晩夏の蝉

紫乃森統子

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三.ほころび

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 月日が経つほどに、戦は徐々に二本松の城下にもじりじりと迫ってくるようであった。
 二本松藩領から南に十六里ほど。この年の閏四月に白河城の攻防が始まり、二月が経とうとしている。
 白河での戦況が城下にも聞こえ始めたのも、この頃になってのことだった。
 薩長が最新鋭の軍備を整え、練り上げられた兵を進めてきているということだけは、何処からともなく常に噂に聞こえている。
 対して藩では、ゲベールやミニエーといった先込め式のものばかりで、元込めの最新式のものは殆どなかった。少し良いミニエー銃は藩士に与えられ、それより性能の劣るものは足軽が用いるといった具合だ。
 主戦力となりうる藩士は皆、白河方面の戦に出てしまい、防備の薄い城下に敵が迫れば一溜りもないだろう。
 門弟同士の噂話には、白河の戦局を憂い、或いはこの城下が戦場になるのではないかと危惧する声も上がり出している。
 戦は益々激化する一方で、良輔の通う砲術道場からも師範や高弟が出陣し、この頃には調練らしい調練も出来なくなっていた。
 師範である井上権平の嫡男が、そのあとを引受けていたが、この頃からは戦線に補給するための弾薬作りに従事することが多くなっていったのである。
 一日に一人三百もの弾薬製造を課され、まさに非常時の様相が色濃く感じられるようになった。
 火薬と鉛は其々に火薬製造所や御鍛冶で其々に造られ、良輔のような城下に残る門弟たちはそれらを弾薬包に拵えるだけだったが、黙々と行う作業は殊更鬱屈したものを感じさせる。
 日々調練のために通った道場の光景は、今や銃後のそれに様変わりしていたのである。
 火薬製造所の椿事があったのは、そんな折のことだった。
 梅雨がいやに長く、なかなか明けない雨の日が続く中、どう扱いを誤ったのか火薬が暴発する事故が起こったのだ。
「何人死んだんだ?」
「どうも四人のうち三人が駄目だったらしい」
「爆発で崩れた瓦礫に埋もれたお陰で、一人は助かったと聞いたが──。ひどい有り様だったらしいな」
 弾薬造りに精を出しながら、井上の門弟たちがひそひそと話す声に、良輔は思わず耳を欹てた。
 現場を見た者もいるらしく、盗み見た限りでは真っ白に血の気が引いたような顔色で、訥々と語っている。
「ひどいなんてものじゃない。……辺り一面、肉片だらけだ」
 ごく小さな声だったが、皆聞き耳を立てていたと見えて、一斉に息を呑む気配が聞こえた。
「ものの一瞬で、どれが誰とも区別がつかんようになった。人だったものの切れ端を、せっせと集めては樽に詰めていたんだよ」
 その声に、誰もが絶句していた。
「とてもじゃないが、暫く飯が喉を通らなかった」
 良輔もまた思わず作業の手を止めて息を詰まらせる。
 背筋が粟立ち、胃の腑の中のものが込み上げそうになるのを禁じ得なかった。
 断片を聞きかじっただけの凄惨な事故が、良輔の脳裏にも描き出される。
 火薬の製造や砲術調練でのこうした話は付き物である。
 一つ誤れば大事故に繋がることは必至で、それだけに指示指導に当たる者の責は重大なものであった。
 自らの手にある作りかけの弾薬を、良輔はじっと見詰めた。
 その火薬を用いて、来る日も来る日も大量に作るこの弾薬は、戦場で放たれることになる。
 至極当然のことだが、人の命を奪う代物なのである。
 遠い戦国の世とは異なり、長らく太平の続いた今の世では、命のやり取りに直面することなどそうあることではない。
 これまでに訓練で撃ち抜いてきた的は数知れないが、実戦でのそれは当然、人間である。
 撃てば殺め、撃たれれば命を落とす。
 そういうものを作っている実感が、急に身に染みるようであった。
「この戦、いつまで続くんだろうな」
 愚痴をこぼすような口調で、誰かが言った。
 課される弾薬製造の量から推察しても、戦は日毎に激しさを増していると考えて良い。
 近頃になって届き始めた戦況と共に、城下には戦傷を負った兵が引き上げていく姿も見られるようになっていた。
 そして誰も口にこそしないが、そうした光景はこの後も絶えず続き、それが増えれば増えるほど敵は城下に迫ってくるのである。
 これまでは弱気な事を言う者も殆どなく、どちらかといえば敵なぞ返討ちにしてやれと豪語して憚らない空気があったものだが、この日は流石に皆が口を噤み、黙々と手作業の音が響くのみであった。
 
   ***
 
 一日の作業を終えて帰途に着いた良輔の足取りは、いつになく重かった。
 大人たちが戦のために白河口へ出陣してゆくのを見送った時には、不安などは一切思わなかった。寧ろ羨望に近いものを胸に抱いてすらいたのである。
 父は相変わらず役目のために城に詰めることが殆どであったし、自分の身に火の粉が降りかかる実感は薄かったかもしれない。
 それが今は、襲い来る戦雲のその黒さに慄く自分がいる。
(こんなことじゃ駄目だ。おれだって、武士の子なのに──)
 下駄の歯が道端の砂を噛んで音を立てるのと同時に、良輔は吐息した。
 郭内の家中屋敷からはいつもと変わらず炊煙が上がっていたが、それでも一気に人が減り、閑散とした空気が漂う。
 主が不在の家が殆どだろう。老父母や妻子が、家長の無事の帰還を待っている。
 未だ落ちきらぬ薄暮の空には、東に明るい月が昇っていた。
 背後から駆け寄る下駄の音と、賑やかに良輔を呼ぶ声がした。
「おぉい、良輔!」
 それが丈太郎の声であることは、顔を見るまでもなく判った。
 何か嬉しいことがあったかのように声は軽やかで、宵の口であるのを忘れさせるかのような明るさだった。
「丈太郎──と、才次郎も一緒か」
 二人が揃ってこちらに駆け寄る姿に、良輔は一瞬不思議なものを覚えた。
 どちらとも同い年でよく一緒に遊ぶ間柄ではあるが、丈太郎と才次郎は同じ砲術塾に入門して以来、これまで以上に親しくなったように感じる。
 学館でこそ三人共に過ごすことは多いが、他は大概、丈太郎と良輔、才次郎と良輔というような組合せが日常だったせいだろうか。
 丈太郎と才次郎の二人組というのが、意外な組合せに見えたのだ。
「良輔、聞いてくれよ! おれたち、お城に出陣の嘆願書を出すんだ」
 良輔の側まで来ると、才次郎が声を弾ませる。
 そこに畳み掛けるように、丈太郎も浮足立ったようにそわそわとしながら補足に掛かった。
「銃太郎先生に頼んだら、代わりに出してくれるって!」
「すごいだろ? お城のお許しが貰えたら、おれたちも戦に出られるんだよ」
 目を輝かせて話す二人を前に、良輔は内心でぎくりとした。
 確かに、木村銃太郎の門下は頗る評判が良かった。
 先月に行われた大掛かりな軍事調練でも、その技能が評価されていたらしい、というのは良輔も聞き及んでいた。
「だけど、白河も薩長に押されているみたいだし、おれたちが戦に出ても、本当に役に立つのかな……」
 藩の大人たちを以てしても苦戦を強いられているようなのに、子供が出る幕などあるのだろうか。
 初陣は目出度いことには違いないが、喜び勇んで燥いだ様子の二人の高揚ぶりに、良輔は得体の知れない違和感を抱いた。
 戦に出るということは、人を殺め、自らも死ぬ覚悟を決めておかねばならない。
 そういう命のやり取りをするという気迫が伴っているようには見えず、ただ単純に大人として扱われる事に無条件に浮かれているように思えたのである。
 丈太郎も才次郎も、恐らくは良輔もまた喜ぶはずだと踏んでいたのだろう。良輔の沈んだままの顔を怪訝そうに覗く。
「なんだよ、良輔は嬉しくないのか?」
「しっかりしろよ、そんなんじゃ出陣しても戦えないぞ!」
 丈太郎が良輔の背を二度三度と叩いて励ますと、才次郎もまた口を開く。
「そうだよ。銃太郎先生となら戦で死ぬのも怖くない。良輔も今からでもおれたちのところに来いよ。若先生は本当に強くて優しいんだぞ」
 真っ直ぐに良輔の目を見て言う才次郎の声は、弾んでいた。
 弟子入りして間もない砲術師範を心底から慕っている様子で、ほんの少し前、嫁いだ姉の不在に寂しげな顔をしていたとは思えないほど輝いた目をしている。
 少し前なら、良輔も二人と同様、一日も早く出陣して戦に出たいと思っていただろう。
「なあ」
 思わず、声が出ていた。
「おまえら、本当に戦で死ぬ覚悟なんか出来てるのか」
 こんなことを言えば、臆病者と誹られ嘲笑されるかもしれない。
 しかし、一度堰を切ってしまうと止め処もなく溢れ出る。
「おれは怖いよ。戦に出たら、今までとは違う。張りぼてや兎を狙って射撃するわけじゃない。的は生きた人間だし、敵からすれば、おれたちが的になるんだぞ」
 二人と目を合わせることは出来なかった。
「そんなの当然だろう。今更なに言い出すんだよ」
「良輔、本当にどうしちゃったんだよ。そんなに心配することないよ、敵のヘロヘロ弾なんか当たりっこないって!」
「おまえら、何にも解ってないだろ!? 本当に解ってたら、そんなふうに燥げるもんか!」
 徐々にこの城下に迫り来る薩長軍を相手に戦うことを思えば、二人のような士気の高さは絶対的に必要で、そこに水を差し、怯懦を誘うようなことを言うほうが間違っている。
 心のどこかで、それは解っていた。
 それでも、家も家族も友人も失うかもしれないことを思うと、肝が縮む思いがした。
 一方で、仕える主君とこの地を守るために戦い、結果命を落とすのなら本望だと思う自分も未だにいるのである。
 珍しく声を荒らげた良輔に不意を突かれたのか、才次郎も丈太郎も吃驚したように目を見開いていた。
「……ごめん、言い過ぎた。弾ばっかり造っててちょっと気が塞いでたんだ」
 辛うじて詫びたものの、一度失言してしまったことに居心地の悪さを感じ、良輔は二人が言い返す前にその場を駆け出してしまっていた。
 
   ***
 
「若先生、白河の戦は今どうなっているのでしょうか」
 才次郎は夕日を受けて茜に照らされる銃太郎の顔を見上げて訊ねた。
 城下の中央を東西に分断するように走る観音丘陵の南側には、才股川と呼ばれる小さな川が、これもまた東西に横たわっていた。
 西の安達太良山から東の阿武隈川へと注ぎ込む才股川は、川幅も狭く、短時間でも強い雨が降れば瞬く間に増水して氾濫する。
 この年はどうも雨天の日が多く、川の水嵩はいつもより幾分増していた。
 近頃では弾薬の不足を補うため、この川の付近で火薬の調合を行うようになっていたのだ。
 城下の砲術道場が当番制で行っていたが、銃太郎の道場にもその役割が課せられることとなったのである。
 戦線への弾薬補充の目的は勿論だが、これも砲術を学ぶ上では大事な要素だ。一石二鳥で良かろうと、先日の銃太郎は笑っていた。
 威厳の漂う面差しに、時折屈託のない優しい笑顔を浮かべる銃太郎は、不安や懸念を門弟たちに溢すことはなかった。
 だが、この頃の城下の空気は明らかに緊迫し、城に出入りする士の纏う雰囲気は、何とも言えず不穏なものだった。
 白河の戦況が思わしくないことなど、聞くまでもないことかもしれない。
 銃太郎のあとを、互いにじゃれ合いながらぞろぞろとついてくる仲間たちを尻目に、才次郎はじっと銃太郎の横顔を見上げた。
 戦況を訊ねられると、銃太郎はふむ、と僅かに考え込むような素振りを見せる。
 そして他の子らが聞き耳を立てていないことを確かめてから、才次郎にだけ届く声で返した。
「あまり楽観はできないだろう」
「では、二本松まで敵がやって来るのでしょうか」
「それは分からない。このまま戦が続けば、いずれそうなるかも知れないな」
「もしも敵がここまで来たら、私たちは勝てるのでしょうか?」
 才次郎のその問いで、銃太郎の返答が途切れた。
 ほんの刹那、銃太郎が吃驚したように才次郎を見る。
 そうして、少し考え込むような素振りのあとで、銃太郎は微笑みかけた。
「……大丈夫だ」
「………」
 それは僅かでも気を抜けば見逃してしまうほどに一瞬のことだったが、常に泰然として動じない銃太郎が初めて言い淀んだ瞬間だった。
 あとをついてきていた他の門弟たちは、何を競い出したものか賑やかに笑い合いながら銃太郎と才次郎を追い越して駆け出して行く。
 才次郎の耳に、その愉し気な声が、俄かに遠のいたような気がした。
 
 
 【四.へ続く】
 
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