日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―

紅連山

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第1話 東海の霊島

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【東海の霊島】

 東海に浮かぶ、名もなき霊島。その島の東端、潮騒が間近に聞こえる小さな木造家屋に、それは始まった。

 「正雪(まさゆき)、起きなさい! もう陽が高く上がっているよ。宿題はちゃんとお終いになったんだろうね? まだ先生に叱られるのは御免だよ」

 雪の日の朝のような、張り詰めた透明感を持つ女の声が、まだ薄暗い家の中に響く。常盤正雪(ときわ・まさゆき)は、ごわごわの敷布団の中で体を丸めたまま、うっすらと目を開けた。

 「わかったよ。うるさいな、狼みたい」

 思わず口を突いて出た小言に、母の気配がぴたりと止まった。

 「…何だって? 正雪。お母さんに文句でもあるのかい?」

 声のトーンが急降下し、冷たさを帯びる。背筋に冷たい雫が伝うのを感じ、正雪は慌てて起き上がった。母は、まるで月の光を凝縮したような白い肌と、長い銀色の髪を持った、息を呑むほど美しい女性だが、その気性の激しさこそが、彼女の異名の由来である。

 「な、なんでもないよ! ほら、布団はちゃんと畳むから!」

 正雪は布団から飛び出し、手早く布団を畳み始める。

 「うん。今回は許す」

 母はそう言って、畳まれた布団の上を軽く叩いた。彼女の指先からは、薄い氷の膜のような霊力が一瞬立ち上り、布団の形を豆腐のように整えた。

 「ありがとう。母上様!」

 正雪は頬を膨らませながら、洗面へと向かった。

 「朝ごはんできたよ。大好きな焼き魚と味噌汁。食べたら、早く修行塾に行きなさい。美津のおばあちゃんが鬼を見たって、震えていたよ。昼間でも気を付けてお行き」

 正雪はこっそりと小さく笑った。母さんはいつも顔だけが厳しい。

 焚き火で焼かれた魚の切り身と、岩海苔の味噌汁をかき込む。熱いものが、胃の府にじわりと染み渡る。

 「鬼、か…」

 島の周辺で、このところ「鬼」や「妖」の目撃情報が急増している。この平和な島に、不安の影が差し始めていた。噂によれば、現世と幽世の壁は亀裂し始めており、いずれその壁が崩れるそうだ。


【協議会堂の密談】

 時を同じくして。

 島の中央に位置する、霊力石を組み上げた荘厳な大協議会堂。島の修行者たちが集うその場所で、正雪の父、常盤清次は、硬い表情で口を開いた。彼はこの島の修行者たちの長であり、島の守護を担う修仙者だった。

 「…最近は、鬼を目撃したという情報が飛び交っている。皆の不安は頂点に達している。このままでは島民の間に混乱が広がる」

 低い、だがよく響く清次の声に、ざわついていた場が一瞬静まる。

 「助けを求めて、隣の島の宗門に裕也を行かせた」

 「しかし、間に合わないかもしれんね。隣の島までは遠すぎる。現時点での防御の準備はどうか?」

 白髪の老修仙者が厳しい顔で問うた。

 「しっかりと準備はしている。島の周囲に結界を張り、修仙者を北側に重点配置している。ただ、人手不足で、難しいところがある…」

 「清次。君の奥さんも霊力者ではないか。その力は侮れん。この緊急事態だ、島の守りに加わってもらえぬか」

 白髪の老修仙者がそう進言するや否や、清次の顔が怒りに凍り付いた。

 「ダメだ」

 彼の霊力が一瞬、部屋全体を重く押さえつけた。正雪の母親の正体は雪狼の妖である。これは、二人の間の秘密であり、正雪にも教えていなかった。戦いに加われば正体がバレる。人間と妖の結婚は絶対に許されるものではないことは、彼は重々承知している。

 「男は女を守るんだ。妻の力に頼るなど、島長のすることではない」

 「しかし、緊急事態だぞ」

 「その時に来たらね」清次はそれ以上を語らず、冷徹に話を打ち切った。


【修行塾への道】

 常盤正雪は、島の集落を抜け、一番南側にある修行塾へと続く山道を進んでいた。

 口元には、母がくれた野草を嚙んでいる。その草の、淡く、それでいて舌に長く残る苦味が、正雪には癖になっていた。だけど、修行塾の先生たちにも、その草の名前が分からない。どこかで見つけて摘み取ったものであろうか。母に聞いても教えてくれない。母は秘密が多いなといつも思う。

 修仙者になるには、霊根れいこんというものが必要だ。だが、修行塾の先生の曰いわく、正雪は霊根がない。修行塾に通っても、修仙者になることはあり得ない。父は島の最強の修仙者なのに、その息子は修仙者になりえないことは、一時的に正雪はすごく落ち込んでいた。

 だが、母は名のない野草をくれた。これを服用すれば、いつか体の中の霊力を蘇よみがえらせるという。正雪は霊根がないわけではない。活性化していないだけだと母は信じてくれた。その母の揺るがない信念に感化され、正雪もそれを強く信じている。

 成績は一番悪くても、修行塾に通い続けている。

 空には、島の修仙者たちが、御剣の術で霊剣に乗り、白い軌跡を描きながら飛び交っている。

 「ちくしょう、格好いいな」

 正雪は空を見上げる。自分もいつか仙術を駆使し、彼らのように大空を飛べればいいのに。

 「そうすれば、漁をする時だって、遠く、高く飛んで、すぐに魚の群れが見つかるだろうに」

 ところで、最近、父はずっと眉間に皺を寄せ、何か悩んでいる様子。

 正雪が何回も聞いても、何も教えてくれなかった。

 「お前はまだ、知らなくていい」

 ただそれだけ。母ちゃんも、以前のように小言を言い、賑やかにしゃべり続けることが少なくなり、黙って考え込んでいることが多くなった。

 「俺はもうすぐ十六になる。もう一人前の男なのに、何も教えてくれない」

 ただ「塾に出なさい」とだけ言われる。その言葉が、正雪の胸の内に、深いいらだちと、置き去りにされたような寂しさを生んだ。


【襲撃と別れ】

 修行塾が終わり、正雪は島の集落の方向の家路を急いだ。塾で教えられた『火の術』はできるわけもない。霊力を生み出すのが精一杯だから。

 その時、村の方向から、薄い煙が立ち上がっているのが見えた。

 「ああ、晩御飯の煙か。今日のおかずは、何だろうかな」

 正雪はそう思った。だが、すぐに違和感が、彼の五感を鋭く貫いた。

 いいや、違う。

 立ち上る煙は、白ではなく、煤を大量に含んだ真っ黒い色。それは、食べ物を焼く煙ではなく、家屋が、あるいは、術が衝突する爆発の時に燃えている色だった。

 嫌な予感が、胸の臓を鷲掴みにする。正雪は全力で駆け出した。

 山道のカーブを曲がり、集落の全景が見えた時、正雪の目に映ったのは、地獄のような光景だった。

 家屋は炎に包まれ、悲鳴と怒号が潮騒をかき消していた。霊力で強化された、明らかに島のものではない、巨大で、獰猛な形の影が、村人を無残に切り裂いている。それは、伝説の生き物…鬼だった。

 「逃げろ!正雪!」

 村の仲間、紅夜こうやが、顔を煤で汚しながら、正雪めがけて走ってきた。彼は、山が紅葉に染まる夜に生まれたことから、その名前が付けられた、快活な少年だった。

 「どうした!紅夜!」

 「村が、鬼に襲われて…皆、逃げているの! 早く、一緒に逃げろ…!」

 紅夜の言葉を最後まで聞くことはできなかった。

 「そんな…」

 正雪はどうしても家に戻りたかった。母ちゃん、父ちゃんに会いたかった。一歩踏み出したその瞬間、集落の中心部から、凄まじい霊力の塊が放たれた。

 ――ドドォォォン!

 巨大な炎の球が、飛んできたのだ。

 正雪と紅夜は、その体を突き飛ばされる形になった。

 爆音と、灼熱しゃくねつと、鼻を突く血と焦げ付いた肉の臭い。

 その凄まじい衝撃の中、正雪は何も感じられなくなった。意識が白く遠のいていく。

次に感じたのは、水の冷たさだった。

 「…海に落ちたのか」

 正雪は、自分がただひたすら深い海の中を沈んでいく気がした。手足に力が入らない。全身の力が、魂と共に、外へ外へと零れ落ちていく。

 死ぬのか。そう思った時、正雪は最後の力を振り絞って、何かを掴もうと手を伸ばした。

 何かに触れた。丸く、滑らか、信じられないほど温かいもの。

 それは、父が肌身離さず持っていた、島の守護の霊石…いや、それとは違う、何か生物的な温かさ。正雪は、それを必死に掴み、意識の底へと沈んでいった。


【昏迷の夢】

 昏迷の中、正雪は夢を見た。

 暗い海の底に、一輪の花が咲いたように、綺麗な花のような女が見えた。

 白く光る、長い黒い髪。月光のように、透き通るような白い肌。それは、常世の国からきた天女だと思った。その女は微笑み、正雪を、深淵の闇から光の方へと導いている。

 「あなたは誰だ」

 声は出なかった。だが、その顔は、どんどんぼやけていく。正雪は必死にその顔を思い出したかったが、記憶には白だけであった。神聖な光は、綺麗な顔を覆い隠して、よく見えない顔だった。


【新たな師】

 再び正雪の目が覚めた時、彼の目の前にあったのは、老いた顔だった。

 深く刻まれた皺と、白い髭。だが、その顔には悪意は一切感じられず、まるで春の陽だまりのような、優しい温かさがあった。だけど、その顔は憎らしいほどの笑みを浮かべていた。

 「おお、目が覚めたか、若者よ。ワシは女じゃないよ。手を放してくれ。」

 老人は、正雪を覗き込むように言った。知らない顔だった。島の誰とも違う、深い海の匂いと、霊力の静けさを纏っていた。

 その後、正雪は知った。老人は道斎(どうさい)と名乗り、この海域で釣りをしている時、海流に乗って流されてきた、意識不明の正雪を釣り上げたという。

 正雪は、故郷の島を探そうとしたが、手がかりは一切なかった。海流に乗って、遥か遠くまで流されたのか。それとも、あの襲撃で、島は完全に滅びてしまったのか。生まれてこのかた、島から一歩も出たことがなかった正雪には、どうしようもないことであった。

 「若者よ。お主は、行く場所がないのなら、わしと一緒に過ごして良い」

 その日から、道斎は、正雪の父であり、そして、仙道の師匠となった。
 その日から、正雪は父と母と故郷を探し続け、力を蓄える日々が始まった。
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