海になるまで

そら

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遠いもの

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 真夜中の深海に気配があるとするなら、それは大抵、自分と、そこを根城にする生物達のものだ。
 街がそばに見当たらない時、ガラスは決まって深く潜り寝床を探す。旅の醍醐味として、大分慣れた様子で錨を突き刺し、物思いに耽る。
 できるだけ深海で眠るのは、追手から隠れるためだ。旅といえば聞こえはいいが、実際は当てもなく適当な放浪をしているに過ぎず、特別な感情を特定の街や海域に持つわけでもなかった。
 もしも、ガラスがベタの宿命を生まれ持ちさえしなければ、生まれた時から平穏な群れの日々を謳歌したことだろう。両親と兄や妹、仲間たちとどこかに定住することもできたかもしれない。進海獣は特定の縄張りを持つものもいれば生涯をあちこち移動しながら生活する者もいて、その選択は個人や群れの選択による場合が大半だ。群れから自立し離れることは、どこの群れでも、当たり前にあること。
 しかしガラスはから生まれながらにその当たり前から外れていた。ベタという種族に生まれたこと、これがどれだけ彼女の人生の多くを占めるかといえば、生涯のほとんどだといってしまえば身も蓋もない。
 特殊な薬効のある鰭や尾、これが争いの元凶だ。一部の進海獣にはこうした鰭を持つ種族がいる。これは定期的に生え変わるが、抜けたものの薬効は新鮮なものと比べると格段に落ちてしまう。それでも並みの薬以上の価値があるので抜けた鰭を自分で店に卸す者もいるし、それで済むなら、どれほど穏やかなことだろう。だが病や怪我で伏した多くのものが縋るのは最高の薬効を持つものだ。使えば病は消え失せ、傷も猛烈な勢いで治癒するといわれている。そして、それを望むということは鰭の持ち主本人に多大な負担を強いるということでもある。なぜなら、本人から生えた鰭や尾を根元から切り落とすことでしか入手ができないからだ。生え変わりの抜けた鰭では役不足で、麻酔を使用してもやはり薬効は落ちる。余程本人と関係が深いか、あるいは契約でもない限りその鰭を入手することは困難を極める。
 故に、強引に鰭の主を捕まえて切り落とそうとするような輩が湧いてくるのだ。
 切り落とされてもまた生えてくるが当然体の負担になる。
 結果、追われ、狩られ、そうして海にもなれずに骨となったものの数はしれない。だから、高い薬効を持つ鰭の種族は自分達を守るための方針を掲げる。
 大抵は『戦う』か『隠れる』だ。
 そして、ガラスの群れは前者だった。
 鰭を狙うものを一族や拠点諸共粉砕し、危険の元を徹底的に潰す。疑わしき全てのものを攻撃の対象とし、彼らの争いのあとには骸と廃墟だけが残った。
 元々ベタ系の種族は戦うことに慣れた進海獣だ。例えば、威嚇に高出力の音波をぶつけることは、本来狩りで獲物の自由を奪うのが精々である。だが、『武器の一つとして音波を使うという技術』が確立されている彼らが使えばそれは目に見えない鈍器のようなもので殴りかかることとなんら変わらない。戦いに不慣れな種族なら、音波だけで蹂躙されることは火を見るよりも明らかなことだが、彼らを『狩って』まで鰭を求める事情は身内のためであったり、あるいは裏社会での取り引きのためであったり、兎に角、需要は尽きない。
 また、ベタ系の群れが、ベタ系の群れを潰し合うことさえある。 情報を鰭を望むものに流して結託し、他人の鰭を売ることで自らは逃れようとすることは戦略として古くから用いられた。この場合大抵非常に大きな争いに発展しどちらかが平穏を勝ち取るまでは終息することはない。ガラスの群れの中でも過剰な自衛に反対するものはいたが長には逆らえずに従うばかりだ。群れを抜けようものなら裏切り者として処分される。抜けたものが群れの情報を流すことを阻止するためで、自衛のためには敵も味方も皆殺しにする。それが彼女の群れのやり方だった。当然ガラスは、それに賛成することはなかったが、幼少のころから何度も攫われそうになったのを助けたのも自分の父だった。その度に海域全てを戦場とし、全てのものを駆逐した。それだけの危険が常にあったことは事実と受け止めた上で、長である父の責任というものも同時に理解はしたいと思ったが、どうしてもガラスの目には単なる虐殺としか映ることはなく、その末に母を亡くしたことをきっかけに自ら群れを出てから大分経つ。追手がかかかることも、父や兄がいつか自分を殺しにくることも覚悟した旅の途中、何度も追手とぶつかり、その度に顔見知りの仲間を傷付け、生き延びてきた。群れの接近を自分に知らせてくれた元仲間は、波の噂に処刑されたと聞いた。あの時の複雑な感情は、未だに自分の生きている理由を尋ねてくる。
 決して争いたいわけではないのだ。群れを出る前に何度も話したが、結局分かり合えず、挙句、情報を流すだろうと疑われ続けている。疑心暗鬼が争いの勢いに拍車をかけていることがよくわかる。話し合いができないことより、疑われていることのほうが彼女の心には突き刺さっていて、争いのない場所に行きたい。居たい。そういう気持ちの源の一つになっている。しかし、いつ襲われるともわからない自分が街に生きることは不可能だ。最悪無関係な街の進海獣を巻き込んで、街まで破壊されてしまう。昔、そういうことが数え切れないほどあった。思い出すたびに、戦闘よりも避難の呼びかけを優先していた虚しさが心を曇らせる。ささやかな抵抗だったのかと、今更気がついた。
 当時、戦えと仲間から怒鳴られるのはともかく、明らかな一般人に避難を呼びかけていると自分は何をしているのだろうかと、考えていた。戦いが終わっても、乱暴に作り上げた静寂の中では答えが出るはずもなかった。
 いつかもし、自分が死ぬとすれば事故か病気、あるいは誰かに鰭を目的に襲撃されるか、それか、父の牙にかかるかのいずれかだろうとガラスは常に考えており、母のように海にはなれないと思っている。
 天寿を全うした進海獣は泡のようになって消滅し、骨すら残らずに海に還る。これが最も幸福な死に際とされ、事故や病気で死んだものの骸はそのまま残り、ゆっくりと骨になり、またゆっくりと骨から海に還ってゆく。
 結局、病や怪我の絶望を救うのは、誰かの犠牲である。切り落とされる痛みに悶え、そのまま果てる者もいる中、それでも、誰かを救うため、あるいは金の為の犠牲を強いる者がいる。それらから我が身や群れを守る為に争う者達の連鎖が終わることは無いだろう。
 ガラスが旅に出て一番驚いたのは、自分の視野の狭さだった。この広い海の中、必ずしも争いながら生きているベタ系の種族ばかりではないという話を聞いた時、自分の理想は現実としてあり得るということに内心歓喜した。しかしそれはほんの一時のことで、自分がいた群れのことを思うと、とてつもなく重たい絶望に変貌し、理想への思考を阻んだ。これから先、自分がその理想に浸ることができたとしても、父や仲間をその理想のほうへ呼ぶことができるとは思えない。そもそも、そんなことができるならとうに和解しているだろう。現在の状況こそが不可能を告げているのだ。あまりにも非現実的な理想だというのは自分が一番よく知っている。その矛盾をいつまで抱えているのかとまどろみながら思考に浸っていると、本当に終わりがないことを実感する。最終的に、この矛盾も思考も何かの結末を迎えることはないのかもしれない。
 ただ、思考はいつの間にか途切れるようにして彼女をひとときだけ救うことがある。まどろみはいつの間にか矛盾も思考も存在しない眠りへと移行し、そして安息に気づかぬうちにまたいつか目覚めては思考を再開するのだろう。
ほんのわずかな安息でさえ、ガラスの意識にはささやかなもので、彼女本人さえ気付いていないのかもしれない。
 深海の何よりも深い瑠璃色の中にいくつもの光の粒が浮かんでは消えていく。突き立てた錨に身を寄せる旅人はまどろみの最中に旅の記憶を振り返る。そのうち、自分の罪悪感や届かぬ理想をピアノのような音色の粒に変えると、その気配に深海の海月がやってくる。一粒一粒、彼女の懺悔の結晶を抱いては淡い泡へと変え、彼女のそれを赦すように、彼らがそれを見守り続けるうちに、音も粒も彼女の夢へと消えていった。
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