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1巻
1-3
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それはともかく、俺が母さんに抱っこしてもらいながらリビングに入ると、もう全員がソファに座って待っていた。
家族以外に、いつもの使用人や護衛の騎士たちもいる。
これだけの人数が入ってもなおリビングは相当広い。床にはふかふかの絨毯が敷かれて壁には大きな暖炉があるし、質のよい大きなソファとローテーブルが置かれている。
このリビングの庭側の壁はガラス張りで、美しく整えられた庭が一望できる。庭にもテーブルと椅子がいくつか配置され、外でもお茶を楽しめた。
他にダイニングテーブルがあり、家族での食事はそこでとる。
王族には食事をするための部屋が別にあるイメージだったけれど、いちいち移動しなくていいならそれに越したことはない。
母さんは迷わず父さんの隣に腰を下ろし、俺を膝の上に乗せた。
暖炉をコの字型に囲んだ中央のもので、そのソファが一番大きく、父さんと母さんがゆったりと座っても余裕がある。クレセシアン兄さんは父さん側、ギバセシスとハヴェライトは母さん側のソファに座っていた。
クレセシアン兄さんではなくギバセシスたちに近いことや、そのギバセシスに物凄く睨まれていることは気にしないでおこう……
「全員揃ったな」
ヴィナシス家の全員が集まったことを確認し、父さんが話を切り出す。
「今日集まってもらったのは、家族全員で立ち会いたいと思ったからだ」
俺と双子はなんのことか分からずに首を傾げる。
だが母さんとクレセシアン兄さんは知っていたようだ。
「ルナ、待たせたな。お前の首輪を外す準備が整った」
俺はピンッと耳を立て、バッと父さんを仰ぎ見た。
「準備が整ったっつうか、やっと連れてこれたっつうか……。取り敢えず入ってきてくれ」
父さんがそう言うと、使用人がリビングの扉を開き、そこから二人の人物が入ってくる。
その瞬間ふわっとあの香りが漂ってきて、俺は二人のうちの一人が誰なのか分かってしまった。
俺しか気付いていない、俺の、俺だけの番。
漆黒の獣人は先に入ってきたもう一人の男の後ろに控えるように立つ。以前会った時とは違い、真っ黒の鎧を纏った完全防備だ。
眉間に皺が寄っていて不機嫌そう。
そんな漆黒の獣人を見ていると、俺の視線に気付いたようで、彼がギロリと睨んできた。
「きゅ……」
俺は母さんの腹に擦り寄り、背中を向けることで漆黒の獣人から視線を外す。
見たくなかった。
あれだけ安心できる香りのする相手に、あんな目で見られるなんて。悲しい……
……辛い……
「ルナ……」
母さんは俺を安心させるように抱き締め、丸まった背中を優しく撫でてくれる。
あの漆黒の獣人が入室した途端、ギバセシスが嬉しそうに笑うのを見てしまった。多分、ギバセシスは漆黒の獣人に懐いているのだろう。それか憧れを持っているとか。
だから彼に同調して、俺に辛く当たるのだ。納得したというか、複雑な気分になったというか……
「すまないな、ルナ。今日来てもらった奴は危険人物で、キラについてもらうしかなかったんだ」
父さんが言う。
そういえば、漆黒の獣人と一緒にもう一人入ってきたな。
俺は顔を上げて、できるだけ漆黒の獣人を視界に入れないようにその人物を見る。そこに立っていたのは、母さんと同じような中性的な美しさを持つ男だ。
見たところ獣の耳や尻尾、鱗はない。ほとんど人間と同じ外見なのだが、一ヶ所だけ違うのは横に長く伸びて尖っている耳。
前世の知識から引っ張り出したその容姿の種族は、エルフだ。
父さんや兄さんたちよりも薄い白金色の髪は肩辺りで切り揃えられ、細い一本一本が透き通るように光っている。全体的に色素が薄く、肌も透き通って見えるほど白い。
瞳は雲一つない晴天の空の色。服装は英国風のこの国のものとは違い、ゆったりとした布が多めのものを身につけている。
「なになにキラトリヒ嫌われてんの~? ってかアレンハイドも僕のこと危険人物って酷くない~?」
……見かけによらずチャラそう。
漆黒の獣人はエルフの言葉を無視している。父さんも構わずに俺にエルフの紹介を始めた。
「こいつはレティシアス・マキュリア。隣の大森林の中にあるエルフの国の国王で、歳は……いくつになったんだ?」
「多分千三百十八歳くらい~? アレンハイドとは大親友だよ! よろしくね~?」
「はぁ……」
父さんが疲れたようにため息をつく。
やっぱりエルフは長寿な種族らしい。獣人の長い寿命もそうだけれど、全く想像がつかない。
でも、どうして危険人物なのだろう? 父さんも気を許していて仲良さそうに見えるけれど……
「エルフは皆が優秀な魔法使いだからな。中でもこいつの力はずば抜けてて、魔法を使われたら俺らは手も足も出ないってわけ。だから一応キラに護衛してもらってる」
父さんは俺の聞きたいことを察してくれて、レティシアス様についての説明をしてくれた。
「白狐か~。久しぶりに見たな~」
「白狐を見たことがあるのですか? って、貴方の年齢でしたらあるのでしょうね」
「まぁねん。狐の獣人は僕たちに次ぐくらい魔法が使えるけど、白いのはその中でも特別」
レティシアス様はこちらに近づいてきて、俺を膝に乗せている母さんの前で膝をつく。
そして細くて綺麗な手を伸ばし、ゆっくりと俺の頭を撫でてくれた。
その指先が頭を滑り落ちて、俺の首に嵌められている従属の首輪に辿り着く。
「白狐は特別、ですか?」
母さんがレティシアス様の様子を眺めながら、そのまま問いかけた。
「うん。僕もそこまで深く関わったわけじゃないから、詳しくはないんだけどね~。狐が使うのは僕たちが使う魔法とは違ってたかな~。その中でも白い者は魔力が強い。なんて言うか、自由自在だった。……まぁ、この子も同じかは分からないけど」
レティシアス様は何かを調べるように俺の首輪を触っている。その表情からはチャラさが一切消え、真剣そのものだ。
「首輪は外せそうか? お前が無理ならお手上げなんだが」
父さんたちは俺の首輪を外すためにかなり奮闘してくれたそうだ。過去の文献を調べ上げ、ダメ元でレティシアス様に掛け合ってくれたらしい。
「なんとか外せるけど……これは酷いね。かなり複雑な魔法陣が刻まれてる。絶対服従、魔力使用不可、自害禁止。……成長を妨げるものまで」
レティシアス様の言葉に、このリビングにいるほとんどの獣人が首輪に対しての嫌悪を表す。
父さんと母さん、クレセシアン兄さんに至っては怒りすぎて表情が消え去っている。
……怖い。
しかし、ギバセシスの視線からは別の感情が受け取れた。
やっぱり奴隷だ。そんな首輪をしている奴が同じ王族だなんて耐えられない、というものだ。
そして漆黒の獣人は我関せずといった様子。壁際に立ち、すましている。
……全く俺に興味がないんだな。
それにしても、俺はどうして成長まで妨げられているのだろう? やはり最初に俺を買った貴族の女の、可愛い小動物をアクセサリーにという目的のためだろうか?
「本来ならもう人化できるんじゃないかな? まぁ、まずは外してみてからだね」
そう言うと、レティシアス様は俺の首輪に掌を翳す。
神経を研ぎ澄ますように瞼を閉じて集中すると、一気に彼の周りの空気が張りつめた。
掌が淡く光を発し、それと同時に首輪が光って複雑な模様が描かれた円が浮き出す。
これが先ほどレティシアス様が言っていた魔法陣なのだろう。よく見ると、その模様が動いているようだ。
複雑な模様に徐々に隙間が生まれ、魔法が解除されていっているのだと俺にも分かった。そのうち模様が全てなくなり、最後には霧散する。
『崩壊』
レティシアス様がそう唱えた瞬間、首輪が砕け散って床に落ちた。
「ふぅ~、これでだいじょ――」
「きゅッ!?」
首輪が壊れるのと同時に、今度は俺の体が淡い光に包まれる。俺の瞳の色と同じ、極薄の水色の光だ。
体がぽかぽかと温かくなってきたと思ったら、すぐに燃えるような熱さに変わった。
「ルナ!?」
「「ルナ!」」
俺を膝に乗せていた母さんがいち早く俺の異変に気付き、焦った声で俺の名前を呼ぶ。首輪が壊れるのを見守っていた父さんと兄さんも俺に向かって手を伸ばした。
ミシミシと骨が音を上げている。これは妨げられていたという成長が一気に進んでいるのではないだろうか?
だとしたらどのくらい大きくなるのか分からない。母さんの膝の上にいるのは不味いかもしれない。狐なのでそこまで大きくならないだろうと予想したものの、俺はソファの空いているスペースに下りた。
間一髪だったようで、直後に淡かった光が強くなる。
その光はすぐに収まったものの、俺は今までよりも大きくなった体に戸惑った。
それでも、成長したことは嬉しく、くるりと回って隅々まで確認する。すると視界の端に、ゆらゆらと揺れる尻尾が入った。
……なんと俺の尻尾は三本に増えていた。
しばらくその尻尾に気を取られていたのだが、やがて周りが静かすぎることに気付く。視線を向けると、この場所にいる全員が何かに耐えるような辛そうな表情をしていた。
「ルナ君……くッ……その溢れ出ている魔力を……しまってくれ!」
レティシアス様が苦しそうに言葉を絞り出す。
自分の魔力なんて意識したことがなかったが、溢れているというヒントを頼りに意識してみる。確かにドロッとしたものが俺の体から出ていることが分かった。
これが俺の魔力……
自分の体から出ているそれを、体内にシュルシュルと引き戻すイメージを作ってみる。思った通り、魔力は俺の中に入ってきた。
それで魔力を全てしまうことに成功したようで、周囲の者はほっと胸を撫で下ろす。けれどすぐ、信じられないものを見るような目になった。
「あんなに濃い大量の魔力を一瞬で完璧にコントロールするなんて。もうほとんど魔力を感じられないよ……」
レティシアス様も周りの獣人と一緒に驚いていることから、あんな風に言ったものの本当にできるとは思っていなかったようだ。
「三股……」
ふいに隣にいる母さんが、三本に増えた俺の尻尾に触れた。
尻尾が増えるというのは、いったいどういうことなのだろう?
「獣人は魔力が多いほど尾が増えたり、鱗が増えたりといった身体的特徴として現れるんでしたね」
「だが、二尾でもかなり珍しい」
「確か、ルナ君と同じ三尾なのが、事件を起こした狐だったよね~」
母さんが俺の疑問に答え、父さんは俺の他にはそういう獣人がほぼいないことを教えてくれる。
続いてレティシアス様がとんでもない爆弾を落とした。
狐の獣人が迫害されるきっかけとなる事件を起こした獣人が、三尾だったというのだ。そんな獣人と種族も尻尾の数も同じだなんて、これからどんな目で見られるか思いやられる。
既にギバセシスが俺を物凄く険しい目で睨んでいた。
俺が王族の養子なのが一層嫌になったのだろう。これからさらに激しく危害を加えようとするに違いない……
その時、今までずっと視界に入れないようにしていた男が、近づいてくる。
俺は驚いて、その漆黒の獣人へ自ら視線を向けてしまった。
そこにあったのは今までの汚いものを見る蔑むような目ではなく、驚愕に見開かれた琥珀の瞳だ。
「お前……」
俺がその琥珀を見つめ返すと、漆黒の獣人が口を開く。
他の獣人も彼が話そうとしている相手が俺であると気付いたようだ。
「お前、まさか俺の番か……?」
その弱々しく小さな一言は、ここにいる全員が静まり返るほど衝撃的なものだった。
獣人にとって番は唯一であり、絶対の存在。
寿命は長いが、死ぬまでに番を見つけられるかは誰にも分からない。そんな番と出逢うことができた獣人は、例外なく相手と片時も離れたくないと思うようになり、一生を共にし愛し合うのだ。
少し前、母さんに父さんを見つけた時、どんな気持ちになったのかを聞いてみた。
『もう一人の自分だと思いました。半分に分かれてしまった片割れなのだと……』
うん。俺もそう思った。
何故かと問われても、それが獣人という種族なのだ。
そんな番に拒絶された俺――
この場にいる全員の視線が漆黒の獣人に集まり、その後俺に向けられる。
父さん、母さん、兄さんは漆黒の獣人の言葉が信じられないようだ。
だが俺たちの関係を知らない使用人や護衛の騎士は、番が見つかったことを無邪気に喜んでいる。
普通はそうなのだろう。歓喜し、祝福すべきことなのだろう。
もちろん俺も喜んだ、だが次の瞬間に絶望の底へと堕とされたのだ。
漆黒の獣人はよろよろと俺に近づいてくる。
……俺はその様子を、酷く冷めた気持ちで見つめていた。
現在進行形で急激に冷めていく気持ち、心。
漆黒の獣人は俺に言い放った言葉など、忘れたのだろう。
今までどんな目で俺を見ていたかも。
俺は、事情を知らずお祝いムードになっている使用人や騎士をも、冷めた目で見ることしかできない。
……ただ生きていく上で大切なものが冷えていくのを感じていた。
なおも漆黒の獣人が近づいてくる。
……嫌だ、嫌だッ。こっちに来てほしくないッ!!!
その気持ちに支配された瞬間、体がギシギシと音を立てて変化し始めた。
結構えげつない音がしているが、他の獣人にも聞こえているのだろうか?
首輪が外れた時とはまた違う感覚なので、大きく成長しているわけじゃない。
骨格が、皮膚が、筋肉が、全てが形を変えていく。体毛は消え、代わりに雪みたいに白い人間の皮膚が現れる。これは人化だ。
俺は体の変化に合わせて立ち上がった。
「わ~お、やっぱり人化できる歳になってたんだね~」
一人呑気なレティシアス様が興味深そうに見つめながら告げる。
しばらくして、人化は完全に終了した。先ほどのように光に包まれることもなかったため、俺の体が変化する様子は全て見られてしまったようだ。
俺は尻尾で体を支え、前世の感覚を頼りにバランスをとって立つ。変化した自分の体をぺたぺたと触りながら確認した。
分かっていたが完全に幼児体型だ。
今ではだいぶ食事を取れるようになっているものの、俺の体は痩せていて、それは人化しても変わらない。肋も浮いているし。
髪は視界に入る範囲だと、狐に獣化していた時と同じく白銀。瞳もきっと薄水色なのだろう。
……そして体を埋め尽くすように残っている傷痕。
浮き出たり凹んだりしているそれらに、リビングにいる獣人たちは全員釘付けだ。ギバセシスすら俺の体を痛々しそうに見ている。
だが俺はそれら全てを放置し、一言発した。
『しょうしつ』
俺から出ているだろう、番の香りだけを……
それに気付いた瞬間、漆黒の獣人は怒りに顔を染め、今までふらついていたのが嘘のように俺に駆け寄る。鬼のような形相でレティシアス様を押しのけ、俺の両肩をガシリと乱暴に掴んだ。
「お前ッ! どうして番の香りを消したッ!!!」
近くに……今までで一番近くに安心する香りがあるというのに、俺の頭は酷く冷めている。
俺に、触らないで……
『だんぜつ』
俺を囲むように、他人には決して見えない結界が張られる。
バチッと手を払い除けると、漆黒の獣人は数歩後ろに下がった。
俺が拒絶する者、俺に危害を加えようとする者が、絶対に入ることができない不可侵領域。
漆黒の獣人は何が起きたか理解できず一瞬放心した後、俺に阻まれたことに気付いて酷くショックを受けたような顔をする。俺はそれに構わず母さんに抱きついた。
俺は母さんを拒絶していないし、母さんも俺に危害を加えないので結界の中に入ることができる。
母さんの膝に座り、腰に短い腕を巻きつけた。
「……おれのこと、うすぎたないって」
「あ……」
「うらぎりものの、いんばいだっていった」
母さんの胸に顔を埋め漆黒の獣人に突きつける。俺がどんな絶望を味わったのかを。
「ルナ」
母さんは俺を包み込むように抱き締めてくれた。
その温かさ、人の姿で抱き合えている喜びが溢れ出し、俺はぽたぽたと涙を流す。
シンと静まり返ったリビングに、俺がしくしくと泣く音だけが響いた。
「あれれ~?」
そんなどんよりとした空気を打ち破ったのはレティシアス様だ。
「ルナ君、その尻尾……」
「あれ、ほんとですね。五尾に増えています」
「えッ」
俺はバッと振り返って尻尾を確認した。
人化した俺のお尻の上辺りから、白銀のふわもこが五つ生えている。
増えた二本の尻尾をくいっと体の前に持ってきて、ぎゅうっと顔を埋めるように抱き締めた。
極上の毛並みはたまらなく気持ちがいい。
俺を膝に乗せている母さんも残りの三つを撫でて俺の毛並みを堪能しているようだ。父さんと兄さんはめちゃくちゃ羨ましそうな視線をこちらに寄越している。
「人化は一つの区切りだからね~。力がさらに強まったかな?」
「この一瞬でか」
「末恐ろしい弟だ」
レティシアス様の一言で、父さんと兄さんは何やら難しい話を始めてしまった。
まぁ、なんとなく内容は想像できる。
「このままじゃルナが寒いですね。少し大きいでしょうが、ギバセシスの服を持ってきてください」
五本の尻尾に大事な部分は隠されているが、素っ裸だ……五尾に感謝。
「ぎばせしすのはやだ」
「ルナ?」
服は嬉しいのだけれど、ギバセシスのを着せられるくらいなら裸でいたほうがマシだ。
「……あ!? なんだと!」
遅れてギバセシスが何故自分の服が嫌なのかと怒るが、こいつ、馬鹿なのだろうか?
俺をあれだけボロクソに貶し、隙あらば暴行しようとしていたのだから、お前の服なんて着るわけがないだろう。
漆黒の獣人が俺を番だと言い出した時、一番驚きショックを受けた顔をしたのはギバセシスだ。
漆黒の獣人に好意を抱いているようだから、さらに俺を嫌うだろうと予想したのだが、意外にも今のこいつの目にはそんな感情はない。
……一体どういうことなのか。
「何故ギバセシスの服は嫌なのですか?」
ギバセシスにされたことは母さんに話していないので、俺は何も言えずに俯く。
「ハヴェライトの服も嫌ですか?」
母さんの問いに、こくっと頷いて肯定した。母さんを困らせていることは分かっているが、どうしても嫌なのだ。
「では私のシャツを一着持ってきてください。それとパステルに至急来るよう伝えてください」
「畏まりました」
どうやら双子の服を着るのは免れたらしい。
使用人がすぐに母さんのシャツを持ってきてくれて、俺は母さんに手伝ってもらいながらシャツに袖を通す。凄く大きいけれど父さんや兄さんの服と比べれば、まだマシに違いない。
ボタンを留めてもらって、袖を手が出るまで捲ってもらう。
尻尾があるからお尻は丸出しだが、五本の尻尾で隠れるから大丈夫だ。
「うわぁ~、ルナ君可愛い~!」
「ルナ、こっちへ来い」
レティシアス様が満面の笑みで見つめてくる。
今度は父さんが抱っこしてくれるようで、俺は母さんの膝の上から下り、てくてくと歩いて父さんの前で両手を上げた。
そんな俺の両脇をぐいっと持ち上げ膝の上に座らせてくれる。そこで空気にピリッと緊張が走った。
鬼の形相になった漆黒の騎士が、父さんを睨んでいるのだ。
いくら一緒に育った兄弟同然の関係だからといって、父さんは国王陛下。
そんな相手に、まるで俺の番に触るなと言いたげな、射殺さんばかりの視線を送っている。
「キラ、お前は護衛任務中であることを忘れるな。下がれ」
「……チッ」
漆黒の騎士は俺を悲しげな目で一瞥すると、元いた定位置に戻っていった。
「さすがは白狐だね~。やはり特別だ」
「とくべつ?」
初めて人化してそれほど時間が経っていないせいか少し声が掠れるけれど、思ったよりきちんと喋ることができる。拙く舌っ足らずな感じになったものの、聞き取ることはできるだろう。
「うん。さっき魔力を使ってたでしょ~?」
そういえば『消失』と『断絶』には魔力を使った気がする。でも魔法とは違うのか?
「僕たちは魔法を使うのに魔法陣を使うんだ。ルナ君は使ってなかったでしょ~?」
それはそうだ。俺は従属の首輪に刻まれていたあの複雑な模様の意味も一切分からなかったのだから、魔法陣がなんなのかなど知るわけがない。
「魔法式、つまり使いたい魔法の属性や効果を式に書き連ね構築するのが魔法陣。それに魔力を流すことで魔法が発動するのさ」
さっきレティシアス様が俺の首輪を壊したのは、時間を進める魔法で朽ちさせたらしい。時属性のもので、扱いが難しいそうだ。
「人間はそもそも魔力が少ないし、よっぽど好きじゃなきゃ、難しくて勉強する気になれないだろうね~。寿命が短いから大した魔法も使えずに死んでくよ。だから既に構築した魔法陣が書き込んであって魔力を流すだけの魔道具を使うのが主流なのさ。魔剣とかね~」
俺が嵌められていた従属の首輪も魔道具にあたる。
「獣人は人間に比べれば魔力がある。手先が器用で性に合ってる種族はよく勉強しているね~。中でも狐の獣人はエルフと同じくらいの魔力を持っているんだ。けど、今は何してるか分かんないな~。まぁ僕はエルフの中でも魔力が特に多いから、狐の獣人でも僕には敵わないけどね」
「まほうをつかうのは、そんなにむずかしいのですか?」
「ふふっ、礼儀正しい子だね。理解するまでが大変だけど、一度頭に入れてしまえばそこまででもないさ。コツを掴んだら、自分で新しい魔法を構築できる。まぁ、獣人の寿命でも、好き勝手に魔法を使えるようになるには足りないけどね~」
獣人でも既存の魔法を覚えて使うのがやっとらしい。既存の魔法は沢山あるだろうし、それらを覚えるのも一苦労らしい。
レティシアス様は既に千三百年以上も生きているため、魔法の研究やオリジナルの魔法陣の構築に精を出しているんだとか。
「だからこそ白狐は特別なのさ。限定した香りだけを消すとか、限定した者だけを阻む見えない壁とか、やろうと思っても相当難しいよ~? それにルナ君は今でさえ五尾。今後増えるかもしれないからね~」
……うわぁ。俺、というか、白狐がとんでもない存在というのが、なんとなく理解できた。
「とても心配です、ルナ」
「その力を悪用したい連中に狙われるんじゃないかって……兄さんも心配だ」
母さんと兄さんは不安げだ。
「だいじょうぶ。わるいひとはおれにさわれないから」
「……確かにな。けど、俺はお前を政治に使ったりしない。敵は何も他国の者だけじゃないしな」
父さんは、養子に迎えたからといって俺を政治に利用することはないと宣言してくれる。
それからこの場にいる獣人全てに、俺の魔力について他言しないようにと命令した。
王家に仕えている獣人たちなので、そこは信用してもいいらしい。
「でも、おれにてつだえることがあるのなら、したい」
「……ありがとな」
父さんはふんわりと笑ってぎゅっと抱き締めてくれる。人化した今、俺も父さんの首に腕を回して抱き締め返せて、それが凄く嬉しかった。
「ところで、ルナ君に会わせたい子を連れてきてるんだけど、会ってもらってもいいかな~?」
父さんとの熱い抱擁を堪能した後、満足していた俺にレティシアス様が話しかけてくる。
「僕の息子でね。だいぶ変わった子だけど気にしないでね~。じゃあ呼んできて~」
レティシアス様は、はなから俺の意見を聞く気はなかったようで、指示された使用人がすぐに彼の息子を迎えに行く。
そんなにほいほい王族の居住区に人を招いていいのだろうかと思わないでもないが、相手も王族なので問題ないのかもしれない。
しばらくするとダダダダダと廊下を走る音が近づいてきた。
駆け込んでくることを察知した使用人が気を利かせてリビングの扉を開くと、タイミングバッチリで、レティシアス様の息子――マキュリア王国の王子らしき人物が姿を現す。
「わぁ」
レティシアス様の時も思ったけど、やはりエルフは綺麗な見た目をしている。
月夜のような美しい蒼の短髪に、薄黄緑色の瞳。レティシアス様と違ってかなり髪が短いので、エルフ特有の尖った耳がとても目立つ。
彼は俺を捉えるとビシリと固まり、そのまま凝視した。
俺もエルフの王子を見つめ返していると、彼の目から突然、涙が零れる。
「え?」
涙はとめどなく溢れ続けた。声も出さず嗚咽することもなく、ただただ俺を見ながらエルフが涙を流す様子は、やばい絵面なのに、誰もが呆気にとられるだけで何も言わない。
唯一レティシアス様は楽しそうだ。
俺は父さんの膝から下り、リビングの入り口で固まって泣いている美しいエルフの王子のもとに行く。その間もエルフの視線は俺から離れない。涙が絨毯に染み込んでいった。
「あの、なかないで?」
初対面の相手に自分から話しかけるのは人化してから初めてだ。緊張でお腹の前で両手をいじいじしてしまったが、ちゃんと声をかけられた。首が痛くなるほど見上げると、エルフの王子の涙はさらに量を増したが、次の瞬間に彼はスッと俺の前に跪く。
「マキュリア王国第二王子、ミカルレイン・マキュリアでございます! 貴方という至高の存在に出逢えたこと、神に心から感謝します! 貴方さえ良ければ、私をお傍に置いてください!」
幼児の前に跪いて至高の存在とか言っちゃうやつ。うん、相当な変わり者だね。
それにいきなり傍に置いてほしいとか言われても、どうしたらいいのか分からなくて困る。
それは父さんたちも同様らしいが、レティシアス様だけは楽しそうにしていた。
「ルナ君の教育係にどうかな~って」
「教育係?」
「そう! ミカルレインは五百五歳だから、世界のことについても色々知ってるし、僕と同じくらい魔法が使える。いつか白狐にお仕えする時のためにって剣術とかも一通りマスターしてるしね~。まずは教育係から~ってことで!」
レティシアス様の話を聞いたエルフの王子はバッと勢い良く顔を上げた。その顔は期待に満ち満ちている。
家族以外に、いつもの使用人や護衛の騎士たちもいる。
これだけの人数が入ってもなおリビングは相当広い。床にはふかふかの絨毯が敷かれて壁には大きな暖炉があるし、質のよい大きなソファとローテーブルが置かれている。
このリビングの庭側の壁はガラス張りで、美しく整えられた庭が一望できる。庭にもテーブルと椅子がいくつか配置され、外でもお茶を楽しめた。
他にダイニングテーブルがあり、家族での食事はそこでとる。
王族には食事をするための部屋が別にあるイメージだったけれど、いちいち移動しなくていいならそれに越したことはない。
母さんは迷わず父さんの隣に腰を下ろし、俺を膝の上に乗せた。
暖炉をコの字型に囲んだ中央のもので、そのソファが一番大きく、父さんと母さんがゆったりと座っても余裕がある。クレセシアン兄さんは父さん側、ギバセシスとハヴェライトは母さん側のソファに座っていた。
クレセシアン兄さんではなくギバセシスたちに近いことや、そのギバセシスに物凄く睨まれていることは気にしないでおこう……
「全員揃ったな」
ヴィナシス家の全員が集まったことを確認し、父さんが話を切り出す。
「今日集まってもらったのは、家族全員で立ち会いたいと思ったからだ」
俺と双子はなんのことか分からずに首を傾げる。
だが母さんとクレセシアン兄さんは知っていたようだ。
「ルナ、待たせたな。お前の首輪を外す準備が整った」
俺はピンッと耳を立て、バッと父さんを仰ぎ見た。
「準備が整ったっつうか、やっと連れてこれたっつうか……。取り敢えず入ってきてくれ」
父さんがそう言うと、使用人がリビングの扉を開き、そこから二人の人物が入ってくる。
その瞬間ふわっとあの香りが漂ってきて、俺は二人のうちの一人が誰なのか分かってしまった。
俺しか気付いていない、俺の、俺だけの番。
漆黒の獣人は先に入ってきたもう一人の男の後ろに控えるように立つ。以前会った時とは違い、真っ黒の鎧を纏った完全防備だ。
眉間に皺が寄っていて不機嫌そう。
そんな漆黒の獣人を見ていると、俺の視線に気付いたようで、彼がギロリと睨んできた。
「きゅ……」
俺は母さんの腹に擦り寄り、背中を向けることで漆黒の獣人から視線を外す。
見たくなかった。
あれだけ安心できる香りのする相手に、あんな目で見られるなんて。悲しい……
……辛い……
「ルナ……」
母さんは俺を安心させるように抱き締め、丸まった背中を優しく撫でてくれる。
あの漆黒の獣人が入室した途端、ギバセシスが嬉しそうに笑うのを見てしまった。多分、ギバセシスは漆黒の獣人に懐いているのだろう。それか憧れを持っているとか。
だから彼に同調して、俺に辛く当たるのだ。納得したというか、複雑な気分になったというか……
「すまないな、ルナ。今日来てもらった奴は危険人物で、キラについてもらうしかなかったんだ」
父さんが言う。
そういえば、漆黒の獣人と一緒にもう一人入ってきたな。
俺は顔を上げて、できるだけ漆黒の獣人を視界に入れないようにその人物を見る。そこに立っていたのは、母さんと同じような中性的な美しさを持つ男だ。
見たところ獣の耳や尻尾、鱗はない。ほとんど人間と同じ外見なのだが、一ヶ所だけ違うのは横に長く伸びて尖っている耳。
前世の知識から引っ張り出したその容姿の種族は、エルフだ。
父さんや兄さんたちよりも薄い白金色の髪は肩辺りで切り揃えられ、細い一本一本が透き通るように光っている。全体的に色素が薄く、肌も透き通って見えるほど白い。
瞳は雲一つない晴天の空の色。服装は英国風のこの国のものとは違い、ゆったりとした布が多めのものを身につけている。
「なになにキラトリヒ嫌われてんの~? ってかアレンハイドも僕のこと危険人物って酷くない~?」
……見かけによらずチャラそう。
漆黒の獣人はエルフの言葉を無視している。父さんも構わずに俺にエルフの紹介を始めた。
「こいつはレティシアス・マキュリア。隣の大森林の中にあるエルフの国の国王で、歳は……いくつになったんだ?」
「多分千三百十八歳くらい~? アレンハイドとは大親友だよ! よろしくね~?」
「はぁ……」
父さんが疲れたようにため息をつく。
やっぱりエルフは長寿な種族らしい。獣人の長い寿命もそうだけれど、全く想像がつかない。
でも、どうして危険人物なのだろう? 父さんも気を許していて仲良さそうに見えるけれど……
「エルフは皆が優秀な魔法使いだからな。中でもこいつの力はずば抜けてて、魔法を使われたら俺らは手も足も出ないってわけ。だから一応キラに護衛してもらってる」
父さんは俺の聞きたいことを察してくれて、レティシアス様についての説明をしてくれた。
「白狐か~。久しぶりに見たな~」
「白狐を見たことがあるのですか? って、貴方の年齢でしたらあるのでしょうね」
「まぁねん。狐の獣人は僕たちに次ぐくらい魔法が使えるけど、白いのはその中でも特別」
レティシアス様はこちらに近づいてきて、俺を膝に乗せている母さんの前で膝をつく。
そして細くて綺麗な手を伸ばし、ゆっくりと俺の頭を撫でてくれた。
その指先が頭を滑り落ちて、俺の首に嵌められている従属の首輪に辿り着く。
「白狐は特別、ですか?」
母さんがレティシアス様の様子を眺めながら、そのまま問いかけた。
「うん。僕もそこまで深く関わったわけじゃないから、詳しくはないんだけどね~。狐が使うのは僕たちが使う魔法とは違ってたかな~。その中でも白い者は魔力が強い。なんて言うか、自由自在だった。……まぁ、この子も同じかは分からないけど」
レティシアス様は何かを調べるように俺の首輪を触っている。その表情からはチャラさが一切消え、真剣そのものだ。
「首輪は外せそうか? お前が無理ならお手上げなんだが」
父さんたちは俺の首輪を外すためにかなり奮闘してくれたそうだ。過去の文献を調べ上げ、ダメ元でレティシアス様に掛け合ってくれたらしい。
「なんとか外せるけど……これは酷いね。かなり複雑な魔法陣が刻まれてる。絶対服従、魔力使用不可、自害禁止。……成長を妨げるものまで」
レティシアス様の言葉に、このリビングにいるほとんどの獣人が首輪に対しての嫌悪を表す。
父さんと母さん、クレセシアン兄さんに至っては怒りすぎて表情が消え去っている。
……怖い。
しかし、ギバセシスの視線からは別の感情が受け取れた。
やっぱり奴隷だ。そんな首輪をしている奴が同じ王族だなんて耐えられない、というものだ。
そして漆黒の獣人は我関せずといった様子。壁際に立ち、すましている。
……全く俺に興味がないんだな。
それにしても、俺はどうして成長まで妨げられているのだろう? やはり最初に俺を買った貴族の女の、可愛い小動物をアクセサリーにという目的のためだろうか?
「本来ならもう人化できるんじゃないかな? まぁ、まずは外してみてからだね」
そう言うと、レティシアス様は俺の首輪に掌を翳す。
神経を研ぎ澄ますように瞼を閉じて集中すると、一気に彼の周りの空気が張りつめた。
掌が淡く光を発し、それと同時に首輪が光って複雑な模様が描かれた円が浮き出す。
これが先ほどレティシアス様が言っていた魔法陣なのだろう。よく見ると、その模様が動いているようだ。
複雑な模様に徐々に隙間が生まれ、魔法が解除されていっているのだと俺にも分かった。そのうち模様が全てなくなり、最後には霧散する。
『崩壊』
レティシアス様がそう唱えた瞬間、首輪が砕け散って床に落ちた。
「ふぅ~、これでだいじょ――」
「きゅッ!?」
首輪が壊れるのと同時に、今度は俺の体が淡い光に包まれる。俺の瞳の色と同じ、極薄の水色の光だ。
体がぽかぽかと温かくなってきたと思ったら、すぐに燃えるような熱さに変わった。
「ルナ!?」
「「ルナ!」」
俺を膝に乗せていた母さんがいち早く俺の異変に気付き、焦った声で俺の名前を呼ぶ。首輪が壊れるのを見守っていた父さんと兄さんも俺に向かって手を伸ばした。
ミシミシと骨が音を上げている。これは妨げられていたという成長が一気に進んでいるのではないだろうか?
だとしたらどのくらい大きくなるのか分からない。母さんの膝の上にいるのは不味いかもしれない。狐なのでそこまで大きくならないだろうと予想したものの、俺はソファの空いているスペースに下りた。
間一髪だったようで、直後に淡かった光が強くなる。
その光はすぐに収まったものの、俺は今までよりも大きくなった体に戸惑った。
それでも、成長したことは嬉しく、くるりと回って隅々まで確認する。すると視界の端に、ゆらゆらと揺れる尻尾が入った。
……なんと俺の尻尾は三本に増えていた。
しばらくその尻尾に気を取られていたのだが、やがて周りが静かすぎることに気付く。視線を向けると、この場所にいる全員が何かに耐えるような辛そうな表情をしていた。
「ルナ君……くッ……その溢れ出ている魔力を……しまってくれ!」
レティシアス様が苦しそうに言葉を絞り出す。
自分の魔力なんて意識したことがなかったが、溢れているというヒントを頼りに意識してみる。確かにドロッとしたものが俺の体から出ていることが分かった。
これが俺の魔力……
自分の体から出ているそれを、体内にシュルシュルと引き戻すイメージを作ってみる。思った通り、魔力は俺の中に入ってきた。
それで魔力を全てしまうことに成功したようで、周囲の者はほっと胸を撫で下ろす。けれどすぐ、信じられないものを見るような目になった。
「あんなに濃い大量の魔力を一瞬で完璧にコントロールするなんて。もうほとんど魔力を感じられないよ……」
レティシアス様も周りの獣人と一緒に驚いていることから、あんな風に言ったものの本当にできるとは思っていなかったようだ。
「三股……」
ふいに隣にいる母さんが、三本に増えた俺の尻尾に触れた。
尻尾が増えるというのは、いったいどういうことなのだろう?
「獣人は魔力が多いほど尾が増えたり、鱗が増えたりといった身体的特徴として現れるんでしたね」
「だが、二尾でもかなり珍しい」
「確か、ルナ君と同じ三尾なのが、事件を起こした狐だったよね~」
母さんが俺の疑問に答え、父さんは俺の他にはそういう獣人がほぼいないことを教えてくれる。
続いてレティシアス様がとんでもない爆弾を落とした。
狐の獣人が迫害されるきっかけとなる事件を起こした獣人が、三尾だったというのだ。そんな獣人と種族も尻尾の数も同じだなんて、これからどんな目で見られるか思いやられる。
既にギバセシスが俺を物凄く険しい目で睨んでいた。
俺が王族の養子なのが一層嫌になったのだろう。これからさらに激しく危害を加えようとするに違いない……
その時、今までずっと視界に入れないようにしていた男が、近づいてくる。
俺は驚いて、その漆黒の獣人へ自ら視線を向けてしまった。
そこにあったのは今までの汚いものを見る蔑むような目ではなく、驚愕に見開かれた琥珀の瞳だ。
「お前……」
俺がその琥珀を見つめ返すと、漆黒の獣人が口を開く。
他の獣人も彼が話そうとしている相手が俺であると気付いたようだ。
「お前、まさか俺の番か……?」
その弱々しく小さな一言は、ここにいる全員が静まり返るほど衝撃的なものだった。
獣人にとって番は唯一であり、絶対の存在。
寿命は長いが、死ぬまでに番を見つけられるかは誰にも分からない。そんな番と出逢うことができた獣人は、例外なく相手と片時も離れたくないと思うようになり、一生を共にし愛し合うのだ。
少し前、母さんに父さんを見つけた時、どんな気持ちになったのかを聞いてみた。
『もう一人の自分だと思いました。半分に分かれてしまった片割れなのだと……』
うん。俺もそう思った。
何故かと問われても、それが獣人という種族なのだ。
そんな番に拒絶された俺――
この場にいる全員の視線が漆黒の獣人に集まり、その後俺に向けられる。
父さん、母さん、兄さんは漆黒の獣人の言葉が信じられないようだ。
だが俺たちの関係を知らない使用人や護衛の騎士は、番が見つかったことを無邪気に喜んでいる。
普通はそうなのだろう。歓喜し、祝福すべきことなのだろう。
もちろん俺も喜んだ、だが次の瞬間に絶望の底へと堕とされたのだ。
漆黒の獣人はよろよろと俺に近づいてくる。
……俺はその様子を、酷く冷めた気持ちで見つめていた。
現在進行形で急激に冷めていく気持ち、心。
漆黒の獣人は俺に言い放った言葉など、忘れたのだろう。
今までどんな目で俺を見ていたかも。
俺は、事情を知らずお祝いムードになっている使用人や騎士をも、冷めた目で見ることしかできない。
……ただ生きていく上で大切なものが冷えていくのを感じていた。
なおも漆黒の獣人が近づいてくる。
……嫌だ、嫌だッ。こっちに来てほしくないッ!!!
その気持ちに支配された瞬間、体がギシギシと音を立てて変化し始めた。
結構えげつない音がしているが、他の獣人にも聞こえているのだろうか?
首輪が外れた時とはまた違う感覚なので、大きく成長しているわけじゃない。
骨格が、皮膚が、筋肉が、全てが形を変えていく。体毛は消え、代わりに雪みたいに白い人間の皮膚が現れる。これは人化だ。
俺は体の変化に合わせて立ち上がった。
「わ~お、やっぱり人化できる歳になってたんだね~」
一人呑気なレティシアス様が興味深そうに見つめながら告げる。
しばらくして、人化は完全に終了した。先ほどのように光に包まれることもなかったため、俺の体が変化する様子は全て見られてしまったようだ。
俺は尻尾で体を支え、前世の感覚を頼りにバランスをとって立つ。変化した自分の体をぺたぺたと触りながら確認した。
分かっていたが完全に幼児体型だ。
今ではだいぶ食事を取れるようになっているものの、俺の体は痩せていて、それは人化しても変わらない。肋も浮いているし。
髪は視界に入る範囲だと、狐に獣化していた時と同じく白銀。瞳もきっと薄水色なのだろう。
……そして体を埋め尽くすように残っている傷痕。
浮き出たり凹んだりしているそれらに、リビングにいる獣人たちは全員釘付けだ。ギバセシスすら俺の体を痛々しそうに見ている。
だが俺はそれら全てを放置し、一言発した。
『しょうしつ』
俺から出ているだろう、番の香りだけを……
それに気付いた瞬間、漆黒の獣人は怒りに顔を染め、今までふらついていたのが嘘のように俺に駆け寄る。鬼のような形相でレティシアス様を押しのけ、俺の両肩をガシリと乱暴に掴んだ。
「お前ッ! どうして番の香りを消したッ!!!」
近くに……今までで一番近くに安心する香りがあるというのに、俺の頭は酷く冷めている。
俺に、触らないで……
『だんぜつ』
俺を囲むように、他人には決して見えない結界が張られる。
バチッと手を払い除けると、漆黒の獣人は数歩後ろに下がった。
俺が拒絶する者、俺に危害を加えようとする者が、絶対に入ることができない不可侵領域。
漆黒の獣人は何が起きたか理解できず一瞬放心した後、俺に阻まれたことに気付いて酷くショックを受けたような顔をする。俺はそれに構わず母さんに抱きついた。
俺は母さんを拒絶していないし、母さんも俺に危害を加えないので結界の中に入ることができる。
母さんの膝に座り、腰に短い腕を巻きつけた。
「……おれのこと、うすぎたないって」
「あ……」
「うらぎりものの、いんばいだっていった」
母さんの胸に顔を埋め漆黒の獣人に突きつける。俺がどんな絶望を味わったのかを。
「ルナ」
母さんは俺を包み込むように抱き締めてくれた。
その温かさ、人の姿で抱き合えている喜びが溢れ出し、俺はぽたぽたと涙を流す。
シンと静まり返ったリビングに、俺がしくしくと泣く音だけが響いた。
「あれれ~?」
そんなどんよりとした空気を打ち破ったのはレティシアス様だ。
「ルナ君、その尻尾……」
「あれ、ほんとですね。五尾に増えています」
「えッ」
俺はバッと振り返って尻尾を確認した。
人化した俺のお尻の上辺りから、白銀のふわもこが五つ生えている。
増えた二本の尻尾をくいっと体の前に持ってきて、ぎゅうっと顔を埋めるように抱き締めた。
極上の毛並みはたまらなく気持ちがいい。
俺を膝に乗せている母さんも残りの三つを撫でて俺の毛並みを堪能しているようだ。父さんと兄さんはめちゃくちゃ羨ましそうな視線をこちらに寄越している。
「人化は一つの区切りだからね~。力がさらに強まったかな?」
「この一瞬でか」
「末恐ろしい弟だ」
レティシアス様の一言で、父さんと兄さんは何やら難しい話を始めてしまった。
まぁ、なんとなく内容は想像できる。
「このままじゃルナが寒いですね。少し大きいでしょうが、ギバセシスの服を持ってきてください」
五本の尻尾に大事な部分は隠されているが、素っ裸だ……五尾に感謝。
「ぎばせしすのはやだ」
「ルナ?」
服は嬉しいのだけれど、ギバセシスのを着せられるくらいなら裸でいたほうがマシだ。
「……あ!? なんだと!」
遅れてギバセシスが何故自分の服が嫌なのかと怒るが、こいつ、馬鹿なのだろうか?
俺をあれだけボロクソに貶し、隙あらば暴行しようとしていたのだから、お前の服なんて着るわけがないだろう。
漆黒の獣人が俺を番だと言い出した時、一番驚きショックを受けた顔をしたのはギバセシスだ。
漆黒の獣人に好意を抱いているようだから、さらに俺を嫌うだろうと予想したのだが、意外にも今のこいつの目にはそんな感情はない。
……一体どういうことなのか。
「何故ギバセシスの服は嫌なのですか?」
ギバセシスにされたことは母さんに話していないので、俺は何も言えずに俯く。
「ハヴェライトの服も嫌ですか?」
母さんの問いに、こくっと頷いて肯定した。母さんを困らせていることは分かっているが、どうしても嫌なのだ。
「では私のシャツを一着持ってきてください。それとパステルに至急来るよう伝えてください」
「畏まりました」
どうやら双子の服を着るのは免れたらしい。
使用人がすぐに母さんのシャツを持ってきてくれて、俺は母さんに手伝ってもらいながらシャツに袖を通す。凄く大きいけれど父さんや兄さんの服と比べれば、まだマシに違いない。
ボタンを留めてもらって、袖を手が出るまで捲ってもらう。
尻尾があるからお尻は丸出しだが、五本の尻尾で隠れるから大丈夫だ。
「うわぁ~、ルナ君可愛い~!」
「ルナ、こっちへ来い」
レティシアス様が満面の笑みで見つめてくる。
今度は父さんが抱っこしてくれるようで、俺は母さんの膝の上から下り、てくてくと歩いて父さんの前で両手を上げた。
そんな俺の両脇をぐいっと持ち上げ膝の上に座らせてくれる。そこで空気にピリッと緊張が走った。
鬼の形相になった漆黒の騎士が、父さんを睨んでいるのだ。
いくら一緒に育った兄弟同然の関係だからといって、父さんは国王陛下。
そんな相手に、まるで俺の番に触るなと言いたげな、射殺さんばかりの視線を送っている。
「キラ、お前は護衛任務中であることを忘れるな。下がれ」
「……チッ」
漆黒の騎士は俺を悲しげな目で一瞥すると、元いた定位置に戻っていった。
「さすがは白狐だね~。やはり特別だ」
「とくべつ?」
初めて人化してそれほど時間が経っていないせいか少し声が掠れるけれど、思ったよりきちんと喋ることができる。拙く舌っ足らずな感じになったものの、聞き取ることはできるだろう。
「うん。さっき魔力を使ってたでしょ~?」
そういえば『消失』と『断絶』には魔力を使った気がする。でも魔法とは違うのか?
「僕たちは魔法を使うのに魔法陣を使うんだ。ルナ君は使ってなかったでしょ~?」
それはそうだ。俺は従属の首輪に刻まれていたあの複雑な模様の意味も一切分からなかったのだから、魔法陣がなんなのかなど知るわけがない。
「魔法式、つまり使いたい魔法の属性や効果を式に書き連ね構築するのが魔法陣。それに魔力を流すことで魔法が発動するのさ」
さっきレティシアス様が俺の首輪を壊したのは、時間を進める魔法で朽ちさせたらしい。時属性のもので、扱いが難しいそうだ。
「人間はそもそも魔力が少ないし、よっぽど好きじゃなきゃ、難しくて勉強する気になれないだろうね~。寿命が短いから大した魔法も使えずに死んでくよ。だから既に構築した魔法陣が書き込んであって魔力を流すだけの魔道具を使うのが主流なのさ。魔剣とかね~」
俺が嵌められていた従属の首輪も魔道具にあたる。
「獣人は人間に比べれば魔力がある。手先が器用で性に合ってる種族はよく勉強しているね~。中でも狐の獣人はエルフと同じくらいの魔力を持っているんだ。けど、今は何してるか分かんないな~。まぁ僕はエルフの中でも魔力が特に多いから、狐の獣人でも僕には敵わないけどね」
「まほうをつかうのは、そんなにむずかしいのですか?」
「ふふっ、礼儀正しい子だね。理解するまでが大変だけど、一度頭に入れてしまえばそこまででもないさ。コツを掴んだら、自分で新しい魔法を構築できる。まぁ、獣人の寿命でも、好き勝手に魔法を使えるようになるには足りないけどね~」
獣人でも既存の魔法を覚えて使うのがやっとらしい。既存の魔法は沢山あるだろうし、それらを覚えるのも一苦労らしい。
レティシアス様は既に千三百年以上も生きているため、魔法の研究やオリジナルの魔法陣の構築に精を出しているんだとか。
「だからこそ白狐は特別なのさ。限定した香りだけを消すとか、限定した者だけを阻む見えない壁とか、やろうと思っても相当難しいよ~? それにルナ君は今でさえ五尾。今後増えるかもしれないからね~」
……うわぁ。俺、というか、白狐がとんでもない存在というのが、なんとなく理解できた。
「とても心配です、ルナ」
「その力を悪用したい連中に狙われるんじゃないかって……兄さんも心配だ」
母さんと兄さんは不安げだ。
「だいじょうぶ。わるいひとはおれにさわれないから」
「……確かにな。けど、俺はお前を政治に使ったりしない。敵は何も他国の者だけじゃないしな」
父さんは、養子に迎えたからといって俺を政治に利用することはないと宣言してくれる。
それからこの場にいる獣人全てに、俺の魔力について他言しないようにと命令した。
王家に仕えている獣人たちなので、そこは信用してもいいらしい。
「でも、おれにてつだえることがあるのなら、したい」
「……ありがとな」
父さんはふんわりと笑ってぎゅっと抱き締めてくれる。人化した今、俺も父さんの首に腕を回して抱き締め返せて、それが凄く嬉しかった。
「ところで、ルナ君に会わせたい子を連れてきてるんだけど、会ってもらってもいいかな~?」
父さんとの熱い抱擁を堪能した後、満足していた俺にレティシアス様が話しかけてくる。
「僕の息子でね。だいぶ変わった子だけど気にしないでね~。じゃあ呼んできて~」
レティシアス様は、はなから俺の意見を聞く気はなかったようで、指示された使用人がすぐに彼の息子を迎えに行く。
そんなにほいほい王族の居住区に人を招いていいのだろうかと思わないでもないが、相手も王族なので問題ないのかもしれない。
しばらくするとダダダダダと廊下を走る音が近づいてきた。
駆け込んでくることを察知した使用人が気を利かせてリビングの扉を開くと、タイミングバッチリで、レティシアス様の息子――マキュリア王国の王子らしき人物が姿を現す。
「わぁ」
レティシアス様の時も思ったけど、やはりエルフは綺麗な見た目をしている。
月夜のような美しい蒼の短髪に、薄黄緑色の瞳。レティシアス様と違ってかなり髪が短いので、エルフ特有の尖った耳がとても目立つ。
彼は俺を捉えるとビシリと固まり、そのまま凝視した。
俺もエルフの王子を見つめ返していると、彼の目から突然、涙が零れる。
「え?」
涙はとめどなく溢れ続けた。声も出さず嗚咽することもなく、ただただ俺を見ながらエルフが涙を流す様子は、やばい絵面なのに、誰もが呆気にとられるだけで何も言わない。
唯一レティシアス様は楽しそうだ。
俺は父さんの膝から下り、リビングの入り口で固まって泣いている美しいエルフの王子のもとに行く。その間もエルフの視線は俺から離れない。涙が絨毯に染み込んでいった。
「あの、なかないで?」
初対面の相手に自分から話しかけるのは人化してから初めてだ。緊張でお腹の前で両手をいじいじしてしまったが、ちゃんと声をかけられた。首が痛くなるほど見上げると、エルフの王子の涙はさらに量を増したが、次の瞬間に彼はスッと俺の前に跪く。
「マキュリア王国第二王子、ミカルレイン・マキュリアでございます! 貴方という至高の存在に出逢えたこと、神に心から感謝します! 貴方さえ良ければ、私をお傍に置いてください!」
幼児の前に跪いて至高の存在とか言っちゃうやつ。うん、相当な変わり者だね。
それにいきなり傍に置いてほしいとか言われても、どうしたらいいのか分からなくて困る。
それは父さんたちも同様らしいが、レティシアス様だけは楽しそうにしていた。
「ルナ君の教育係にどうかな~って」
「教育係?」
「そう! ミカルレインは五百五歳だから、世界のことについても色々知ってるし、僕と同じくらい魔法が使える。いつか白狐にお仕えする時のためにって剣術とかも一通りマスターしてるしね~。まずは教育係から~ってことで!」
レティシアス様の話を聞いたエルフの王子はバッと勢い良く顔を上げた。その顔は期待に満ち満ちている。
応援ありがとうございます!
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