日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―

紅連山

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第16話 漁師と海女の物語

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【深海の激闘:大アワビ討伐】

 ここは、深い海の底。

 水圧は岩のように重く、世界は沈黙と青黒い闇に満ちていた。正雪は荒れ狂う潮の中で必死に姿勢を立て直すが、肺は焼け、鼓膜は悲鳴を上げる。避水術のおかげで溺れはしないものの、長く保てる状態ではない。

 (……くそ。このままじゃ、押し潰される)

 視界の向こう、巨大な影が蠢いていた。

 ――大アワビだ。その殻は城壁のように厚く、要塞にも似た圧倒的な威圧感を放っている。

 だが、それだけではない。その周囲に、二つの淡い光を帯びた人影が揺れていた。海女の姿をした女性、そして漁師らしい男性。二人は肉体を持たない霊体でありながら、その表情には確かな怒りと執念が宿っていた。

 女は三叉の槍を、男は漁具の刃を振り、大アワビに叩きつける。しかし、いくら攻撃しても城壁のような殻には傷一つ付かない。

 大アワビは鬱陶しげに口を開く。

 ――轟。

 濃縮された海水の柱が噴き出し、海底を削り飛ばした。二人の霊は素早くそれをかわす。その姿は執念深い蚊か、あるいは、獅子を苛む烏のようだった。

 「……牛にハエ、だな。互いに決定打がない」

 正雪が呟いた、その瞬間。

 (――来る!)

 大アワビの口が再び開き、今度は正雪目掛けて水柱が襲いかかった。反射的に身を翻し、ぎりぎりで避ける。避けた直後の海底は深く抉られ、岩礁は粉となって散った。

 すぐ逃げようと背を向けた、その時。海が渦を巻き始めた。大アワビを中心に潮が回転し、巨大な渦潮が形成される。その渦は――檻だった。

 逃げられない。戦うか、沈むか。その二択しかなかった。

 正雪は刀を抜き、幾度となく斬撃を繰り返すが、殻は鉄より硬く、刃は通らない。(……効かない。なら弓は――)矢を放つも、殻に当たり、虚しい音を響かせただけで折れた。

 正雪の胸に虚無が広がる。(本当に……ハエが牛に挑んでいるだけじゃないか)

 その時、壺の中から声が響いた。

 「落ち着け正雪。呼吸を整えろ。霊力の消耗が早い」
 翠夏の落ち着いた声が、水底に清らかに響く。

 「私が潮鳴法螺を吹く!壺の口を大アワビへ向けて!」

 梨花の声は焦り混じりだった。正雪は方向を調整する。

 ――ボォォォォン。

 重く響く音が海底を震わせ、岩魚や海霊蛇が逃げていく――が、大アワビは微動だにしなかった。

 「効かない……!?」 
 「殻が音波を遮断している。別の手を考えろ」

 翠夏の声が鋭く響いた。河童の壺の攻撃は海中では発動できない。近接攻撃は無意味。法螺も効かない。(……打つ手なし、か?)じわじわと焦燥と絶望が胸を締めつける。

 逃げられず、攻撃は無意味。体力も霊力も消耗していく。海に潜れないため連れてこられなかった仲間――クルルが今ほど役立たずに思えたことはない。

 「鳥のくせに飛べても潜れないとは……役に立たん奴だ。」

 「正雪!今は愚痴じゃなく策を考えて!」
 梨花が怒鳴った。

 その瞬間、ふと、脳裏にある知識が浮かんだ。

 「……そうだ。海の生き物には、淡水に弱い――」

 瞬時に正雪の背筋が伸びた。

 壺の中には大量の水がある。その大半は淡水。塩水は、梨花の体質調整のために一部を混ぜているだけ。

 「翠夏、壺の淡水はまだ残っているか」
 「大量にある。……まさか――」
 「あれに浴びせる」
 「なるほど!海の生物にとって淡水は毒。やれる!」

 正雪はすぐに淡水を放出した。淡水は海水に溶けながらも性質を変え、ゆっくりと大アワビを包囲する。

 気づいた大アワビが身を震わせ――

 ――ゴォオオオオッ!!

 殻が震え、苦悶の波動が周囲に走る。やがて、大アワビは殻を閉じた。同時に、潮の渦が消えた。

 (……勝った)


【霊蝶の繭】

 静寂が訪れる。ポコ、と泡が弾け、一つの卵が海底へ転がり出た。正雪はそれを拾い上げると、霊体の二人へ向き直る。

 「……終わった。行こう」

 だが、海女が指を伸ばした。

 「待て。殻を見ろ。殻孔のところだ。」

 正雪は気づく。

 数珠のように並ぶ八つの殻孔。そのうち三つが塞がれている。

 「取れば弱るのか?」

 漁師男が言った。

 「逆だ。塞ぐんだ。殻孔が多いほど動ける。閉じれば眠る。」

 彼らは海草と岩の粉で作られた呪封材を正雪に渡した。
 「三人同時だ。」

 三人は同時に三つの殻孔を塞いだ。その瞬間――大アワビが暴れた。殻が開き、海そのものの怒号が解き放たれた。今までとは比べものにならない水柱と、水の矢が連続して放たれる。

 「くッ――!来るぞ!!」

 正雪は霊盾を張るも、すぐ砕ける。避ける間もなく、直撃した。その瞬間――胸元が光った。蝶の翅のような霊装が生まれ、正雪と霊体の二人を包む。

 翅は繭となり、暴流の力を借りて――、海の第三重から、第二重へ。さらに第一重へ。

 そして――海面を突き破り、空へ舞い上がり――再び海へ落ちる。だが、海面では嵐が待っていた。雷が繭を叩き、波は空を噛むように襲いかかる。七日七晩――繭は耐え続けた。

 やがて、嵐が止み、海は静寂を取り戻したとき、繭が解け、三人は静かな海上に立っていた。

 正雪は疲れた声で聞く。
 「……殻孔を塞いで、本当に良かったのか。」

 二人は深く頷いた。


【漁師と海女の物語】

 漁師の装束を纏った男と、白い貝殻の飾りを髪に挿した女。

 「……我が名は湊介。彼女は汐里。」

 男は静かに名乗り、女はかすかに会釈した。その声は風のようで、波のようで、しかし確かに耳へ届いた。

 ――遠い昔、三重海のそばに小さな村があった。

 男たちは沖へ漁に出、女たちは潜り、アワビやサザエを採って生を繋いだ。湊介はその漁師のひとりであり、汐里は海女として海に潜る者だった。

 二人は互いを思い合い、潮風に晒された手でそっと触れれば、それだけで十分だった。だが、運命は静かな潮にはなかった。

 ある日、汐里は奇妙な響きを持つ巨大なアワビを見つけた。試しにその殻を叩くと――

 ごぉ……ッ!

 海は荒れ、雷が走り、空は裂けた。

 彼女はそれがただの貝ではなく、海そのものを揺り動かす霊獣――“大アワビ”であると知った。それが災いとなるとは知らず、汐里はそれを「湊介を呼ぶ術」として使った。

 だが、ある嵐の夜。湊介が長く戻らなかったあの日。焦った汐里は強く強く殻を叩き――殻孔(呼吸孔)を塞いでしまった。

 世界は暴れ狂った。海は怒り、空は泣き叫び、波は牙を剥いた。汐里は泣きながら殻孔を開けようとしたが、嵐がそれを許さなかった。

 一方、村に戻った湊介は、彼女の名を叫びながら再び海に飛び込んだ。そして――二人は荒れ狂う海に呑まれ、深海へと還った。

 嵐は静まり返った。だが、大アワビの怒りが再び芽吹く未来は、誰にもわからなかった。

 「……私たちは死んでもなお、この海を離れられなかった。」

 汐里の声は波紋のように揺れた。

 「大アワビを眠らせる術を探した。そして見つけたのが――殻孔を減らすこと。」

 「奴は殻孔を増やして力を蓄える。だが、増えるより早く塞いでいけば……海は静かになる。」

 「数百年、私たちは大アワビのそばで……殻孔を塞ぎ続けた。そして、嵐は一度も起きなかった。」

 霊体の声には疲労と安堵と、消えゆく命に似た静けさが宿っていた。

 「だが――もう限界だ。」

 湊介は苦く笑った。

 「わたしたちは霊として留まりすぎた。誰か来てくれたら……とっくに消えていた。」

 「正雪。」汐里がふわりと近づき、その瞳を見つめた。

 「お願いだ。私たちの代わりに――三重海を守って。」

 「今は奴が眠っているが、六十年後、再び目を覚ます。目覚める前に封じるか。あるいは――十年ごとに新しい殻孔を塞ぎ続けるか。」

 「どっちでも良いが、お願いだから、約束してくれ。」

 正雪は静かにうなずいた。

 「……約束する。必ず三重海を守る。」

 二人の霊は安堵し、柔らかな笑みを浮かべた。汐里は微笑みながら、小さな貝殻を差し出す。

 「これが……殻孔を塞ぐ術。材料と術式、すべて書いた。」
 「君ならできる。いや――君しかできない。」

 光が強まり、二人の霊体は薄れていく。

 「ふるさとに帰るのか?」
 正雪が問う。

 「ええ……」
 汐里が微笑んだ。

 「もう人は誰もいないけれど。景色だけでいい。」
 「最後に、もう一度。」

 風が吹いたように、霊たちは遠くへ流れていく。

 「よく、生きよ。そして――忘れないで。」

 最後に残ったのは、ひらりと落ちた一枚の貝殻。その上には、『潮を鎮める者の術』と刻まれていた。

 正雪は静かに拳を握り、空を見上げた。白波が光を返し、その先には――果てしない青が広がっていた。

 正雪はその貝殻を胸に抱き、静かに誓う。
 「三重海よ――再び涙を流させはしない。」
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