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第7話 青火霊の罠 炎心の教え
しおりを挟む谷に、火と霧が渦を巻いていた。
焔脈を流れる霊気が唸りを上げ、岩肌を紅く照らす。風が焦げ、霊圧が大地を震わせる。
颯也の槍が一閃した。
「――はッ!」
槍先が空を裂き、紅蓮の炎輪を描く。風が唸り、霊火が爆ぜた。
対する男は、一歩も動かない。黒い外套が風に翻り、長槍を軽く構えるだけ。その姿は、まるで炎そのものだった。揺れ、踊り、しかし掴めぬ。
颯也の一撃が迫る。男の槍が軽く動いた。
「……遅い」
金属が打ち合う乾いた音が谷に響く。紅炎が掻き消え、颯也の身体が弾かれた。
地に転がり、立ち上がる肩に焼けるような痛みが走る。見下ろすと、衣に焦げ穴が穿たれている。
「悪くないが――気の流れが見えていない」
男は静かに言った。声に怒気はない。だが、その余裕が、颯也の胸を強く揺さぶる。
「黙れ!」
再び踏み込み、炎が爆ぜ、霊圧が爆風となって、谷を覆う。だが男は、槍をわずかに回し、青火霊を一転させただけで、すべてを逸らした。
——まるで世界の“中心”が彼にあるかのようだった。
燐生はその気圧を見て、即座に印を結ぶ。
「封陣——燼界!」
掌から青白い符が舞い上がり、男の足元で炸裂する。霊光が鎖のように絡みつき、空気が一気に重くなった。
「颯也、今だ!」
二人の気が交わり、火と風が一つの奔流となる。谷が爆ぜ、岩が裂け、炎が走る。だが——男の瞳は微動だにしない。
「小賢しい」
槍の動きは蛇のようにしなやかにうねり、死を孕んで颯也の心臓を狙う。だがその刺突の途中、柄を反転した。穂先は燐生の胸へ。
「——っ!」
燐生は霊布を展開しようとしたが、間に合わない。槍の穂先が青火霊を纏い、稲妻のような速度で迫る。とっさに、燐生は素手で槍を掴んだ。
焼ける。皮膚が裂け、骨まで熱が貫く。痛みが意識を奪おうとした。それでも——手を離さなかった。
男が力を込める。
「死ね、小僧!」
男の腕が膨れ、霊圧が爆ぜ、槍が押し込まれる。刃が燐生の腹を掠め、血が滲む。視界が白く染まり、痛みが世界を歪む。
――その瞬間。
光が、燐生の右手からあふれた。掌紋に重なる三つの稲妻の痕が、金色に輝く。それは雷の印。静寂を裂く、古の光だった。
「……!?」
男の目が見開かれる。槍が鳴った。光が柄を伝い、男の腕を駆け上がる。
雷鳴が轟き、空気が焦げ、青火が一瞬にして消し飛んだ。
「ぐああああああっ!」
男の悲鳴が谷を震わせた。雷光が爆ぜ、青火が霧散する。男は槍を放し、岩壁に叩きつけられた。
煙の中で、燐生は荒い息をつく。掌が焼け爛れ、血が滴る。だが、光はまだ消えず、わずかに脈打っていた。
男はよろめきながら後退した。
「その手……知っている……お前! ハハハ、見つかったぞ。あの方に報告せねば......!」
その声には、恐怖と興奮が混じっていた。
次の瞬間、男の身体は炎の靄となって掻き消えた。
颯也が駆け寄る。
「燐生、大丈夫か!」
「……平気」
燐生は震える声で答え、血に濡れた右掌をそっと袖の下に隠した。なぜ、突然雷が出てきたのか、彼には理解できなかった。だが、それは単なる偶然ではない、何か不思議な予兆であるかのように感じられ、反射的に傷痕を隠したのだ。
☆★☆
焔庵に戻る頃、夜は白み始めていた。炎翁が灯火の前で座している。卓の上に、燐生は焼け焦げた槍を静かに置いた。
「これが……あの男の槍です」
炎翁は黙ってそれを見つめた。
「……この紋、間違いない」
皺の刻まれた指先が、槍の刻印を撫でる。
颯也が問う。
「ご存じなのですか?」
炎翁は深く息を吐いた。
「かつて同じ師の下で術を学んだ弟弟子だ。名は黒瀬くろせ。師が亡くなった夜、青火霊を盗み、姿を消した」
燐生が目を上げる。
「盗んだ……?」
「うむ。師は本来、その火霊をわしに託した。だが奴は、力として奪おうとしたのだ。」
炎翁は瞳を閉じる。
颯也が眉を寄せる
「なぜ、今になって炎翁を探すのです?」
「わからん。ただの因縁ではない......」
燐生は胸に手を当てる。掌の奥には、まだ淡い光が残っていた。
――“見つかった”、“報告する”。男の最後の言葉が、頭から離れない。
彼は静かに掌を閉じた。
外では霧が晴れ、焔庵の上空に朝陽が昇り始めていた。炎のような光が雲を貫き、世界を染めていく。
☆★☆
炎翁は、炉の前で静かに佇んでいた。背は曲がり、煤に焼けた肌は黒ずんでいる。だが、その眼光は鋭く、赤く燃える炉の奥にある“何か”を見透かすようだった。
「お前たちは――錬器を学びたいか」
低く、しかしどこか温もりを含んだ声だった。
燐生と颯也は、膝をついて並んで座っていた。
数日前の戦いで受けた傷はようやく癒えたが、心の奥にはまだ熱の余韻が残っている。
二人は迷いのない目で顔を上げた。
「はい。学びたいです」
炎翁は鼻を鳴らした。
「ふん、誰もが最初はそう言う。だが――火の前に立つ者の半分は逃げる。火は情けを知らん」
そう言って、炉の中に鉄塊を投げ入れた。轟、と音がして火花が弾け、赤い閃光が二人の頬を照らす。
「いいか。錬器とは、“打つ”ことではない。金属の中に流れる”気”と”心”を読むことだ。器は鍛える者の心を映す。歪んだ心では、どれほど霊力を注いでも器は割れる」
炎翁の声は乾いていた。だが、その奥に長い年月をくぐり抜けた響きがある。
「まず――火を知れ」
炎翁は指を鳴らした。炉の火が四つの形に変わる。赤く燃え盛る火、柔らかく包む火、金属を溶かす白火、そして透明に澄む青火。
「燃やす火、温める火、溶かす火、浄める火。どれも“火”だが、性は異なる。錬器師は、まずこの四つを見分け、使い分けねばならん。火を誤れば、器を焼くだけでなく――魂すら焦がす」
颯也が息を呑んだ。炎の中の青白い光が、霊火のようにゆらめいている。燐生は目を細め、じっとその揺らぎを見つめた。火の音が呼吸のように聞こえた。
「火の声が、聞こえる気がします」
「聞こえるなら、よく聞け」炎翁が頷いた。
「火はお前の心にしか語らん」
炎翁はゆっくりと鉄を炉から取り出す。真紅に光るそれが、火の息に合わせて脈打っているようだった。
「次は“心”の修行だ。器を打つ前に、己の心を鎮めろ」
颯也が符筆を取り出し、息を整える。符文が宙に舞い、火の流れをゆるやかに包み込む。
「うまいな。火を怖れぬ心だ」炎翁が呟く。
一方の燐生は、動かず火を見つめ続けていた。頬を伝う汗も拭わず、ただ火の呼吸を感じようとしていた。
「どうした。火が怖いのか?」
燐生は首を振った。
「いえ……火の“呼吸”を掴もうとしています」
「よし。火は言葉を持たぬ。感じて、応えろ」
燐生は炉の前に膝をついた。熱気が肌を刺す。呼吸が浅くなる。視界の端で、火がうねる。
――その奥に、何かがいる。炎の中の鉄塊が、かすかに震えた。まるで心臓の鼓動のように。
「力を入れるな。呼吸を合わせろ」炎翁が言う。
燐生はゆっくりと息を吐いた。
次の瞬間――カァン、と澄んだ音が響く。鉄が鳴いたのだ。炉の火が、一瞬だけ静まった。
燐生は驚いて眉を上げる。
「……今の音は、なんだ?」
颯也が首を傾げた。
「何も聞こえなかったぞ。どうした?」
燐生は首を振る。
「わからない。ただ……火が応えた気がしました」
炎翁は静かに頷く。
「器の音が聞こえたか。今日のところは、それで十分だ」
彼は鉄の棒を炉から取り出した。赤く光り、火花が散る。
「これが“最初の音”だ。火が鍛冶師を認めた音。お前たちも、いつかこの音を自在に響かせよ」
二人は深く頭を下げた。
火花が散るたび、空気が震える。まるで炎そのものが、彼らを見つめているかのようだった。
「次に学ぶのは“素材の霊を聴く”ことだ。」炎翁が続ける。
「鉄も石も、木も、すべて命を持つ。石には『眠り』、金には『息』、木には『囁き』がある。それらを感じ取れぬ者は、いくら叩いても“死んだ器”しか作れん」
颯也が問う。「素材に、霊が……?」
「あるとも。火に焼かれ、槌に打たれ、それでも残る想い――それが霊だ。錬器師はそれを“起こす者”でもある」
炎翁は少し間を置き、ふと炉の火を弱めた。
「最後に、“魂火の錬成”を教える。これは命を賭す技だ。自らの生命火を一滴、器に分け与える。その火が器の中で生き続けるなら――お前は初めて“錬器士”と呼ばれる」
その言葉に、二人の背筋が伸びた。命を分け与える。器を生むというのは、単なる技ではない。己の魂の一部を託すということだ。
炎翁はゆっくりと火を見つめながら言った。
「焦るな。火を知り、心を鎮め、素材を聴け。それができて初めて、“魂火”を扱う資格がある。……火は嘘をつかん。心が濁れば、器が割れる。――それを忘れるな」
炉の火が、ぼうっと静かに揺れた。
その光はまるで、若き二人の胸の奥に灯った“新しい火”を祝福しているかのようだった。
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