甘味食して、甘淫に沈む

11

　店の様子が落ち着いた頃を見計らい、春信は明臣の下宿先へと向かった。
　いつ発つとは決まってはいなくとも、昭蔵は早々に返事をするだろう。一秒でも長く、明臣の顔を目に焼き付けておきたかったのだ。
　明臣の暮らす木で組まれた長屋は大きいが古く、履き物を脱いで框を上がるとぎしりと嫌な音が立つ。中央からＴ字に延びており、春信は慣れた足取りで左へと曲がる。
　長廊下の左右には部屋が並んでいる。
　一体、何人の人間がここにいるのか。何度も通っているが、その全容は分からないままだ。何度か下宿の人間と出くわすが、会釈するぐらいなものだった。
　貯蓄をするにはここは安くて良いらしく、明臣はいつかは二人でこの村を出て暮らそうと言ってくれていた。
　春信は嬉しく思う反面、それは夢物語だと冷めている自分もいた。
　それがこんなにも早く、その日が訪れるとは、考えてはいなかったが。
　奥から二番目の部屋の襖を開く。明臣はまだ、仕事から帰って来ていないようで、部屋の中は静まり返っている。
　春信は懐中時計を袂から取り出す。時刻はまだ、午後二時になったばかりだった。
　明臣は仕事に出ていて、戻ってくるまでにまだ時間がある。
　春信は三つ引き出しのついた小さな桐箪笥の前に立つ。そこには書物が並べられていて、どれも春信のものだった。どれにしようかと視線を流すと、不意に箪笥の横に置かれた屑籠に目が留まる。
　中には破かれたり、丸められた紙が入っていた。好奇心に負け、それを手に取る。中身を検めると、どうやら恋文のようだった。
　春信は苦笑する。明臣は仕事で配達の際に村の娘達から直接、手紙を渡されることがあると言っていたのだ。大事な内容だったらいけないと、一応目を通すが恋文だと分かるやいなや、眉間に深い皺をつくり、丸めて捨ててしまうのだ。
　男らしくやや強面にも見えるが、人当たりもよく、愛想だって悪くない。想いを寄せられるのも仕方がないことだった。
　春信は屑籠にそれらを戻すと、再び選書に戻る。
　読書家である春信は、時間があるときには必ず本を開く。小さい頃から兄は父と家業を、自分は一人遊びが多かったこともある。
　加えてどんなにおかしいと思っても、昭蔵の意見が正であるとされることに対する疑問もあった。それが何故なのか。その答えを得たくて、探しているというのもあるのだろう。
　明臣は本を全く読まないのに、春信から借りたがった。
　字の読み書きが不得手だと小学校時代から、事あるごとに嘆いていた姿を見ているだけに、きっと読んでなどいないだろうと予想できた。
　それでも春信と一つでも多くの繋がりが欲しいと、健気にも挑戦しているのかもしれない。だからこそ、春信も開かれる事はないだろう本を渡していた。
　愛おしさを思いだし、春信は胸に痛みが襲う。
　去年の夏頃に貸していた本に久しぶりに対面し、薄茶けて日焼けしている表紙を撫でる。ざらついた表面には『氷層』という名が打たれている。
　一頁ページずつゆっくりめくり、文字を縦に目で追っていく。その瞬間、春信の周囲は無音となり、手元にある世界へと沈んでいく。
　男女の心中が描かれた作品で、自由恋愛がまだ認められない世を儚む男女の様子が美しい筆致で描かれていた。
　心中したいとは思わずとも、この男女のように曲がりならない事情があるという面では同情を禁じ得なかった。
　一番最後の頁で溶けるように二人が海へと消えていく描写を見送ったところで、春信はやっと背後の暖かさに気づく。
　肩を跳ね上げ、首だけ振り返る。腰に手を回し、肩に顔を埋めている明臣と目があった。