王都の片隅、名もなき雑貨店 〜没落王子の鑑定眼と、粗野な義賊のバイト生活〜

kurimomo

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第2章:王都の雑貨店と夜の鴉

2−23:影を失った少女(其の一)――正午の空白

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 王都の冬は、空気が研ぎ澄まされた刃のように冷たく、すべてを鮮明に描き出す。とある雑貨店の入り口に吊るされた真鍮のベルが、激しく、そして何かに急かされるように鳴り響いた。

「……助けて。……私の足元から、世界が消えていくの。」

 飛び込んできたのは、上質な外套を羽織った十歳ばかりの少女だった。艶やかな栗色の髪は乱れ、呼吸は浅く、その瞳には底知れぬ恐怖が張り付いている。  
 とある雑貨店の店主であるリヒトは、カウンターで古い懐中時計の歯車を清掃していた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。

「……いらっしゃいませ。お嬢様、落ち着いてゆっくり深呼吸をしてください。この店では、形あるものはもちろん、失われた形についても鑑定を承っておりますよ。」 

 リヒトの低く、静かな声が、パニックに陥った少女の肩を優しく押さえるように響いた。

 奥で商品の整理をしていたカイトが、騒ぎを聞きつけて顔を出した。 

「なんだよ店主、随分と小さなお客様だな。……おい、お嬢ちゃん。そんなに震えてちゃ、せっかくの綺麗な服が台無しだぜ。……ん?」

 カイトの言葉が、途中で止まった。  彼は少女の顔から視線を下げ、彼女の足元に目を向けた。そして、信じられないものを見たというように、何度も瞬きをした。

「……おい、店主。……これ、見間違いか?」 
「いいえ、カイトくん。……あなたの目は、時折、私の論理よりも正確に真実を捉えますね。」

 リヒトはカウンターから出て、少女の前に跪いた。外は快晴。窓から差し込む冬の強い日差しが、店内の床にカウンターの影や、棚の影をくっきりと、濃く描き出している。しかし、リヒトの目の前に立つ少女の足元には、「影」が一切存在しなかった。

 彼女の靴の周囲にあるのは、一点の曇りもないフローリングの質感だけだ。彼女の身体を透過して光が床に届いているかのように、そこには影という名の「黒い空白」がどこにも見当たらない。

「……影が、ない。……お嬢ちゃん、あんた、まさか幽霊なのか?」  

 カイトが思わず一歩下がった。

「……違うわ。私は、私はただのエルナよ! ……三日前からなの。朝、起きたら、私の足元から影が逃げ出していたの。誰に言っても信じてくれない。お父様もお母様も、私のことを見てくれないの! まるで、私がそこにいないみたいに!」

 エルナと呼ばれた少女は、泣きながら自分の足を抱え込んだ。リヒトは無言のまま、彼女の外套の裾を指先で僅かに摘んだ。

「……幽霊、ですか。カイトくん、鑑定士を自称するなら、もっと物質的な視点を持ちなさい。彼女の体温、呼吸の震え、そして私の指に残るこの『微かな粘り』。……彼女は、間違いなくこの世界に肉体を持って存在しています。」

 リヒトは立ち上がり、店内の全てのカーテンを閉めるようカイトに指示した。数秒後、店内は深い闇に包まれた。

「……さて。光の下で消えるのであれば、光そのものを変えてみればいい。」  

 リヒトはカウンターの奥から、一本の重厚なランプを取り出した。それは彼が自作した「分光ランプ」であり、レンズの間に特定の鉱石を通すことで、人間の目には見えない波長の光――いわゆる不可視光線の一部を強調して照射するものだった。

 リヒトがスイッチを入れると、ランプから紫がかった妖しい光が放たれた。その光がエルナの身体を捉えた瞬間、カイトは息を呑んだ。

「……なんだよ、それ……」

 紫の光の下で、エルナの外套、そして露出した肌の表面が、不気味な「白銀の蛍光」を放っていた。それはまるで見えない繭(まゆ)に包まれているかのようで、光の波形が彼女の身体に沿って不自然に歪み、背後の壁へと受け流されている。

「……鑑定完了です、エルナ様。……あなたの影が消えたのではありません。……あなたの全身に、全反射を誘発する超微細な鱗片(りんぷん)』が塗布されているのです。……それも、一度や二度の散布ではありません。皮膚の角質層にまで染み込ませるような、長期的な処置です。」

「全反射……? どういうことだよ、店主。」

「……例えば、水の中に潜って水面を見上げた時、鏡のように景色が反射して、外の世界が見えなくなることがありますね。あれと同じ現象が、彼女の身体の表面で起きているのです。……あらゆる方向から来た光が、彼女の身体に触れる直前で、周囲の景色を反射しながら彼女の『向こう側』へと回り込む。……結果として、床に影を落とすべき光さえも、彼女を迂回してしまう。……だから、影が消えたように見えるのです。」

 リヒトの声は、物理現象を解説する冷静さを保っていたが、その眼差しには鋭い怒りが滲んでいた。

「……エルナ様。この一週間、毎日お風呂に入れられた後、お母様から『魔法の粉』だと聞かされて、全身に何かを塗られませんでしたか?」

 少女は目を見開いた。 

「……ええ。お母様が、これは悪い病気から守ってくれる粉だって……。とっても冷たくて、痛いけれど、我慢しなさいって……」

 リヒトは机の上の砂時計をひっくり返した。 

「……病気から守るどころか、あなたを『社会的な死』に追いやるための毒ですよ。……この粉の正体は、王都の軍部が潜入工作用に開発したものの、あまりの毒性の強さに廃棄されたはずの『光学迷彩泥(こうがくめいさいでい)』です。……これを使い続ければ、やがて彼女の身体は光を通さなくなり、周囲の景色と同化し、最後には誰の目にも認識されない『透明な亡霊』として、そのまま衰弱死することになります。」

「……誰が、そんな酷いことを!」  

 カイトの声が怒りに震えた。

「……それを今から鑑定しに行くのです。……エルナ様。お父様は今、どのようなお仕事を?」

「……商人の総帥に、立候補するって……。でも、ライバルがいるから、家族にスキャンダルがあったら大変だって、とってもピリピリしていて……」

 リヒトは眼鏡を外し、懐紙で丁寧に拭いた。 

「……なるほど。スキャンダル。……例えば、エルナ様の身体に、商人の地位を脅かすような『ある刻印』が現れ始めたとしたら……。彼らは娘を殺す勇気もなく、かといって世間に晒すこともできず、ただ『存在を消す』ことを選んだわけですね。」

 リヒトはカイトに向き直った。 

「カイトくん。……従業員の業務として、このランプを持ってエルナ様の屋敷の『排気孔』と『排水溝』を調べてきてください。……そこには、彼女の身体を洗い流した、この銀の泥の残滓が大量に溜まっているはずです。」

「……分かった。……店主、お嬢ちゃんは預けていくぜ。……絶対に、影を取り戻してやってくれよな。」

 カイトが風のように店を飛び出していくと、リヒトは再びエルナの前に腰を下ろした。

「……エルナ様。影とは、あなたがこの世界に立っているという、唯一無二の証明書です。……私が、その証明書を再発行してみせましょう。……鑑定士の名にかけて。」

 リヒトの手のひらが、エルナの小さな震える手を包み込んだ。影を失った少女と、光を捨てた第一王子。  二人の輪郭が、冬の夕暮れの中で、静かに重なり合おうとしていた。
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