紅蓮仙途 ― 世界を捨てた神々の帰還と棄てられた僕の仙となる旅

紅連山

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第4話 里出、夏雨の火と月

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 太陽が、灰の雲を押し分けて昇った。

 燐生は森を歩いていた。足元には湿った灰が積もり、踏みしめるたびに鈍い音がした。風が吹くと、木々の葉が微かに光を散らし、まるで灰の世界の中で、わずかに残った生命の証を誇るようだった。

 ――楔ノ里を出て、もう三日になる。

 背の袋には乾いた根と水皮が少し。腰の符袋の中には、古びた巻物が一つ。それが、燐生の全てだった。

 出立の朝、村長は止めなかった。ただ、焚き火の前で小さく呟いた。
 「……帰ってこい。生きて帰れば、それでいい。」

 澪姉ちゃんは泣いていた。零士も、柚羽も、雫も、いつまでも見送っていた。村の外れ、灰流の橋を渡るとき、振り返れば皆の姿が霞んでいた。
 それが、燐生の記憶にある最後の楔ノ里の風景だった。

 楔ノ里では、燐生は三度、故郷の霊を弔った。
 その日は中秋の夜、月が清らかに輝く夜だった。人々が笑い、月見の杯を交わす中、燐生だけが、灰に呑まれた“故郷の故郷”を思い、独り祈りを捧げていた。

 村は灰に飲まれ、名を呼ぶ声も、風に溶けて消えた。祈るたび、山の木々は芽を変え、ただ灰の匂いだけが夢の底で消えずに残った。

 毎朝、燐生は霧を吸い、灰流を巡らせ、三つの経脈に沿って灰素を流す。それが修行であり、日常だった。

 灰素――目に見えぬ微光。空気に溶けるほど淡く、されど血を焼くほど強い。その流れを誤れば、灰毒が身体を蝕み、骨までも灰となる。

 修行の夜、燐生の身体は裂け、皮膚は灰色に焦げ、血が泡のように沸き立った。それでも彼は叫ばなかった。歯を食いしばり、ただ呼吸を続けた。

 死が目前に迫った、その瞬間。灰素が彼に馴染んだ。まるで呼吸するように、灰流が体の奥で脈打ちはじめた。そして気づく。自分の中で、三つの異なる流れが同時に生まれている。

 ひとつは、心を鎮める清流。
 ひとつは、血を燃やす陽炎。
 ひとつは、命の底を支える静寂。

 ――三つの道(経脈)を通す者など、聞いたことがなかった。

 普通の棄人は、一筋の灰流しか持たぬ。灰は一本の道で、同じ軌跡を巡る。だが燐生の中では、三つの流れが互いに反発し、時に衝突し、やがて調和の音を奏ではじめた。

 「……これが、何を意味するのか……?」

 掌を見下ろすと、そこには三本の稲妻のような傷痕が刻まれていた。淡く光り、呼吸に合わせて脈打つ。それは、彼が灰行の位に達したときから、微かに白く輝きを帯びるようになった。

 懐の巻物は沈黙を保ったまま。燐生に感じ取れるのは、ただ三つの文字――

 “心”、“陽”、“陰”。
 けれど彼は、その意味をまだ知らなかった。

 かつて、澪姉ちゃんに巻物を触らせたことがある。けれど、彼女には何も感じなかった。ただの古びた紙切れにすぎなかった。燐生は、そっと巻物を閉じた。それ以来、誰にも見せることはなかった。

 ――光は、自分だけに応えている。そう悟ったからだ。

 ☆★♪

 夜。森を抜ける風が、どこか懐かしい音を立てていた。燐生は焚き火のそばで膝を抱え、また同じ夢を見た。

 かつての故郷――灰に焼かれた村。赤く染まる空。崩れ落ちる塔。泣き叫ぶ声。その中心に立つのは、炎のような瞳をした旧人の神装兵たち。

 目が覚めると、胸の奥が焼けるように痛む。息を吐くたび、灰が肺を削るようだった。

 そして、いつも通り、同じ三つの問いが浮かぶ。

 なぜ、宇宙の深淵へ去った旧人が、地上に戻ったのか。
 なぜ、同じ人類でありながら、棄人を滅ぼそうとするのか。
 なぜ、自然の“理”は棄人を捨て、獣を選び進化させたのか。

 答えは、どこにもない。
 ただ、灰の中を漂う静寂だけが、彼の胸に降り積もっていく。

 ☆★♪

 焚き火の火が揺らぎ、灰が舞う。
 そのころ、楔ノ里では大騒ぎとなっていた。燐生の親友・零士が、誰にも告げず姿を消したのだ。雫は夜通し泣き、村長は古い符を取り出して天に祈った。だが応えはなく、ただ灰風が吹き抜けた。

 ☆★♪

 夏の夜は気まぐれだ。
 空がぱっと暗くなり、風が葉をなぎ払う間もなく、雨が砂を叩きはじめた。

 燐生は泥を跳ねながら、崩れかけた古寺の石段を駆け上がった。屋根は半ば落ち、柱は苔にまみれている。だが、わずかに残る本堂の奥には、数人なら雨を避けられる空間があった。

 火打ち石を打つ。湿った薪は火を拒み、火花は何度も闇に消えた。息を詰め、もう一度。ようやく淡い火が木の芯を捉え、かすかな炎がふっと立ち上がる。
 冷え切った体が、じんわりと温まる。雨音が屋根を叩き、遠い雷が低く響いた。

 ――その時だった。

 「焔璃、こっちだ! 屋根が残ってる、早く!」

 外から明るい声がした。続いて、濡れた白布がはがれ、赤い尾と耳が覗く。炎狐えんこ族の少女・焔璃えんりと、二人の少年が姿を現した。雨のしずくをはじく毛並み、瞳は燃えるように輝いている。

 少年の一人が燐生を見て、眉をひそめた。
 「棄人がいる。出ていけ。ここは俺たちの場所だ」
 もう一人も唸るように言う。「棄人は身の程を知れ」

 焔璃はその手を押さえ、静かに首を振った。
 「こんな雨なのよ。火を分け合うくらい、いいじゃない」

 その声は驚くほど柔らかく、燐生は胸の緊張がふっとほどけた。焔璃は焚き火のそばに腰を下ろし、濡れた尾を丸めながら微笑む。仏像の頬に火が映え、古びた堂内がほのかに明るくなった。

 「私は焔璃。あなたは?」
 「燐生」
 「いい名前ね。どこに行くの?」
 「……決まってない。ただ、生き延びたいだけだ」

 焔璃は少し目を細めた。
 「いい答え。炎狐も同じ。――あなた、灰行の力では弱いわ。一人で旅するのは危ない」
 その声音は、慰めにも導きにも聞こえた。燐生の胸の奥に、静かな温かさが灯る。

 だが次の瞬間、扉が大きく開いた。
 銀の風が吹き込み、二つの影が立っていた。白銀の髪、蒼い瞳。月狼げつろう族の青年と少女だった。

 青年が低く言う。
 「狐どもか。この山は月狼の領だ。勝手に入るな」

 空気が一変した。焔璃の背後の少年たちが立ち上がる。火が震え、妖力が噴き上がる。第四階位――妖師の気が満ちた。

 「来いよ、月の犬ども!」と炎狐の少年が叫ぶ。
 「吠えるな、火の塵!」と月狼の青年が応じる。

 瞬間、寺が揺れた。
 火球が飛び、月光の刃がそれを裂く。
 木柱が弾け、瓦が宙を舞う。雷鳴が応えるように鳴り響く。

 燐生は仏像の陰に身を伏せ、心臓が痛いほど早く打った。
 焔璃の瞳が紅に染まり、声が震える。
 「この匂い……嫌い。月の血はいつも火を見下す」
 「火は奪う。俺たちの森を焼いたのは誰だ!」
 月狼の青年が咆哮した。

 炎と月光が交差する。紅と蒼が渦を巻き、雨が吹き込んで炎を包み、白い蒸気が立ちこめる。寺の屋根が崩れ、床がきしむ。焔璃は大きく息を吸い、叫んだ。

 「もういい! 雨宿が壊れたら意味がない。引く!」

 炎狐の二人は焔璃の背後に回り、ぬかるむ参道へと退却する。燐生も静かに焔璃の後ろに続いた。外は、泥と匂いと足跡だけが残る世界だった。

 月狼の青年は震える声で捨て台詞を放った。
 「二度と月狼の場所に来るな。――殺すぞ」

 その言葉は、雨の向こうに刺さるように冷たかった。
 だが、月狼の少女は兄の肩をすくめ、焔璃たちを一瞥して言った。

 「兄さん、いいよ。向こうは三人の妖師がいるから。それと――変じゃない? 炎狐に棄人までいる」
 少女は唇の端を上げた。
 「まあいい。あの棄人の服に、狼の匂いを付けた。どこに行っても見つけられるよ」

 その笑みは、雨よりも冷たかった。

 ☆★♪

 焔璃たちは泥を踏み、雨の参道を進む。燐生は彼女のすぐ後ろを歩く。足元の泥が、夜気とともに冷たく絡む。やがて焔璃が振り返り、申し訳なさそうに囁いた。
 「ごめんね、旅人さん。嫌な夜だったでしょ」
 「いや、気にしない。むしろ、ありがとう」

 それは偽りのない言葉だった。寺の焦げ跡、狐と狼の残した爪痕。それらが、燐生の目に「この世界の現実」として焼きつく。

 森の端まで来ると、雲が裂けた。月が顔を出し、雨粒が銀に光る。焔璃はふと立ち止まり、微笑む。

 「どうする? 私たちについてくる? それとも――ここで別れる?」

 その笑顔は、夜明け前の光のように淡く、温かかった。燐生は小さく頷く。
 「邪魔でなければ」

 焔璃は尾を揺らし、「歓迎するわ」と言った。

 彼は一歩、妖たちの世界へ踏み出す。雨が上がり、空気が澄む。胸の奥で、小さな炎が灯った。それは、まだ名も知らぬ旅の始まりの火だった。
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