海になるまで

そら

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海藻の縁

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 日の届かぬうちに宿を後にしたガラスは、束ねた海藻を鎖とともに体に巻きつけて街を少しの間見て回ることにした。海藻は量があり、旅先で売るにしても少しかさばることに気づいたので、街を出る前にここでいくらか手放すことに決めたのだった。
 時間のせいかまだ人気のほぼない、静寂に水音が滲む街を黙々とゆく。
 軽さで泳ぐ漂流物をかわしながら、石畳を踏みしめ歩く。波が白く長い髭をゆらし、青い世界に煉瓦の色は調和しており、割れた窓硝子や遥か昔に壊れたままになっている扉、波に只管揺られる吊り看板などを見ていると、時間は止まるか止まらないかの速さで流れているように感じてならない。今はまだ太陽が昇り切らない早朝故に人通りがないだけで、街が目覚めればその時は急激に動き出すのだろう。
 完全な廃墟と化した街は海草をはじめとした植物らに覆い尽くされるばかりで生活感というものを忘れ去るが、生きている街には静寂こそあれ生活の痕跡がなくなることはない。
 尤も、その生活感の雰囲気は人間のものではないが。
 今でこそ、ここは海に沈んでいるがそうなる前は海ではなく、空気があり、進海獣ではなく人間がいたのだ。
 しかし、人間達が石畳を闊歩し、煉瓦で家や塀を作り、 窓を開けて掃除をし、店の印に看板を提げていた時代はもはや昔すぎておとぎ話のようになっている。
 進海獣は主に陸上の生物が海で生きるために進化した存在だが、それ以前から海洋で生きていた生き物はメロンや声帯の発達など進海獣との共通の進化が見られるものの容姿自体に大きな変化はあまり見られないことが多い。その中には人間がいた当時のことを見聞きしている者もいて、まわりから尊敬されている。
 時折見つかる白い骸を除けば、人間はもうこの世界にはいない、ガラスが、誰から聞いたかすらも朧げなそんな記憶を思い出しているうちに街に光が差してきた。煉瓦の色がより鮮明になり、大通りの広場の石畳が海の青の中に花を咲かせた。眠っていた街が朝日とともに覚醒し始め、街に潜んでいた生き物の気配が活気に変わる。
 波がそれに応えるように水没した街を駆け抜け漂流物を街の外へと連れ出していく。どこの街や海域でもみる光景だ。時に急に、時に穏やかに、風の代わりに波がその役目を果たしてくれる。そうしていつか旅人達の役に立つ道具として拾われていくのだ。この街に流れ着く前にも、そういうことを繰り返しながら数多の漂流物が世界を回り続けている。
 石畳に後足で別れを告げ、建物の上に泳ぎ着く。時々重たい鐘をも波がならし、首から提げた硝子の浮き玉は震え、大通りに、各々の声や音波がこだまし、静寂はすっかりなくなった。
 それでもなお、海面は遠く頭上にあり、光がゆらゆらと波を貫いた。
 少し離れたところに食堂らしき店を見つけ、ガラスはその食堂の二階の窓から声をかけた。
「失礼。こちらでは海藻で支払えるか?」
「ええ、可能ですよ! そのままお入りください。何になさいます?」
「この辺りの美味い魚があればそれでお願いしたい」
「おお、それなら先程とってきた魚があります。ぜひ!」
 ニューファンドランド犬系の店員は目を輝かせて答えた。波が彼の黒い姿を一層大きく見せるが、笑顔のおかげで威圧感の欠片も感じさせない。ガラスはそのまっすぐな笑顔に少しだけ表情が柔らかくなることが自分でもわかった。
「ありがたい。海藻ひと束で足りるだろうか?」
(ちょいとまってくれ。良けりゃその海藻、わしにくれんか?)
 二人の会話に誰かが音波で割り込んできた。二人の目がその方向を追うと、肉声が届く距離に兎がいた。頭も体も兎のものだが兎というには目元には可愛らしさのかの字もなく、額には平たい角が生えており、さらに鋸のような凶悪な刃が並んでいた。背中には三角の鰭、加えて腕にも沿って鰭が生え、尻尾はとうとう根元から鮫のもので、最早よくわからない生き物だ。
 こういう進海獣がこの世界にはわんさかいるとはいえ、遠い昔のおとぎ話では騙し騙されしたといわれる生き物同士が進化の過程で意気投合でもしたのだろうか。
 兎の毛皮に騙されて鮫肌に不意打ちを食らう捕食者を嘲笑う強かな種族でありながら、その鮫肌は彼らを職人にし、この世界の文明の発展に大きく貢献した。
「!」
「おや、あなたは……」
「よう、久しぶりだなガラス」
「ワニナリさん……」
「あれ、お知り合いで?」
「まあ、な。なあ、大将、こいつの分はわしが払うから、その海藻を食わせてもらえんか。そのままでいい」
「私は構いませんが……」
「いえいえ、こちらこそ普段お世話になっていますし、お代なんて」
「ははは、そりゃ刃物作るのはわしの仕事だ。包丁の塩梅はどうだい」
「毎日使っても全く切れ味がおちないんですよ。やっぱりワニナリさんの包丁は最高です!」
「そりゃよかった。これはお代だ、先に払わせてもらうぜ」
形がいびつになるほど貝殻や硝子片を詰め込んだ巾着を丸ごと渡すと、店員は困ったような表情を浮かべた。明らかに料金としては過剰で困惑するのは当然だった。
 進海獣達の通貨の概念は、人間の文化と比べるととても曖昧だ。海域や個人、店などで取引できるものすら変わったりすることが常で、物々交換に近い場合もある。
 精々、その海域の名物を食べるにしても、一人前なら状態のいい貝殻や透明な硝子片なら五枚、シーグラスなら十五枚が相場だろうか。例え多少状態が悪いにしても、巾着一つ分となれば三人前以上の値になるだろう。
「こ、こんなには……」
「取っといてくれ。ガラス、その代わりお前の海藻全部もらうぞ」
「それはこちらも助かります」
「大将、こいつにこの辺の美味いものたらふく食わせてやってくれ。わしには辛子と山葵な」
「は、はい!」
 店員はワニナリの勢いに負け、生け簀の方へ身を翻していく。
「相変わらず、お金の扱いがぞんざいですね」
「わしには石ころの価値があまりわからんのでな。食えるもんが一番だ」
 フォークで尾の根元を木のまな板に固定された魚が並び、鉄のお椀に辛子と山葵がそれぞれ盛られていた。
 ガラスの前に並んだまな板を置く時、店員が耳打ちし、ワニナリの渡した通貨から、正しい料金を引いた旨を伝え、巾着と通貨を彼女から彼に返してくれと頼まれたが、ワニナリはその様子に気付かなかったようだ。
「今日は納品ですか」
「おう。ところでお前さん、親父や兄貴には会ってるのか」
「いえ……」
「……安心しろ、お前のことは群れには言わねえ。他所様の事情に深入りしてもな……。まあ、他所様とはいえ、長い付き合いだから、あまりそういう風に思えんが」
 ワニナリはガラスの群れを武器の取引先の一つにしており、現在も交流がある。ガラスの父とは古い知り合いということもあり、武器の手配や手入れを仕事として割り切りつつも、彼らの粗暴な振る舞いに少し愛想が尽きつつあるというのが本音である。
 たとえガラスの群れから彼女の情報を尋ねられたところで適当に彼は誤魔化すだろう。
 そんな彼は、ガラスからすれば生まれた時から現在までの自分を知る者でもあり、人生の先輩の一人という訳だ。
「ここ数年会ってないですね。追っ手も、暫くは」
「……まあ、生き延びろ。この海は広い。群れに縛られて戦うばかりの生き方を捨てる勇気が、お前にはあった」
「一人なら戦うのも逃げるのも楽ですから」
「はは、そうか」
「それより」
「おう」
「物凄く目が沁みるので早く食べてください」
「瞬膜使えよ」
「苦手なんです……」
「自然に使えるはずなんだがなあ」
 人間に例えるなら、ウインクが下手ということに似ているかもしれないが、海を旅する中で、瞬膜の使用は重要な技術の一つなのでできたほうがいい。元々の瞼とは別に、目を保護する瞬膜がこのように至近距離の香辛料の刺激からも目を守るのは言うまでもない。
「隙あり!」
「!」
 涙を流しながら店を後にすると、突然小刀をワニナリに取られてしまった。
「別れる前に研いでやる。この得物が、お前を守るんだからな」
「どうも……」
 尾を手前にし、両手で刃を研ぐ様は街を行く者たちには珍しいようで時折鎖でわざわざ体を固定して見入る者もいたが、彼は視線も声も気にせずに仕事をこなし、何事もなかったように尻尾で勢いをつけガラスに投げてよこす。
「ありがとうございました」
「そりゃこっちのセリフだ。久しぶりにうまい海藻食わせてもらったからな。じゃ、道中気をつけろよ」
「はい、それでは」
「おう、またな」
 お互いが別れの言葉とともに背を向けた。それと同時に少し重たい何かが背の三角の鰭にぶつかる。
 振り向くと、以前より僅かに軽くなった見慣れた自分の巾着が浮いており、ガラスの姿はすでに消えていた。よく見ると巾着には、通貨類のほかに、新たに小型ルーペが入っていた。ガラスが私物を彼への礼に忍ばせたのだろう。
「……ったく、若えのにどいつもこいつも律儀だな」
 そう言って、街を後にする兎の顔はとても照れくさそうだった。
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