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第6話 青火霊を追う夜
しおりを挟む夜の焔脈は、静寂の中に熱を孕んでいた。
谷を覆う霊炎の霞がゆらめき、赤い煤が風に舞う。遠くで火の鳥が一声鳴き、山肌の奥で溶岩の息がうなる。焔脈は、生きている。燃える大地そのものが、ひとつの霊獣のようだった。
燐生は、その夜、工房の奥でひとり炉の灰を掻き出していた。昼の鍛錬で使い果たした火を鎮め、翌日の準備をする――それがいつもの仕事だった。
──カラ……カラ……。
灰の中で、金属片が転がる小さな音。燐生は鉄の匙で灰を掬い上げながら、ため息まじりに呟いた。
「今日も、平和な一日だったな……」
その瞬間だった。炉の奥で、なにかが閃いた。
赤でも橙でもない――青。氷のように冷たく、しかし魂を焦がすほど熱い、異質の青。それはまるで、夜の闇に閉じ込められた星の一滴だった。
「――!」
光はふっと震え、瞬く間に形を変えた。炎が尾を引き、狐火のように跳ね上がる。そして、矢のような速さで煙抜きの窓を突き抜け、夜空へ逃げた。
「待て! 捕まえろ!」
灰翁――老いた炎狐の鍛冶師が叫んだ。白い尾がざらりと揺れ、瞳に悔しさが宿る。だが燐生はあまりの速さに反応できず、ただ目を見開いて立ち尽くしていた。
「な、何だったんですか、今の……?」
「……逃がしたか。惜しい、実に惜しい!」
灰翁は炉の前に膝をつき、掴んだ灰を指先で嗅ぎ取った。
「――なるほど、九曲狐尾草が混じっておったか……。そうか、あれは“火霊”だ。“青火霊せいかれい”。」
燐生は息を呑む。
「火霊……?」
灰翁は頷き、低く呟いた。
「九曲狐尾草は、狐の尾のように曲がる霊草。極めて澄んだ霊気を宿しておる。それをこの炉の火が喰らい、霊気と融合した結果……生まれたのだ。“生きた火”――火霊が。」
「そんなものが……」
「千に一度の奇跡じゃ」
灰翁は悔しげに歯を噛んだ。
「だが逃げた。火霊は自由を好む。地火の脈に戻れば、もう二度と捕まらん……!」
その時、扉が叩かれた。
ドン、ドン――。
「おい、炎翁!」
勢いよく開いた扉から入ってきたのは、若い炎狐族の颯也だった。漆黒の耳が揺れ、尾の先が赤く光る。鍛錬着のまま、汗が滴っている。
「今、空を飛んだのを見た。青い火――あれ、“火霊”だろ?」
炎翁は重々しく頷いた。
「間違いない。だが、わしの足ではもう追えん。火霊の速さには及ばん……」
颯也がにやりと笑う。
「なら、俺が追う。もし捕まえたら、俺の火霊だ。」
「欲深い狐め……」
炎翁は苦笑しつつも止めなかった。
「火霊は主を選ぶ。捕らえるのではない。認められた者のみが、手にすることができる。」
そして、燐生のほうを振り返った。
「燐生――お前も行け。」
「えっ!?」
「行け! 青火霊は気紋の谷を越える。月が昇る前に追いつけ!」
颯也が槍を掴み、尾を翻す。
「競争だ、人族。遅れるなよ。」
燐生も反射的に飛び出した。外の風は熱く、空には青白い尾が走っていた。まるで、夜空そのものが裂けたように――。
「見えたか!」
颯也が叫ぶ。
青火霊は山道を駆け抜け、岩壁に光を映す。霊石の欠片が足元で火花を散らし、焔脈の夜が鮮やかに染まった。
「火霊って……一体何なんだ?」
息を切らしながら燐生が問う。
「生きた炎だ。火の心そのもの。」
颯也の横顔は真剣だった。
「火霊は生まれた瞬間に主を探す。認められぬ者が触れれば、魂を焼かれる。だから恐れられる。だが、選ばれた者にとって――それは“運命の火”になる。」
「運命の……火……」
颯也が横目で燐生を見た。
「棄人にそんな運命があるかは知らんがな。」
その言葉に、燐生は黙った。だが――胸の奥で、あの青い光がまだ燃えていた。
呼ばれている。確かに、自分を――。
ふたりは谷を抜けた。そこは焔脈の外縁、赤と黒が混ざり合う霊地だった。岩肌に浮かぶ炎の紋様が、彼らの進む道を照らす。その先、青火霊はふっと止まり、ゆらゆらと漂っていた。
まるで、ふたりを待っているかのように。
風が止み、山が息を潜めた。燐生は思わず呟いた。
「……美しい……」
青火霊は一瞬だけ、彼を見たように光を瞬かせた。そして、再び夜の奥へ――。
ふたりの影を導くように、青の尾を引いて駆け抜けた。
青火霊が、ふいに軌道を変えた。宙を駆けていた青の尾が、ひとすじの弧を描いて、山影の向こうへと消える。
「……曲がった?」
颯也が息を呑む。
燐生も額の汗を拭いながら頷いた。
「霊火が自分で進路を変えるなんて……普通じゃない」
霊炎の光が薄れ、代わりに冷たい月光が谷底を照らし始めていた。そこは焔脈の外縁――炎狐族の領域の果て、誰も近づかぬ“沈火の谷”である。
空気は重く、周囲の霊石がまるで息を止めたように沈黙している。風も、音も、ない。ただ、遠くで青火霊の光がゆらりと揺れていた。
二人は慎重に谷へと降りた。すると――ぴたりと風が止み、次の瞬間、低く冷たい声が響く。
「来たか」
谷の中央に、一人の男が立っていた。
背は高く、煤けた黒衣をまとい、尾の先が炎のように揺れている。炎狐族の印を持ちながらも、その気配は異様に歪んでいた。
その瞳は紅く光り、口元には微かな笑み。だが、それは“歓迎”ではなく、“失望”の色だった。
「……炎翁が来るかと思った。なのに――小僧たちか」
燐生の背筋が冷たくなる。颯也は槍を構え、低く問いかけた。
「何者だ。炎狐族の者か?」
男は答えず、谷の奥で揺れる青火霊を見つめた。
「火霊よ、来るべき者が来なかった。……今回は、残念だな」
青火霊が、まるで悲嘆するように震えた。
その瞬間、男の足元に刻まれた紋様が紅く光る。燃え上がるように地が脈打ち、火の線が走った。
颯也が眉をひそめる。
「……陣法だ!」
燐生の胸に直感が走る。――罠だ。
「颯也、離れろ!」
次の瞬間、地面が爆ぜた。轟、と大気が裂け、炎の柱が天へと伸びる。谷の岩壁が赤く染まり、熱波が押し寄せた。
男が指を鳴らす。
「――焔鎖えんさ」
地より炎の鎖が伸び、蛇のようにうねりながら二人を襲った。颯也が槍を振り、火花が散る。
「くっ、重い……!」
鎖は霊火で構成され、物理ではなく“気”を縛る。炎狐族の中でも、上位の術者にしか扱えぬものだった。
燐生は鎖を払いながら叫ぶ。
「颯也、上を狙え!」
「了解!」
颯也が跳び、槍の穂先から紅蓮の火を放つ。炎は龍となり、轟音を立てて男に襲いかかる。
だが、男は微動だにせず、片手を掲げた。
「――青焔。」
蒼い火焔がその掌に咲く。それは天の火にも地の火にも属さぬ、魂を焼く“第三の焔”。
青炎は龍となり、颯也の紅蓮を飲み込む。
「なっ――!」
颯也の火龍が砕け、逆巻く蒼炎が彼に襲いかかる。燐生が飛び込み、炎翁から授かった霊布を広げた。
霊布はたちまち燃え、無数の火花が弾ける。焼けるような痛みが肌を貫く。それでも、燐生は颯也を庇って立っていた。
男は目を細める。
「人の子にしては、よく耐えたな。だが――火を知らぬ者が、この谷に踏み入ること自体、罪だ」
「……罠を張っておいて、よく言うな」
燐生の声が掠れる。
「青火霊も、お前の仕掛けか?」
男は冷たく笑った。
「お前たちに語る言葉はない。……ただ、見届けるがいい。火の本質を。」
その背後で、炎が渦を巻く。九つの尾が立ち上がり、空を焦がすように輝いた。
焔脈の古き象徴――《九焔紋》。
風が凍りつく。颯也が息を呑む。
「九焔……まさか、伝説の……!」
男の声が谷に響いた。
「焔は生を灯し、同時に死を運ぶ。生を拒み、死を恐れる者よ、焔に焼かれよ――」
紅と蒼の火が彼の掌で螺旋を描き、詠唱が始まる。
「火よ、古より続く魂の道を開け。
天を焦がし、地を溶かし、灰より命を鍛えよ。
我が名にて命ず――“焔を鎖と為し、魂を試せ”。
《煉魂九焔陣れんこんきゅうえんじん》!」
九尾が一斉に揺れ、地面が燃え上がる。紅炎に青炎が絡み合い、谷が巨大な陣に変わった。
熱と光が奔り、空が歪む。
「颯也っ!」
燐生の叫びに応じ、颯也が槍を構える。
轟音。天地が閃光に包まれ、霊火が弾けた。青と紅がぶつかり合い、谷の形が歪むほどの爆裂。
視界が白く霞み、耳鳴りが止まらない。燐生と颯也の身体が地に叩きつけられる。焦げた空気の中、男はなおも立っている。
その掌には青火霊が燃えていた。男は槍を取り出し、青火霊をその穂先に宿す。
「お前たちに――槍の使い方を教えてやろう。」
その声と共に、焔が谷を覆う。
颯也の指の間から血が滴る。燐生の掌は震え、霊布を強く掴みしめた。両者の瞳が交わる。
次の瞬間――焔が咆哮した。槍と槍が激突し、天地が裂けるような閃光が走る。
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