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第11話 焔脈封鎖の夜
しおりを挟む炎翁の鍛冶場の朝は、いつも火の息と共に始まる。
谷の底を流れる赤霧が、岩肌を照らし、炉の奥では金属が鳴る。火花が散り、まるで星が夜を貫くようだった。
燐生はその光の中に立ち、槌を振り下ろす。
「焦るな。金属の音を聞け。」
炎翁の低い声が響く。槌が火を打つたび、焔が応えるように脈打ち、炉が息づく。
昼は錬器の修行。夜は颯也との槍稽古。
それが、燐生の日常であり、静かに積み重なる修行の道であった。
夜の火の風が止むと、谷の外れに二人の影が浮かぶ。
「足が重いぞ、燐!」
颯也の笑い声が夜気を裂き、燐生も負けじと笑った。
「そっちこそ、火を恐れて避けてる!」
槍が空を裂く。灰が舞い、月光にきらめくその光景は、まるで星屑の戦いだった。
修行は緩やかだが、確かに進んでいた。
古い巻物から感じ取れるのは、今も「心」「陰」「陽」の三文字だけ。だが、今では触れずとも、三つの経脈を通じ、灰素・霊素・理素が流れるのを感じられる。
灰素は灰から、霊素は自然から――だが、理素だけは自ら生み出せない。
その代わりに、燐生には一つの”相棒”がいた。
掌ほどの卵。淡い七色の光を宿し、静かに脈打つ命。
燐生はそれを「小玉こだま」と呼んでいた。
夜、眠るとき、小玉は燐生の右掌の傷跡から灰素と霊素を吸い取り、代わりに理素を吐き出す。その理素が、燐生の体を満たし、三素の循環を調和させる。
――まるで、呼吸を合わせる友のように。
もちろん、小玉も成長している。吸い取るたびに七色の光が強まり、時折、殻の奥から“心臓の鼓動”のような音がする。うるさいのも変わらない。二人きりになると、よく喋る。
「ねえ燐、今日の火、ちょっと荒れてたね!」
「お前が見てたのか?」
「見てた! 見てたけど、熱すぎて寝ちゃった!」
燐生は苦笑し、肩をすくめる。
☆★♪
その日の昼下がり。
炎翁が炉の前で眉を寄せた。
「……霊煤が足りんな。谷の奥の山から採ってこい。霊火が不安定だと、器が焼けすぎる。」
「わかりました。」
炎翁はうなずきつつ、重々しく言葉を続けた。
「最近、大地が騒いでおる。焔脈が乱れ、地が割れたり、起き上がったりする。気を付けるんだ。」
「はい。」
燐生は槍を背負い、谷の裏手へと向かった。
谷の背後は険しい。崩れた岩壁が連なり、霊火の煙がゆるやかに流れる。奥には、霊煤を眠る洞窟――霊煤窟がある。
灰の霧をかき分けながら進む。岩肌が熱を帯び、ひび割れの間から青い焔が漏れていた。
「……この感じ、いつもと違う。」
燐生は掌をかざす。火の流れ――焔脈が歪んでいる。地の奥の焔が、不安に震えていた。
洞窟の入口に近い場所はすでに掘り尽くされていた。もっと深く――燐生は迷いなく降りていく。
「小玉、灯りを。」
「はーい!」
小玉が掌の中で光が強まり、淡光が周囲を照らす。
「暗いねぇ。ねえ燐りん、右、右! そこ、危ない!」
「わかってる。」
「本当に? いつも“わかってる”って言って、落ちるじゃん!」
「……落ちない。」
が、次の瞬間――
ズルッ。
「わ、わ、わっ!」
足元の地面が崩れた。裂け目が走り、燐生の体が落ちる。
反射的に槍を岩壁に突き立てたが、壁は硬く、火花を散らすだけ。それでも、速度はほんの少しだけ緩んだ。
どれほど落ちたのか分からない。ようやく地に着いたとき、尻の痛みが遅れてやってきた。
「いっ……た……!」
小玉は懐から転がり出て、ころころと跳ねた。
「痛い痛い! お尻が痛い! あっ、お尻ないけど、痛い!殻が割れるー!」
燐生は苦笑しながら小玉を拾い上げ、ひと回し見た。割れていない。むしろ、光が強くなっている。
「無事か?」
「無事じゃない! 心が痛い!」
燐生は悪戯っぽく笑い、もう一度“ぽとり”と落とした。
「いったーい!今わざとでしょ!」
「試しただけだ。」
「試さないで!」
燐生は小玉を拾い上げ、そっと掌にのせて、周囲を見回した。
そこは、地底の空洞だった。天井から垂れる赤晶、壁面に脈打つ焔の線――まるで、地の心臓の中にいるようだ。足元には、淡く光る結晶が散らばっている。
「……これが、霊煤?」
「違うよ、燐! これ、“焔核”だ!」
「焔核?」
「焔脈の源! こんなに近くに......!」
燐生は膝をつき、手のひらで光る結晶を撫でた。熱くはない。むしろ温かく、心臓の鼓動に似た震えを感じる。
「……生きてる。だがこの黒い線は......?」
その瞬間、足元の岩が脈動した。
ズズズ……ッ。
赤い光が走り、洞窟全体が震える。小玉が慌てて叫ぶ。
「燐! 逃げよ! 焔脈、噴く!」
轟音。
地が裂け、真紅の炎柱が吹き上がった。燐生は反射的に槍を構え、火流を避ける。渦巻く炎が、彼のすぐ脇を駆け抜けた。
掌の小玉は、淡く輝きながら、低く囁いた。
「ねぇ燐……聞こえる? 焔が、泣いてた。」
燐生は黙って頷いた。地底の炎は、痛みに呻くようにうねっている。
彼はその光の中で、槍を立てた。
「……行こう、小玉。焔脈の声を、聞きに。」
そう言って、火の揺らめく方へ、ゆっくりと歩き出した。
☆★♪
焔脈の出入口には、兵たちが列をなしていた。炎狐族の紋を背に刻んだ鎧が、夜の炎を映して輝く。
「焔璃姫の命令だ――すべての妖、人、出入りを禁ず!」
「伝令! 結界を遮断せよ! 焔脈の道、全て封鎖せよ!」
鋭い号令が谷に響き、兵たちは次々と霊石柱を立てていく。
金の光線が地を走り、焔封陣が展開される。谷を縫い止めるように、焔脈へのすべての路が閉ざされていった。
空には、焦げた赤雲が渦を巻く。
――聖火の余燼が、まだ空を焼いている。
焔璃はその光を見上げながら、唇を噛んだ。
「師の命を無駄にはしない……。この谷は、我が命に代えても守る。」
その瞳の奥で、紅蓮の光が静かに揺れた。
☆★♪
時を同じくして――
月狼一族の領地、蒼月の塔。蒼い月が雲を裂き、石造りの大広間に光を落とす。
古き狼の長老たちが、巨大な円卓を囲んでいた。
「……つい先ほど、炎狐族の聖火が消えたとの報告があった。」
静かな声が落ちると、円卓の空気が凍りつく。
「ほう……あの焚天の火が、か。」
「巫女の占によれば、聖火はあと数か月は持つはずだった。」
「焚天大法陣が失敗したという噂もある。聖火が消えれば、焔脈の守護は崩れる。」
「つまり――攻め時ということだな。」
狼の目が月光を反射して光る。
「炎狐族は代々、焔脈を守ってきたが、あの焔が消えた今、谷の加護は失われた。」
「すぐに出陣せよ。炎狐の地を奪え。焔を手にした者こそ、この地を治めるにふさわしい。」
長老たちは立ち上がり、吠えるように唱和した。
「焔を奪え――月狼の牙を立てよ!」
夜空が震えた。
その瞬間、遠い山々の向こうで、無数の青白い狼火が灯った。月狼の軍勢が、山霧を割って進軍を開始したのだ。
☆★♪
一方、青狐族の領。
碧光に包まれた霊林の奥、蔦の宮で静かな声が響く。
「炎狐族の聖火が……消えた?」
「はい。我が族の工作員からの伝令にございます。」
報告を受けた族長は、扇を止め、眉をひそめた。
「本当か。焔脈が閉ざされたと?」
「はい。焔璃姫の命令で結界が張られ、出入りが不可能になったようです。」
「月狼の動きは?」
「すでに兵を動かした模様です。」
「……やはり、狼どもは血の臭いに敏い。」
族長は薄く笑い、碧の扇を閉じた。
「よい。今は動くな。両族がぶつかるまで、静かに見届けよ。灰が舞う時、焔は奪うものではなく拾うものだ。」
「御意。」
青狐の使者たちは影のように散っていく。碧林の奥では、妖しい花が夜に咲き、霊の香を吐いていた。その香は、嵐の前の静けさのように甘く、危うい。
☆★♪
同じころ、炎狐族の地下牢獄。地の底にある獄舎には、腐敗と死の匂いが満ちていた。
「なぁ、聞いたか?」
「何を?」
「聖火が消えたんだとよ。上の連中、焦って結界を張ってる。」
囚人の一人が鉄格子を叩く。
「焚天大法陣が失敗したって話もある。大揺れもそのせいだろう。」
「ってことは……脱走できるかもな。」
暗闇の中、何人かの囚人が顔を見合わせる。
「脱走したらどうする?」
「決まってる。家に帰るんだ。その前にちょっとばかり暴れて、銀でも金でも手に入れてな!」
「私は女だっての。暴れるのはお前らの役目。」
「ハハハハハ!」
笑い声が響き、天井から灰がぱらぱらと落ちる。
だがその笑いの下で、一人の囚人だけが黙っていた。
遠く、地鳴りが響く。焔脈の底で、赤い光が脈動している。
☆★♪
炎狐族の聖域――焚天の谷。
そこは今、かつてない静寂に包まれていた。空を覆う黒煙はまだ消えず、地の底では、何かが目を覚まそうとしている。
焔璃は封印陣の前に立ち、風に翻る炎衣を握りしめた。
「父よ、師よ……私は、まだこの焔を守れるでしょうか。」
その問いに答えるように、足元の地が低く唸る。
焔脈の夜は、まだ明けていなかった。
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