甘味食して、甘淫に沈む

箕田 はる

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 黙々と小豆の選別をしながら、春信は先日のことを考えていた。
 いつもは温和な清次が見せた、冷酷な表情。あの時は恐怖を感じたが、それでも軽蔑は覚えない。それどころか、彼が受けていた折檻の傷が今なお、彼の心に遺されているという事実を哀れに思っていた。
 春信もよく、父親に打たれたりもしたが、あくまでも手のひらだった。だが、清次は違う。尻や背中を皮のベルトで打ち付けられるのだ。
 よく、木の陰に腰掛けた際に、清次は僅かに顔を歪めていた。指摘するとそのような事を言われたのだ。
 春信が痛ましげに顔を歪めていると、不意に電鈴が鳴る。
 春信は顔を上げる。倉田は買い物に出てしまい、家には春信一人だった。
 春信は手を止めて、立ち上がると玄関へと向かう。扉を開けると目の前にいた男の姿に、春信は絶句する。
 郵便局員の制服姿で立つ明臣に、春信は「どうして」と言うので精一杯だった。
「言っただろ。どこにいたって見つけ出すってな」
 春信はどう返していいか分からず、口を薄く開いたまま言葉を探す。
「逃げるぞ。一緒に」
 明臣が決意を固めた顔で迫り、春信の腕を掴む。春信は逡巡する。自分が望んでいたはずの結果にも関わらず、素直に喜べない自分がいたのだ。決して明臣を嫌いになったからではない。今でも思い出しては、罪悪感と寂寥感に胸が張り裂けそうになる。
 だが、今はその手を取ることは出来なかった。
「ごめん、明臣。僕はいけない」
「何故だ? あいつに脅されているからか?」
 明臣が春信の両肩を掴み揺さぶる。
 そんな顔をさせてしまうことを春信は心苦しく思う。それでもせっかく清次が与えてくれた機会を逃すわけにはいかなかった。
「そうじゃない。僕はやらなくちゃいけないことがあるんだ」
 逸らしていた視線を明臣に向ける。顔を歪める明臣を前に、春信は拳を強く握る。
「やらなきゃいけないことだと?」
「うん。だから、今は明臣とは行けない」
 明臣の手が離れる。苦しげに俯いたあと、「分かった」と明臣が息を吐く。
「お前は頑固だからな。俺が今、何言ったところで曲げないことぐらい分かる」
「……明臣」
「だけどな、それが終わったら俺と一緒に、ここを出るぞ」
 明臣が横掛けにしていた黒の鞄に手を入れる。それから取り出した一冊の本を春信に差し出す。
「……これって」
「あの日、お前が読んでいたやつだ。俺も読んだんだ。お前を思い出しながらな」
 その本は明臣と過ごした最後の日に、あの部屋で読んでいた『氷層』だった。
「この本の男みたいに、俺の腹は決まっている。どんなことがあっても、お前と何処どこまででも行くつもりだ」
 明臣の腹を据えた姿に、春信は心が揺らぎそうになる。それでも必死で押さえ込み、春信は明臣の顔を真っ直ぐ見て頷く。
 そこでちょうど玄関が開かれ、倉田が姿を現す。
 明臣が目深に帽子を被り、会釈すると倉田の横を通り過ぎて玄関を出ていく。
「何かお届け物ですか?」
 倉田は明臣が出ていった方を振り返り、それから怪訝な顔を春信に向ける。
「いや、家を間違えたみたい。場所を聞かれたんだ」
「……そうですか」
 倉田は怪しんでいるようだったが、これ以上言い訳する方が疑いが深まると春信は二階へと向かう。
 二階の窓から外を見ると、ちょうど明臣が自転車で去っていくところだった。
 消えた先を見つめ、春信は本を持つ手に力を込める。
 自分は本当にここから出られるのだろうか。清次を残して――
 答えが出せないまま、春信は続きをする為に本を置いて部屋を出た。
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