまもあんまり丈夫じゃないよな」
元々虚弱なほうで、近頃は前に増して公務に差し支えるようになっているらしい。
身体の弱さを抱えた主君とあっては、家臣たちも落ち着かないだろう。
しかし、それでも何とか長沼佐久間家の当主を担って貰わねば、あとがない。
秋月万作との養子縁組はまだ公の許しは得ておらず、もしも安房守が卒してしまえば断絶の憂き目を見る。
「最近は利宇姫さまにもあまりお会いにならないから、利宇姫さまもお寂しい思いをされているの」
あちらでも、こちらでも、病が蔓延る。
源之丞はぐっと背伸びをした。
「はあ、どっかにぱーっと病を治せる医者がいりゃいいのにな!」
鈍色に垂れ込めた空から、またぞろ白い雪片がちらちらと落ち始めたのを合図に、四人は屋敷の中へ戻ったのであった。
***
その冬が去り、鳥の囀る季節が訪れると、父・佐渡守種信は国へ下がるために江戸を発った。
本来ならば、嫡子である種恒も同道するところだが、病状は愈々悪しく、長旅には到底耐えられないと判じられたのである。
兵部はなお、兄の治癒を試みた。
御殿医だけに留まらず、江戸市中に名医と謳われるものがあればそれを呼び、兄を診せた。
そうした甲斐はあったのだろう。
種恒も兵部の心に応えるように、何とか持ち堪えていた。
だが、冷たい風の吹く季節になると様子が一変したのである。
これまで一進一退を繰り返していたのが、ついには食事も受け付けず、嘔吐を繰り返すようになった。
莞爾として柔和だった面立ちは痩せこけ、土気色の顔に生気のない虚ろな眼が虚空を眺める。
床から起き上がることなど、最早出来なくなっていた。
「兄上、しっかりなされよ。少しでも召し上がらねば、病には勝てますまいぞ」
兵部は朦朧とした様子の兄を励まし、手ずから重湯の碗を持ち、一掬い兄の口許へ運ぶ。
無理矢理にでも流し込もうと躍起になる兵部の背を、次右衛門は居た堪れない思いで眺めていた。
「兄上、呑み込んでくださらぬか」
既に嚥下する力も失せた種恒の口の端から、重湯は空しくどろりと零れ落ちる。
それを拭い、新たに救い直しては口へ運ぶ。
それを幾度か繰り返したとき。
次右衛門は重い口を開いたのだった。
「兵部さま。もう、おやめください」
「匙医は何をしているのだ、次右衛門! 早く匙を呼べ! 兄上がこんな──」
「兵部さま!!」
思い余って大声を出すと、兵部はこちらを振り向き瞠目する。
兵部のその眼差しを真正面から見返し、次右衛門は決して言いたくはない言葉を、喉の奥から絞り出した。
「もう、手の施しようがございませぬ」
「………」
絶え絶えの息でやっと生きている。
誰の目にもそう映るだろう。
「兵部さま」
次右衛門は、再び静かに声を掛ける。
「国の殿へ、早馬を出されませ」
「おまえまで、兄上は助からぬと申すのか」
「……まことに遺憾ながら」
「………」
兵部は大きく息をつき、顔を背けた。
隠れるように目頭を押さえて沈黙する兵部から、次右衛門はあえて目を逸らす。
平素明朗な主が打ちのめされる姿は、痛ましいというほかにない。
兵部がこれほど兄を慕うのも、幼少から兄弟が逆転したような体躯の差にある。
同じ父母から生まれたというのに、兵部が十を数える頃には身丈も膂力も兄を上回っていた。
穏やかながら才知に富む種恒と、やや無骨ながら兄を庇い支える兵部の絆は、強固なものであった。
それを知りながら、諦めろと言わねばならない。
兵部の胸中を思えば、掛けるべき言葉を誤ると思った。
次右衛門は襖の向こうに控える近習に向け、ただ一言、声を絞った。
「国へ、若殿の御危篤を報せよ」
【九.へ続く】
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