夏の雪

アズルド

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第二十一章

天の川

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 夏海に抱きしめられて手を握ったまま、小雪はいつの間にか眠ってしまった。目が覚めると夏海はいなくなっていた。市役所の方へ行ってみると、夏海の怒鳴り声が聞こえる。

「ふざけんな!」

「まあまあそんなに怒らないで?血圧が上がったらまた気絶しちゃうよ…」

 ヘラヘラ笑いながら中山が社会福祉課の相談窓口に座ってアクリル板越しに夏海と話している。

「どうしたの?夏海君…」

「どうもこうもねぇよ?」

「とりあえずシャワーのお湯が出れば問題は解決する。俺が直せるか見てみるよ?」

「壊れてたら修理代は誰が払うんだ?」

「夏海君のお父さんに請求するよ?夏海君は何にも心配しなくて良いから」

「親父の金に頼りたくねぇって何百万回言えばわかる?」

「わかった、わかった。お父さんには請求しないから安心して?」

 怒り狂っている夏海と一緒に、中山は風呂の裏に設置してある室外機を囲っている小屋の扉を開いた。小雪も後ろから覗き込んでいる。

「ああ、これは…随分と古い温水器だ」

「それで…中山さんに修理できそうなら、俺は金を払わなくて良いんだよな?」

「うん、これはね。灯油で沸かすタイプの温水器なんだ。灯油切れでお湯が出なかったみたいだから、灯油を入れたら大丈夫だよ?」

「灯油なんか買う金ねぇんだけど?そもそも灯油を入れたタンクを運ぶにしても、ガソリンスタンドから手で持って、ここまで運ぶのどんだけ大変だと思ってんだよ!」

「それなら配達業者を手配するよ?リース料金を支払えば定期的に給油してくれる」

「それはいくらかかるんだ?」

「う~ん、灯油代も含めると…月一万円はかかってしまうかな…」

「はぁ?なんで風呂に入るだけで、そんなに金がかかるんだよ!誰も住みたがらない理由がわかってきた…」

「とりあえず今回の分は俺が自腹で払うから許してくれる?」

「なんで中山さんが自腹で払うんだよ?中山さんはこれが灯油で沸かす温水器って知らなかったんだよな」

「こんな古いやつがいまだにあるとはね。ほとんど電気温水器になってるから」

 中山は慌ててガソリンスタンドに行くと灯油を買ってタンクを持って来た。それをポンプで温水器に流し込んでいる。

「それじゃ、とりあえず今回は俺が灯油代払います。風呂がないと小雪さんも困るんで」

「灯油代は俺に払わせてや?夏海君には迷惑かけてしまったから」

「わざとじゃないってわかったんで、中山さんに自腹切らせたくないんすよ…」

「夏海君は真面目だからね。他の障害者ならそんな事気にしないよ?」

 夏海は灯油代だけ中山に支払った。中山は笑顔で去って行った。

「良かったね?やっぱり中山さんは良い人みたいで」

「ああ、最初はわかっててわざと言わなかったのかと思ってたんだよ。それで修理代を親に請求するとか言うから腹立ってキレた…」

「普通は入居してすぐお風呂が壊れてたら大家さんが支払うものなんだけど、どうして夏海君が支払わなきゃならないの?」

「ああ、普通の物件じゃなくて、持ち主が財産放棄して、役所が引き取った物件らしくてさ、取り壊すのが面倒だし、税金の無駄遣いだからって、こうやって障害者に貸してる。つまり修理代は障害者持ちなんだよ…」

「支援って言うより、いらない物件を押しつけて、壊れたらお金を取るって感じなんだね…」

「でも店舗付き物件はマジで有り難い。これで一儲け出来たら、何とかなるかもしれねぇし」

「そうだよね!私も店番とか頑張るよ」

「小雪さんが看板娘になってくれたら、お客さん増えそうだな!」

 店舗の方を覗いてみると、元美容室だっただけあり、置かれている家具のデザインも洗練された物ばかりだった。店内を掃除して綺麗に飾り付ければ、すぐにでも開店出来そうだ。

「でもどうして浴室の前に温水器の操作パネルがあったんだろ?」

「俺もそれが気になってたんだ。中山さんに聞きに行くか…」

「あっ、もしかして!もう一度、操作パネル見に行こ?」

 小雪が何か思い付いたように浴室の前に行くと操作パネルをじっくりと見ている。

「やっぱり!これ浴室乾燥機だよ?うちのマンションにも付いてるから、これがあったらすごく便利なの」

「なんでこんなオンボロ物件にそんなハイテクなもんが…謎過ぎる!」

「私もまさか…と思ってたから、昨日は気付かなくてごめんね?」

「浴室乾燥機なんぞ見た事も触った事もない…」

 気を取り直して定時制高校の昼の授業に行く支度をすると、市役所の前のバス停からバスに乗った。小雪は昨日休む連絡を予めして置いたので、定時制高校を休んだと言う連絡は母親に行っていない。全て小雪の計画通りである。

「今からお湯沸かしとけば、今夜はシャワーが使えると思うから」

「灯油代、私も半分払うよ。それならリース代が一万円だったとしても、夏海君は五千円で済むでしょ?」

「そうしてもらえるとマジで助かる…」

「二人で住むんだから光熱費も半分こしようね」

「自動ドアは電気通っても開かなかったけど、やっぱり壊れてんのかな?」

「そうかもしれないね…。修理代が高くつきそうだから怖いな…」

「自動ドアの修理代なんていくらなのか想像も付かんけど…」

 高校の前のバス停に到着すると、小雪の同級生が手を振って話しかけて来た。

「小雪~、なんで彼氏とバスで一緒に登校して来たん?」

「えへへ~、実は夏海君と同棲する事になったんだ」

「えええっ!マジで?彼氏と同棲なんて羨ましい~」

「お母さんには内緒なんだけどね」

 小雪は指を唇に押し当てるポーズをしてから、舌を少しぺろっと出した。

「お母さんに内緒なん?バレたらヤバくない…」

「バレないように上手くやってるけど、そのうちバレそうだから、私の誕生日までに何とかしようと思ってる」

「小雪の誕生日まで後少しだね!」

「今年の誕生日は夏海君と一緒に過ごせるから楽しみだよ?」

「昨日は授業休んでたから、どうしたのかな?って心配してたんだよ」

「引っ越しの片付けで忙しくて、腕が攣るほど大変だったけど、めちゃくちゃ楽しかった!」

「このリア充め!爆発しろ~」

 女子高生二人でキャッキャッウフフしてるので、夏海は早足で先に校舎の方へ行ってしまった。

「小雪の彼氏、素っ気ないなぁ~」

「二人っきりでいる時はめちゃくちゃ優しいんだよ?誰かいる時は素っ気ないけど」

「ツンデレ系?萌える~」

 放課後、夏海と小雪はスーパーに買い出しに行く。高校の近くのスーパーは店舗付き物件の近くのスーパーより値段が安い。あれこれ買って、両手いっぱいのレジ袋を持って、二人はバスに乗り込んだ。

「冷蔵庫付きなのは有り難いよな」

「冷蔵庫も壊れてないかな?」

「一応、中身はチェックしたけど、まだ電源入れてないから、冷えるかどうかはわからん…」

「冷蔵庫の中の物は全部、生ゴミに出したんだよね?」

「一年間、電源の入ってない冷蔵庫に入ってたもんだからな…」

「冷蔵庫の中、臭くなってなかった?」

「念入りに拭いといたから大丈夫だと思うけど」

「日持ちしづらい物はあんまり買ってないけど、冷蔵庫は使えた方が良いよね」

 帰宅してキッチンへ行くと、冷蔵庫の中にあれこれ詰めて電源を入れる。

「しばらく置いといて後で冷えてるか様子を見に来よう」

「寒い季節で良かったね。夏だったらすぐに腐っちゃうから」

「炊飯器とフライヤーは割り勘で買うか?フライヤーがいくらなのか知らんけど…」

「炊飯器は弁償してもらうんじゃなかったの?」

「弁償は出来ないって言われた。中山さんのメモにも炊飯器って書いてなかったらしくて、俺が言い忘れた事にされたけど、絶対に言ったから!」

「私も聞いてたけど夏海君、三回くらい炊飯器は使うから捨てないでくれって言ってたよ?」

「俺、言ったよな?三回言っても誰も覚えてないって口裏合わせて誤魔化すとかイラッと来た…」

「やっぱり中山さんって悪い人なのかな?メモだって後でこっそり書き換えたり出来るし…」

「いや、それはないな。俺が見てる前ですぐにメモは持って来たから」

「盗聴器で私たちの話を盗み聞きしてたら昨日のうちにメモも書き換えできるんじゃない?」

「盗聴器?まさか社会福祉課の連中がそこまでするか…」

「私…昔ね…盗聴器で盗聴された事があるから…一人目のお養父さんに…」

「その変態野郎は頭がイカれてるんだよ?普通は盗聴器なんか仕掛けねぇって」

「なんだか怖くなって来ちゃったよ…」

「この家に住むのが嫌だったら、いつでも家に帰っても良いんだぞ?」

「あの家に住むのは…もっと嫌!」

「確かに…浴室乾燥機で乾かしてた…蝶柄の下着の匂いを嗅いでたんだよな?今の再婚相手も…」

「あれ以来、気持ち悪くて下着は自分の部屋で干してたんだけど、自然乾燥だと乾くのが遅いんだよ」

「小雪さんの周りにいる変態野郎は俺の周りにいる嫌な奴と少し違うからな…」

「私も夏海君に出会った時、こんな心の綺麗で優しい人がこの世にいるなんて…って思ったから」

「いやいや、何言ってんだ。俺の心…めっちゃ穢れてるんですけど?」

「私の周りにはいなかったよ?こんな純粋で穢れを知らない天使みたいな男の人…」

「おい、待て!俺のどこが天使やねん?どう見ても悪魔やろが…」

「私にとっては夏海君は天使なの!私の方が悪魔だもん」

「確かに…小悪魔のように魅力的ではあるが、小雪さんの方が天使だと思ってた…」

 小雪はシャワーを浴びてタオルを巻くとリビングに出てくる。夏海はテレビを見ていた。小雪は冷蔵庫の中の牛乳をコップに注いで飲んでみる。ひんやり冷えていた。

「良かった!冷蔵庫は壊れてないみたいだよ?」

「ん?ちゃんと冷えてたか~」

 テレビを見ている夏海が振り返ると、小雪の胸の谷間が目の前にあった。

「うわぁ!なんて格好で歩き回ってんだ?パジャマ着ろよ…」

「牛乳は早めに飲んだ方が良いと思って、夏海君もお風呂上がりに飲む?」

「牛乳より…いや、何でもない…」

 小雪はパジャマを着ないで、リビングで寛ぎ始めた。

「暖房とかないから寒くないか?」

「ううん、お湯がめちゃくちゃ熱くて、灯油だと電気より浴室が暑くなるんだね?」

「そんなに浴室は暑かったのか…。やっぱり温水器が壊れてるんじゃないか?」

「ううん、電気だとなかなか暖かいお湯が出て来ない時あるけど、すぐに暖かいのが出て来たし、温度も温泉みたいで気持ち良かったよ」

「そんじゃ俺も風呂に入ってくるか…」

「なんか夫婦みたいだね、私たち」

「小雪さんの誕生日になったら婚姻届出しに行くんだろ?すぐそこの市役所に」

「証人欄のサインがまだだから、竹田さんと春海ママにサインしてもらってくるね」

「小雪さんの母親には、言わなくて良いのか?俺との結婚の事…」

「言ったら反対してくるから言わない」

「娘が知らん間に馬の骨と結婚してたら驚くだろな」

「夏海君は馬の骨なんかじゃないよ?むしろ白馬に乗った王子様だから!」

「小雪さんの脳内で俺はどんだけ美化されてんだ…」
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