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第9話 聖火のゆらぎと焔脈の卵
しおりを挟む夜の風が、窓の隙間から吹き込んだ。焔璃姫は筆を止め、巻物の端を押さえながら窓を閉じる。外は雲の切れ間から満月がのぞき、薄銀の光が紅い御簾を透かして床を照らしていた。机の上には、古の炎狐族の紋が描かれた文様書。蝋燭の炎がゆらめき、金の髪飾りに柔らかな光を散らす。
「……風が強くなったね」
焔璃は呟き、ゆるく瞼を伏せた。白衣の袖が風に揺れ、月光がその横顔を青白く縁取る。
「父が戻らぬまま、聖火までも消えかけている。……それでも、皆、それぞれの想いで立っているのね。」
炎の音が、小さくぱちりと鳴った。その一瞬の閃きが、胸の奥の焦燥を照らすようだった。
「焔璃姫様!」
扉の向こうから、張り詰めた声が響く。
「焚天大法陣、全ての陣柱が整いました。いつでも起動できます!」
声の主は煉火――炎狐族最年少の将。赤焔の髪が月光を浴びて揺れる。
続いて、低く響く声が重なる。
「姫様。大法師より伝言です。法師たちの魔法陣も完成し、霊流の導引も終わりました。」
焔璃は扉を開け、二人を見つめた。外の夜空には紅い雲が渦を巻き、風が山々を渡っている。
「ありがとう、煉火、焔牙。――南東の結界は?」
「風焔谷の陣士たちが守っています。夜明けには交代の部隊が来ます。」
「金霊石の供えは?」
「三十個、祭壇に安置済みです。」
「霊流の導管は?」
「焔脈と直結。もし乱れが出ても、補助陣で維持可能です。」
焔璃は小さく息を吐き、そっと呟いた。
「……父上が残した焔脈の教え、今こそ生かす時ね。」
焚天大法陣――それは炎狐族の命脈を繋ぐ秘法。聖火の炎を天へ還し、再び地へ降ろす「転焔の術」。
成功すれば、炎狐の焔は再び燃え盛る。だが失敗すれば、すべての炎が消え、族は滅びる。
焔璃は満月を仰ぎ、祈るように両の手を組んだ。
「……どうか、もう一度――聖火が蘇ってくれますように。」
☆★♪
その頃。焔脈の麓――夜霧に包まれた鍛冶場。
燐生は、炉の前に立っていた。炎の息が彼の頬をなで、金槌が鉄を叩く音が夜に響く。「聴け……素材の声を。」炎翁の言葉が脳裏に残る。
火は歌い、鉄は呻き、岩は静かに語る。それらすべてを聴き、融かし、魂とひとつにする――それが錬器の道。
彼の前にあるのは、折れた剣の破片。月光に濡れ、かすかに光を放つ。
「……お前の“心”は、まだ生きているな。」
燐生は掌をかざし、霊気を流し込む。だが焔が弱い。火が吸われるように揺らぎ、炉の奥で息絶えようとしていた。
「おかしい……焔脈の力が、薄い?」
燐生は炉の火を覗き込んだ。焔の色が淡い。まるで、力をどこかへ吸い取られているかのようだった。焔が弱まる。息をするように、消えかけている。
そのとき、背後から軽い足音。
「燐生!」
振り向くと、颯也が立っていた。片眉を上げ、いつものいたずらな笑みを浮かべている。
「また夜通し修行か。まったく、真面目すぎる。」
「……何の用だ?」
「北の焔脈の方でさ、新しい滝ができたって話、聞いたか?」
燐生は眉をひそめた。
「滝? あの辺りは岩肌の荒地だ。そんなはずは――」
「だから、見に行こうぜ。宝が湧き出すかもよ。こういう時の勘、俺は外したことない。」
燐生は小さく笑った。
「また無茶を……」
だが胸の奥が、奇妙にざわめいた。焔が弱まる理由。焔脈の異変。滝――。
「……わかった。行こう。」
「決まりだな!」
二人は鍛冶場を抜け、山道へ出た。月光が霧を照らし、風が衣をなびかせる。焔脈の鼓動が、足元から伝わってくる――鈍く、乱れた拍動。
「……何かが、目を覚まそうとしている。」
燐生は呟いた。
☆★♪
遠く、焔璃の宮殿でも、聖火が突然ゆらいだ。火柱が波打ち、光が天井を染める。焔璃の表情が凍る。
「……この波動、まさか……」
焔牙が駆け込んできた。
「姫様、北の焔脈で異変が発生。滝が現れたとの報告です!」
「煉火を呼びなさい。すぐ出発するわ。」
焔璃は立ち上がり、聖火を一瞥する。その焔は、確かに何かに呼応するように震えていた。夜風が再び吹き込み、蝋燭の灯を消す。闇の中で、焔璃の瞳が、ひとすじの紅を宿して輝いた。
――その夜。炎狐の地全体が、微かに震えた。
焔の滝の奥、封じられた“光”が、いま目を覚まそうとしていた。
☆★♪
滝は一つではなかった。
あちこちの岩壁から、轟音とともに水が噴き出していた。まるで大地そのものが息をしているかのようだったが、その息には腐臭が混じっていた。硫黄と焦げた石の臭い――地の底で、何かが蠢いている。
燐生と颯也は、その光景を前に言葉を失っていた。
「……滝というより、噴水だな」
颯也が鼻を押さえる。
「水の匂いじゃない。……これは、マグマの前触れだ」
燐生の声は低かった。地底の鼓動が、靴底を通して伝わってくる。
谷にはすでに数十人の炎狐族の影があった。尾を揺らし、耳を立て、ざわめきながら滝を見上げている。その中心に、紅衣の焔璃姫が立っていた。風に流れる黒髪、金の髪飾りが淡く光を返す。その両脇には、煉火と焔牙――炎狐族の将たちが控えていた。
焔璃は高台の岩に立ち、両手を広げた。
「これより先は危険です。すべての者、ここから離れなさい!」
その声は滝音を越えて谷全体に響いた。炎のような威圧と、慈しみを帯びた声だった。
だが、族の者たちは動かなかった。
この地に眠る“重宝”を信じ、誰もその場を離れようとしなかった。焔脈は炎狐族にとって火の流れであり、富の根である。滝が増えるなど、宝の兆しと信じて疑わないのだ。
「おい、どうする? 帰るか?」
颯也が肩を叩く。
燐生は視線を滝へ向けたまま、静かに言った。
「……もう少し見よう。せっかくここまで来たんだ」
そう言いながらも、二人はゆっくりと後方に下がりはじめた――その瞬間。
――地が呻いた。
岩が裂け、空気が震える。足元から伝わる衝撃。
次の瞬間、滝のひとつが爆ぜた。
「マグマだ――っ!」
赤い閃光が水を貫き、爆風とともに火柱が立ち上がる。炎が空を染め、飛沫が蒸気となって襲いかかった。悲鳴が交錯し、炎狐たちは一斉に逃げ出す。
颯也は風を纏い、瞬く間に斜面を駆け下りた。
「燐生! 早く!」
だが、燐生の足は止まっていた。何かが、足元に転がったのだ。掌ほどの、丸い物体。透き通るような殻の中に、淡い七色の光が揺らめいている。
「……卵?」
その瞬間、卵が弾んだ。
「――あつっつ!――あつっつ! 見てる場合か、マグマが来るぞ!」
燐生は息を呑んだ。
「……喋った?」
「おいおい、そっちだ、逃げろって! お前、脚遅いな! 転がる俺の方が早いぞ!」
マグマの爆音とともに、熱風が押し寄せる。燐生は思わずその卵を掴んだ。掌が焼けそうなほど熱い――だが、不思議と痛みはなかった。
「助かった!」
卵の中から、明るい声が響いた。
「いいから走れ! 遅いぞ! 運動不足だな!」
「うるさい!」
燐生は懐に卵を押し込み、必死に走り出した。
背後では、焔璃姫が結界を展開し、炎狐たちを守っていた。紅い光が滝の霧と交わり、まるで血の翼のように広がっていく。
「走れ走れ、あーもー遅い! 転がった方が早いか?」
「岩にぶつかるだろ!」
「俺、丈夫だから大丈夫!」
「黙ってろ!」
混乱の中、燐生と一つの卵は命がけで山を下った。
夜。
焔脈から離れた村の鍛冶場。燐生は卵を机に置いた。殻はひんやりとして、光もすっかり沈んでいる。
颯也が溜息をつく。
「今日は運がなかったな。あれだけ騒いで……結局、重宝なんてなかった。」
燐生は小さく笑う。
「でも、これを拾った……」
「それ? ただの石じゃないのか?」
颯也は指で弾く。
「ただの玉石じゃないか。川で丸く削れたやつだ」
「いや、違う。喋ったんだ」
燐生は真剣な目で卵を見つめる。
「“助かった”って言ったんだ。はっきり聞こえた」
だが、卵は何の反応も見せなかった。
ただの石のように、静かに横たわっている。
「……まあ、疲れすぎて幻聴でも聞いたんだろ」
颯也が笑いながら立ち上がる。
「おやすみ。夢で喋る石とでも語り合えよ」
彼は部屋に戻っていった。
燐生は一人、机の前に残った。火炉の焔がゆらめき、卵の殻を照らしている。
「……お前、ほんとは何なんだ?」
返事はない。だが、わずかに殻の奥で光が瞬いた気がした。それは七色に揺らめき、まるで命の鼓動のようだ。
☆★♪
数日後。
焔脈の噴出は止まり、谷はすっかり姿を変えていた。黒い岩の裂け目から、淡い紅光が滲み出している。まるで、大地に新たな血管が通ったように。
焔璃姫はその光景を見つめ、低く呟いた。
「……これが、新しい焔脈」
足元の地が脈打っていた。温もりがある――だが、聖火の気は薄い。
「聖火の力が分散しています。新しい焔脈が生まれた代わりに、古き炎の根が弱まりました……」
煉火の声に、焔璃は目を閉じる。
「ええ……もしこのままなら、聖火の火は数ヶ月で絶えるでしょう」
風が吹き抜け、谷を越る。
遠く鍛冶場で、誰にも聞こえぬ微かな声が届く。
「……あー、腹減った……」
七色の殻が、かすかに震えていた。
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