32 / 81
別れの時
しおりを挟む
おじいさまに促され、一息ついて始まったのはアシルによる離縁計画。
ここまでくるとアシルもすでに開き直っている。
なんだかんだ言っても彼はアランブールの後ろ盾を失うだけで、借財も帳消しになり贅沢な暮らしも失わない。
もっともアシルも未亡人も生家は男爵位、立場は若干下がるだろうが。
何度も言うがあれでも一応父親だ。僕は世間の目もあり円満な縁切りを望んでいる。商売とは印象が大切だ。
アシルがジーンとの結婚で手に入れたもの、それらすべてを取り返せるなら貶めたいとまでは思っていない。アシルが落ちぶれれば、なんだかんだいって影響はある。
だが未亡人は苛烈な女性だ。
アシルが手に入れた今までと変わらぬ生活。それはあらゆる自由を担保に入れてのもの。その事実にいつ気が付くか。それはそれで見ものである。
ここにきて気付いたのだが、アシルへの返事を約束の時間ギリギリまで引き延ばしたのも未亡人の策略、そんな気がする…
さて、気を取り直したアシルの舌は滑らかだ。
「私にはベルナールと言う息子がいる。つまり私の能力に疑いはない。これが一つ」
それはそうだが息子の前で何言ってるんだか…
「ベルナールの前で話す事でもありませんが、私とミレイユには頻繁な共寝の時間がありましてね」
ギュゥゥ…
「い!痛いよイリス…。いやなに、ミレイユは非情に精が強くてね…わ、私はそれほどしたくはなかったのだよ。本当だよ…」
あ、こいつミレイユに擦り付けたな…
「と、とにかくこれが二つ目」
「ふむ…」
「そうして次がすでに婚姻から五年以上が過ぎていること。なのにミレイユは一度も身籠っていない」
「うむ。憂慮していたが幸いだった」
いや実に。
僕の暗躍はおじいさまにとって渡りに船と言えるだろう。
アランブールの血を引かなくとも、僕に母親の出自が庶民位の異母弟が出来ることはおじいさまにとって好ましくない。
これは随分高慢に聞こえるだろうが、貴族にとって血統とはなにより優先されるべきもの。おじいさまの憂慮は当然のことだ。
「これが三つ目。十分だと思うがいかがか」
「…ミレイユ夫人には前の婚姻時に子供が居たと噂がありますが…」
「おやディーン。君も耳にしていたのか。あれはただの噂だよ」
思わず口を挟むディディエ。彼にしてみれば頭の中は疑問符だらけだろう。
だってアシルは子供の存在を知っているはずだし、離縁したくないミレイユが偽証に同意するはずは無い。
「念のため私はミレイユの暮らしていた下町を調べたのだがね、そこに夫はすでにいなかったのだよ。まして子供など」
いないでしょうよ。二人とも僕の庇護下だし。
「聞いてまわったが近隣の住人はどこへ行ったかもわからぬと言うのだ」
まあ…あの時は拉致るかのように着の身着のまま連れて行ったからな…
「そのうえ赤子を取り上げた産婆すら見つからない」
その産婆はディディエがここに来て一年後ぐらいに病で亡くなっている。ディディエが葬式に出たんだから間違いない。
「ならば子供がいたという証明がどうしてできる。現にミレイユは前夫との婚姻時からここに住み込んでいた。幼子を持つ母がそのような真似をするものか」
なるほど。アシルにしては知恵が回るじゃないか。
所詮家系図を必要としない庶民とは貴族と違って、結婚も…出産も…書類に残すわけではない。
おそらくアシルは元夫と子を口止めするつもりで下町を訪ねたのだろう。が、直接関係者がとうに誰もいないことで、今のミレイユに子供を産んだ証明など到底出来ないと考えたのだ。
ディディエは言っていたじゃないか。ディディエの断乳に合わせ屋敷勤めを始めたミレイユ。その帰宅は週一が二週になり月一になり、そのうち二か月に一度になり…僅か二年で帰らなくなったのだと。
あの長屋はディディエが生まれてから住み着いた住居だ。
つまり隣近所が知るのは一組の父子。ミレイユを知る人物が居たとして、「あれは雇った乳母」と言い切れば通りそうだ。
「そもそも考えてもみたまえ。ミレイユは夫の不能で離縁したのだ。子供が居てはおかしいではないか」
「…」
あれはミレイユの雇った暴漢による後天的なもの。アシルの理屈は穴だらけなのだが…
けれど僕はパスカルを訪ねたあの日、父の尊厳を傷つけられ涙するディディエを気の毒に思い、これ以上パスカルとディディエの名誉を損なわないよう、パスカルの〝子孫繁栄の玉”については一切口外無用と、長屋、工房、パスカルを見た医師、ついでに離縁を受理した教会へも、アランブールの名と、口止め料と言う名の寄付によってかなり厳重に箝口令を敷いていた。
アシル…なんと強運な男だろう!
玉の喪失は本物の犯罪。所詮ミレイユからは明るみに出せないのだ。
これらの前提に立ったうえでミレイユが子の存在を主張したらどうなる?
パスカルの不能を理由に離縁はすでに認められている。
そして僕は教会に年間かなり多額の寄付を収めている。(この国において教会には力があるからね)
その僕からの箝口令によって暴漢の事実を表に出せない以上、その心証下でミレイユが子の存在を強く主張すれば、困った教会はそれを不義の子と断じるだろう。
え?汚いって?いやいや、世の中こんなものだ。
そして不貞は重罪…
つまりどう転んでも子を産んだと主張すればミレイユは詰む。
ジーンに見初められた時から感じていたが…強運もその者の財産。きっとアシルはこれからもこんな風に軽薄なまま生きていくのだろう…お見それしたよ!
この後、僕とおじいさまの見守る前でアシルによるミレイユへの離縁状は書き上げられ、それは執事シメオンによって即刻教会へと届けられた。
通常であれば確認のための修道士は一週間程度後にくるものだが、さっさとミレイユを追い出してしまいたいおじいさまは、教会に袖の下を握らせた。
夕刻には修道士がやって来て形ばかりの確認をし、その場で離縁が認められた。
え?いい加減だって?いやいや、世の中こんなもんだって。
その後おじいさまは明日にでもここを出るようミレイユに伝え、ミレイユは肩を震わせながら、それでも頷くしか出来なかった。
そして次の日。
図々しくもちゃっかり朝食を要求したミレイユはどこか着ぶくれした状態でこの屋敷を出て行った。
これはおじいさまが、持ち出す衣類として、着用分とトランク一つ分の着替えは許す。と言ったため、ミレイユは着こめるだけ着こんでいったのだ。
とは言え、豪華なドレスの類はすでに道具屋へ売り渡している。ミレイユが持ち出せたのは装飾の無い普段着ばかりだ。悪しからず。
「ディディエ、これでミレイユの再再婚は難しくなるだろうね」
「そうだな…」
家庭を捨てたミレイユ。その因果により今度は家庭から捨てられるのだ。
「結局あの女は最後まで俺に気づかなかったな」
他人事みたいにディディエが言った。
ここまでくるとアシルもすでに開き直っている。
なんだかんだ言っても彼はアランブールの後ろ盾を失うだけで、借財も帳消しになり贅沢な暮らしも失わない。
もっともアシルも未亡人も生家は男爵位、立場は若干下がるだろうが。
何度も言うがあれでも一応父親だ。僕は世間の目もあり円満な縁切りを望んでいる。商売とは印象が大切だ。
アシルがジーンとの結婚で手に入れたもの、それらすべてを取り返せるなら貶めたいとまでは思っていない。アシルが落ちぶれれば、なんだかんだいって影響はある。
だが未亡人は苛烈な女性だ。
アシルが手に入れた今までと変わらぬ生活。それはあらゆる自由を担保に入れてのもの。その事実にいつ気が付くか。それはそれで見ものである。
ここにきて気付いたのだが、アシルへの返事を約束の時間ギリギリまで引き延ばしたのも未亡人の策略、そんな気がする…
さて、気を取り直したアシルの舌は滑らかだ。
「私にはベルナールと言う息子がいる。つまり私の能力に疑いはない。これが一つ」
それはそうだが息子の前で何言ってるんだか…
「ベルナールの前で話す事でもありませんが、私とミレイユには頻繁な共寝の時間がありましてね」
ギュゥゥ…
「い!痛いよイリス…。いやなに、ミレイユは非情に精が強くてね…わ、私はそれほどしたくはなかったのだよ。本当だよ…」
あ、こいつミレイユに擦り付けたな…
「と、とにかくこれが二つ目」
「ふむ…」
「そうして次がすでに婚姻から五年以上が過ぎていること。なのにミレイユは一度も身籠っていない」
「うむ。憂慮していたが幸いだった」
いや実に。
僕の暗躍はおじいさまにとって渡りに船と言えるだろう。
アランブールの血を引かなくとも、僕に母親の出自が庶民位の異母弟が出来ることはおじいさまにとって好ましくない。
これは随分高慢に聞こえるだろうが、貴族にとって血統とはなにより優先されるべきもの。おじいさまの憂慮は当然のことだ。
「これが三つ目。十分だと思うがいかがか」
「…ミレイユ夫人には前の婚姻時に子供が居たと噂がありますが…」
「おやディーン。君も耳にしていたのか。あれはただの噂だよ」
思わず口を挟むディディエ。彼にしてみれば頭の中は疑問符だらけだろう。
だってアシルは子供の存在を知っているはずだし、離縁したくないミレイユが偽証に同意するはずは無い。
「念のため私はミレイユの暮らしていた下町を調べたのだがね、そこに夫はすでにいなかったのだよ。まして子供など」
いないでしょうよ。二人とも僕の庇護下だし。
「聞いてまわったが近隣の住人はどこへ行ったかもわからぬと言うのだ」
まあ…あの時は拉致るかのように着の身着のまま連れて行ったからな…
「そのうえ赤子を取り上げた産婆すら見つからない」
その産婆はディディエがここに来て一年後ぐらいに病で亡くなっている。ディディエが葬式に出たんだから間違いない。
「ならば子供がいたという証明がどうしてできる。現にミレイユは前夫との婚姻時からここに住み込んでいた。幼子を持つ母がそのような真似をするものか」
なるほど。アシルにしては知恵が回るじゃないか。
所詮家系図を必要としない庶民とは貴族と違って、結婚も…出産も…書類に残すわけではない。
おそらくアシルは元夫と子を口止めするつもりで下町を訪ねたのだろう。が、直接関係者がとうに誰もいないことで、今のミレイユに子供を産んだ証明など到底出来ないと考えたのだ。
ディディエは言っていたじゃないか。ディディエの断乳に合わせ屋敷勤めを始めたミレイユ。その帰宅は週一が二週になり月一になり、そのうち二か月に一度になり…僅か二年で帰らなくなったのだと。
あの長屋はディディエが生まれてから住み着いた住居だ。
つまり隣近所が知るのは一組の父子。ミレイユを知る人物が居たとして、「あれは雇った乳母」と言い切れば通りそうだ。
「そもそも考えてもみたまえ。ミレイユは夫の不能で離縁したのだ。子供が居てはおかしいではないか」
「…」
あれはミレイユの雇った暴漢による後天的なもの。アシルの理屈は穴だらけなのだが…
けれど僕はパスカルを訪ねたあの日、父の尊厳を傷つけられ涙するディディエを気の毒に思い、これ以上パスカルとディディエの名誉を損なわないよう、パスカルの〝子孫繁栄の玉”については一切口外無用と、長屋、工房、パスカルを見た医師、ついでに離縁を受理した教会へも、アランブールの名と、口止め料と言う名の寄付によってかなり厳重に箝口令を敷いていた。
アシル…なんと強運な男だろう!
玉の喪失は本物の犯罪。所詮ミレイユからは明るみに出せないのだ。
これらの前提に立ったうえでミレイユが子の存在を主張したらどうなる?
パスカルの不能を理由に離縁はすでに認められている。
そして僕は教会に年間かなり多額の寄付を収めている。(この国において教会には力があるからね)
その僕からの箝口令によって暴漢の事実を表に出せない以上、その心証下でミレイユが子の存在を強く主張すれば、困った教会はそれを不義の子と断じるだろう。
え?汚いって?いやいや、世の中こんなものだ。
そして不貞は重罪…
つまりどう転んでも子を産んだと主張すればミレイユは詰む。
ジーンに見初められた時から感じていたが…強運もその者の財産。きっとアシルはこれからもこんな風に軽薄なまま生きていくのだろう…お見それしたよ!
この後、僕とおじいさまの見守る前でアシルによるミレイユへの離縁状は書き上げられ、それは執事シメオンによって即刻教会へと届けられた。
通常であれば確認のための修道士は一週間程度後にくるものだが、さっさとミレイユを追い出してしまいたいおじいさまは、教会に袖の下を握らせた。
夕刻には修道士がやって来て形ばかりの確認をし、その場で離縁が認められた。
え?いい加減だって?いやいや、世の中こんなもんだって。
その後おじいさまは明日にでもここを出るようミレイユに伝え、ミレイユは肩を震わせながら、それでも頷くしか出来なかった。
そして次の日。
図々しくもちゃっかり朝食を要求したミレイユはどこか着ぶくれした状態でこの屋敷を出て行った。
これはおじいさまが、持ち出す衣類として、着用分とトランク一つ分の着替えは許す。と言ったため、ミレイユは着こめるだけ着こんでいったのだ。
とは言え、豪華なドレスの類はすでに道具屋へ売り渡している。ミレイユが持ち出せたのは装飾の無い普段着ばかりだ。悪しからず。
「ディディエ、これでミレイユの再再婚は難しくなるだろうね」
「そうだな…」
家庭を捨てたミレイユ。その因果により今度は家庭から捨てられるのだ。
「結局あの女は最後まで俺に気づかなかったな」
他人事みたいにディディエが言った。
668
あなたにおすすめの小説
【完結】恋ではなくなったとしても
ねるねわかば
恋愛
没落した貴族家の令嬢アリーネは、家族を支えるため王都の社交サロンで同伴者として働いていた。
十一年前、彼女は婚約者イアン・ハイモンドに切り捨てられ、家もまた鉱山問題によって没落の危機に陥った。
時が流れ、社交界で再会した二人は、依頼主と同伴者という関係で再び顔を合わせることになる。
接客のプロとして振る舞おうとするアリーネだが、整理したはずだった感情が騒ぎはじめ、揺れている心を自覚する。
一方イアンは、壮年の男爵に寄り添うアリーネを見て何を思うのか。
諦念、罪悪感、同情。長い年月を経て変質せざるを得なかった二人の想いが、再会によってまたその形を変えていく。
2万字くらいのお話です。
不器量で可愛げが無くて僻みっぽくて小賢しい私の話
あんど もあ
ファンタジー
王太子が真実の愛とか言って婚約破棄を宣言。廃太子と決まりました。おかげで妹の私に王太子になれと言われたのですが、不器量で可愛げが無くて僻みっぽくて小賢しくて政略結婚の役にも立たないと言われていた私がですか?
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
【短編】『待つ女』をやめたら、『追われる女』になりました
あまぞらりゅう
恋愛
婚約者の王太子を、いつも待ち続けてきたシャルロッテ侯爵令嬢。
だがある日、彼女は知ってしまう。彼には本命の恋人がいて、自分のことを都合よく放置していただけなのだと。
彼女が待つのをやめた瞬間、追ってきたのは隣国の皇太子だった。
※覚えやすさや分かりやすさを重視しているので、登場人物の名前は「キャラクター名+身分表記」にしています
★小説家になろう2026/1/29日間総合8位異世界恋愛7位
★他サイト様にも投稿しています!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる