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第2章:王都の雑貨店と夜の鴉
2ー11:刻(とき)を喰らう塔(其の一)
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王都から馬車を走らせること丸一日。街道を外れ、馬が鼻を鳴らして進むのを嫌がるほどに深い霧が立ち込める森を抜けた先に、その異様な建物は姿を現した。
『刻鳴館(こくめいかん)』。
かつて、王国随一と謳われた天才時計彫金師、エイリアス・クロッカスが、晩年を過ごすために私財を投じて築いたというその屋敷は、中央に巨大な時計塔を戴く、城とも塔ともつかぬ歪な形状をしていた。
「……店主。ここ、本当に人が住んでるのかよ。霧のせいで、建物自体が幽霊みたいに見えるぜ。」
馬車のステップを降りたカイトが、肌寒そうに肩をすくめた。彼は少し粗野だが仕立ての良い上着を纏い、リヒトの重い革製の鞄を抱えている。その鞄の底に、彼自身が夜の仕事で使う「鍵開けの道具」が、店主に見つからぬよう厳重に隠されているとは、表向き誰も知らないはずのことだった。
とある雑貨店の店主リヒトは、汚れ一つない革靴で湿った地面を踏みしめると、首に巻いたカシミアのストールを優雅に整えた。霧に濡れた銀縁の眼鏡を指先で直し、彼は塔の頂を見上げた。
「住んでいるのは、偏屈な天才とその欲望に群がる者たち、そして止まった時間の記憶だけですよ、カイトくん。……ですが、見てください。あの塔の文字盤を。通常の十進法ではなく、十四進法の文字が刻まれている。これだけで、ここが常世の理(ことわり)から外れた場所であることが分かります。」
リヒトの言葉通り、霧の合間に見える巨大な時計の文字盤には、見たこともない奇妙な記号が十四個、円環を成していた。二人が重厚な鉄の扉の前に立つと、何者かが内側から開けるよりも早く、重々しい金属音が響き、自動で扉が左右に割れた。
「……自動ドアか? 雑貨屋に一つ欲しい仕掛けだな。」
「おや、カイトくん。これは魔法なんかではありませんよ。床下の加重センサーと重りによる純粋な機械仕掛けです。エイリアス卿は、人の手による不確かな温もりよりも、鋼鉄が刻む非情なほど正確な時間を愛した男ですからね。」
リヒトはいつもの丁寧な口調を崩さず、暗いエントランスへと足を踏み入れた。
館の中は、無数の時計が刻む「カチ、カチ」という重層的な音に満ちていた。壁を埋め尽くす振り子時計、床に置かれた柱時計、天井から吊り下げられた天体時計。それらがわずかに異なるリズムで時を刻む様は、まるで巨大な機械仕掛けの心臓の中に迷い込んだかのような錯覚を呼び起こす。
出迎えたのは、白髪の初老の執事だった。
「ようこそお越しくださいました、リヒト様。主がお待ちです。……そちらの『助手』の方も、ご一緒にいらしてください。」
案内された晩餐会の広間には、既に四人の先客が顔を揃えていた。
一人は、王都で飛ぶ鳥を落とす勢いの若き実業家、ヴァン。一人は、古美術界で名の知れた傲慢な鑑定家、バジル。一人は、主であるエイリアスの若き後妻、エレーナ。そして最後の一人は、エイリアスの唯一の弟子だという、神経質そうな青年、ルカ。
「……お揃いのようですね。」
リヒトが席に着くと同時に、車椅子に乗った一人の老人が、影から滑り出すように現れた。彼こそが、この館の主であり、リヒトに「ある鑑定」を依頼したエイリアス・クロッカスその人であった。
「雑貨屋の若造か……。」
エイリアスの声は、まるで錆びた歯車が擦れ合うような、乾いた響きを持っていた。
「お会いできて光栄です、エイリアス卿。本日は依頼通り、あなたの『最高傑作』を鑑定しに参りました。」
「最高傑作だと? 違うな、若造。今日私が鑑定してほしいのは……『偽物』だ。」
その言葉に、広間にいた全員の動きが凍りついた。
「偽物、ですか。それは卿の蒐集品の中に、紛れ込みましたか?」
「いいや、お前にしかできん。……この館に隠された、伝説の天文時計『アストロラーベ』。これに触れる資格のない、偽物の心を持った者がこの五人の中にいる。明日、塔の時計が正午を告げる時、私は正当な継承者の名を発表するつもりだ。……リヒト、お前にはそれまでに、誰の魂が腐っているかを見極めてもらいたい。」
エイリアスはそれだけ言い残すと、執事に車椅子を押させ、自室へと戻っていった。残されたのは、疑心暗鬼に陥った客たちと、困惑するカイト、そして一人静かに冷めた紅茶を啜るリヒトだけだった。
「……なあ店主。これ、ヤバい匂いがプンプンするぜ。伝説の時計だあ? 遺産争いに巻き込まれるなんて、ごめんだぜ。」
「ええ、その通りです。……カイト、あなたの『野性的な勘』は何を感じていますか?」
「……血の匂いだよ、店主。それも、今ついたもんじゃない。この館の壁に染み付いた、古い死の匂いだ。ここは、時計の館なんかじゃねえ。……巨大な墓場だ。」
カイトの直感は、恐ろしい精度で的中することになる。
その夜、事件は起こった。
十四進法の時計が、通常の深夜零時にはありえない「十三時」の鐘を鳴らした瞬間。館全体を揺るがすような重低音とともに、主であるエイリアスの寝室から、凄まじい破壊音と悲鳴が上がった。
「カイト、来なさい!」
リヒトが弾かれたように立ち上がる。二人が現場に駆けつけた時、そこには信じがたい光景が広がっていた。
エイリアスの寝室は、重厚な扉が内側から施錠された完全な密室だった。カイトが肩で扉を破り、中へ踏み込むと、そこには異様な光景が展示されていた。部屋の中央。壁に据え付けられた巨大な文字盤の前で、エイリアス・クロッカスが磔にされていたのだ。黄金色に輝く巨大な時計の長針と短針が、彼の胸と腹を深く貫き、老いた彫金師は文字盤の一部と化して絶命していた。
「……なんてこった。時計の針で殺すなんて……」
カイトが絶句し、一歩後ずさった時、リヒトの鋭い声が飛んだ。
「足元を見なさい、カイト。動いてはいけません!」
リヒトが指し示した床の上。そこには、一つの「遺留品」が転がっていた。それは、黒ずんだ金属製の、細長いピック。カイトの顔から血の気が引いた。それは、カイトが鞄の底に隠し持っていたはずの自前の道具と、形状も、使い込まれた傷の位置までもが「全く同じ」だったからだ。
(……なんでだ? 俺の道具は、鞄の中にあるはずなのに!)
「……リヒト殿、それは何です?」
後から駆けつけた実業家のヴァンが、床の金属棒を覗き込む。
「……これは、精密な機械の微調整に使う工具のようですね。」
リヒトはカイトの動揺を隠すように、素早くそのピックを拾い上げた。
「エイリアス卿が、自ら時計の修理中に何かを誤ったのでしょうか……?」
「そんなはずがあるか! この惨状を見てみろ、これは殺人だ!」
鑑定家のバジルが叫ぶ。
外では霧がさらに深まり、館を外界から完全に隔離していた。
リヒトは拾い上げたピックを、手袋越しにじっと見つめる。それはカイトを犯人に仕立て上げるための罠なのか、あるいはカイト自身の正体を知る何者かからの脅迫なのか。
「密室、消えた真犯人、そして『場違いな道具』。……最高に趣味の悪い、しかし一級品の事件のようですね。」
十四進法の狂った刻(とき)を刻む塔の中で、二人の戦いが今、幕を開けたのである。
「さあ、カイト。鑑定を始めましょう。まずは……この『死という名の作品』の裏側に隠された、真実の重みを量るところからです。」
リヒトは誰にも見えぬよう、カイトに向かってわずかに首を振り、「余計なことは喋るな」と沈黙を促した。その瞳は、いつになく鋭く冷たい光を放っていた。
『刻鳴館(こくめいかん)』。
かつて、王国随一と謳われた天才時計彫金師、エイリアス・クロッカスが、晩年を過ごすために私財を投じて築いたというその屋敷は、中央に巨大な時計塔を戴く、城とも塔ともつかぬ歪な形状をしていた。
「……店主。ここ、本当に人が住んでるのかよ。霧のせいで、建物自体が幽霊みたいに見えるぜ。」
馬車のステップを降りたカイトが、肌寒そうに肩をすくめた。彼は少し粗野だが仕立ての良い上着を纏い、リヒトの重い革製の鞄を抱えている。その鞄の底に、彼自身が夜の仕事で使う「鍵開けの道具」が、店主に見つからぬよう厳重に隠されているとは、表向き誰も知らないはずのことだった。
とある雑貨店の店主リヒトは、汚れ一つない革靴で湿った地面を踏みしめると、首に巻いたカシミアのストールを優雅に整えた。霧に濡れた銀縁の眼鏡を指先で直し、彼は塔の頂を見上げた。
「住んでいるのは、偏屈な天才とその欲望に群がる者たち、そして止まった時間の記憶だけですよ、カイトくん。……ですが、見てください。あの塔の文字盤を。通常の十進法ではなく、十四進法の文字が刻まれている。これだけで、ここが常世の理(ことわり)から外れた場所であることが分かります。」
リヒトの言葉通り、霧の合間に見える巨大な時計の文字盤には、見たこともない奇妙な記号が十四個、円環を成していた。二人が重厚な鉄の扉の前に立つと、何者かが内側から開けるよりも早く、重々しい金属音が響き、自動で扉が左右に割れた。
「……自動ドアか? 雑貨屋に一つ欲しい仕掛けだな。」
「おや、カイトくん。これは魔法なんかではありませんよ。床下の加重センサーと重りによる純粋な機械仕掛けです。エイリアス卿は、人の手による不確かな温もりよりも、鋼鉄が刻む非情なほど正確な時間を愛した男ですからね。」
リヒトはいつもの丁寧な口調を崩さず、暗いエントランスへと足を踏み入れた。
館の中は、無数の時計が刻む「カチ、カチ」という重層的な音に満ちていた。壁を埋め尽くす振り子時計、床に置かれた柱時計、天井から吊り下げられた天体時計。それらがわずかに異なるリズムで時を刻む様は、まるで巨大な機械仕掛けの心臓の中に迷い込んだかのような錯覚を呼び起こす。
出迎えたのは、白髪の初老の執事だった。
「ようこそお越しくださいました、リヒト様。主がお待ちです。……そちらの『助手』の方も、ご一緒にいらしてください。」
案内された晩餐会の広間には、既に四人の先客が顔を揃えていた。
一人は、王都で飛ぶ鳥を落とす勢いの若き実業家、ヴァン。一人は、古美術界で名の知れた傲慢な鑑定家、バジル。一人は、主であるエイリアスの若き後妻、エレーナ。そして最後の一人は、エイリアスの唯一の弟子だという、神経質そうな青年、ルカ。
「……お揃いのようですね。」
リヒトが席に着くと同時に、車椅子に乗った一人の老人が、影から滑り出すように現れた。彼こそが、この館の主であり、リヒトに「ある鑑定」を依頼したエイリアス・クロッカスその人であった。
「雑貨屋の若造か……。」
エイリアスの声は、まるで錆びた歯車が擦れ合うような、乾いた響きを持っていた。
「お会いできて光栄です、エイリアス卿。本日は依頼通り、あなたの『最高傑作』を鑑定しに参りました。」
「最高傑作だと? 違うな、若造。今日私が鑑定してほしいのは……『偽物』だ。」
その言葉に、広間にいた全員の動きが凍りついた。
「偽物、ですか。それは卿の蒐集品の中に、紛れ込みましたか?」
「いいや、お前にしかできん。……この館に隠された、伝説の天文時計『アストロラーベ』。これに触れる資格のない、偽物の心を持った者がこの五人の中にいる。明日、塔の時計が正午を告げる時、私は正当な継承者の名を発表するつもりだ。……リヒト、お前にはそれまでに、誰の魂が腐っているかを見極めてもらいたい。」
エイリアスはそれだけ言い残すと、執事に車椅子を押させ、自室へと戻っていった。残されたのは、疑心暗鬼に陥った客たちと、困惑するカイト、そして一人静かに冷めた紅茶を啜るリヒトだけだった。
「……なあ店主。これ、ヤバい匂いがプンプンするぜ。伝説の時計だあ? 遺産争いに巻き込まれるなんて、ごめんだぜ。」
「ええ、その通りです。……カイト、あなたの『野性的な勘』は何を感じていますか?」
「……血の匂いだよ、店主。それも、今ついたもんじゃない。この館の壁に染み付いた、古い死の匂いだ。ここは、時計の館なんかじゃねえ。……巨大な墓場だ。」
カイトの直感は、恐ろしい精度で的中することになる。
その夜、事件は起こった。
十四進法の時計が、通常の深夜零時にはありえない「十三時」の鐘を鳴らした瞬間。館全体を揺るがすような重低音とともに、主であるエイリアスの寝室から、凄まじい破壊音と悲鳴が上がった。
「カイト、来なさい!」
リヒトが弾かれたように立ち上がる。二人が現場に駆けつけた時、そこには信じがたい光景が広がっていた。
エイリアスの寝室は、重厚な扉が内側から施錠された完全な密室だった。カイトが肩で扉を破り、中へ踏み込むと、そこには異様な光景が展示されていた。部屋の中央。壁に据え付けられた巨大な文字盤の前で、エイリアス・クロッカスが磔にされていたのだ。黄金色に輝く巨大な時計の長針と短針が、彼の胸と腹を深く貫き、老いた彫金師は文字盤の一部と化して絶命していた。
「……なんてこった。時計の針で殺すなんて……」
カイトが絶句し、一歩後ずさった時、リヒトの鋭い声が飛んだ。
「足元を見なさい、カイト。動いてはいけません!」
リヒトが指し示した床の上。そこには、一つの「遺留品」が転がっていた。それは、黒ずんだ金属製の、細長いピック。カイトの顔から血の気が引いた。それは、カイトが鞄の底に隠し持っていたはずの自前の道具と、形状も、使い込まれた傷の位置までもが「全く同じ」だったからだ。
(……なんでだ? 俺の道具は、鞄の中にあるはずなのに!)
「……リヒト殿、それは何です?」
後から駆けつけた実業家のヴァンが、床の金属棒を覗き込む。
「……これは、精密な機械の微調整に使う工具のようですね。」
リヒトはカイトの動揺を隠すように、素早くそのピックを拾い上げた。
「エイリアス卿が、自ら時計の修理中に何かを誤ったのでしょうか……?」
「そんなはずがあるか! この惨状を見てみろ、これは殺人だ!」
鑑定家のバジルが叫ぶ。
外では霧がさらに深まり、館を外界から完全に隔離していた。
リヒトは拾い上げたピックを、手袋越しにじっと見つめる。それはカイトを犯人に仕立て上げるための罠なのか、あるいはカイト自身の正体を知る何者かからの脅迫なのか。
「密室、消えた真犯人、そして『場違いな道具』。……最高に趣味の悪い、しかし一級品の事件のようですね。」
十四進法の狂った刻(とき)を刻む塔の中で、二人の戦いが今、幕を開けたのである。
「さあ、カイト。鑑定を始めましょう。まずは……この『死という名の作品』の裏側に隠された、真実の重みを量るところからです。」
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