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月の光のほうへ
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目を覚ましても、光の届かない深海では何かが見えるわけでもなく、また、特別ここには何かがあるわけでもなかった。
暗闇に重たい波の音だけが蠢く世界。
未だにこの深海の闇は完全には暴かれてはおらず、発光生物たちの朧げな光をようやく目でとらえながら浅海の方へ向かうその影は、やがて光が届くほどの深度に到達すると白い毛並みと鮮やかな鰭を持つ狼の姿になる。顎からはとても長い二本の髭が生えており、神秘的な風貌と眼差しが海を行く他の者達をざわつかせた。
海と川の境が消え失せた今、新たな海の世界に適応した生き物を進海獣(しんかいじゅう)という。
彼らの先祖は元々は陸に居たが、世界の多くが海に沈んだ現在、海の生物として進化を遂げたことで、沈んだ街で新たな文明を築きながら生活している。
さらにその進化は彼らに言葉をもたらし、鰓と肺の両方で呼吸も可能になった。発達した声帯で会話ができる他、浅海や深海への行き来も自由という頑強な肉体、さらに進海獣の特徴的な器官として、超音波を発生させる頭部のメロンや、それを受け取る髭や鰭、舌、肉球などがある。
それらから滲む栄養素が海を豊かにし、彼らも他の生き物達の営みに貢献している。彼らの多くが特定の縄張りを持たないのもこれが関係している。
ざわめく微弱な他人の音波が自分の髭をくすぐるのが鬱陶しくなり、一気に水を掻いてその場を離れた一匹狼の眼光は鋭く、その姿と相まって近寄りがたい雰囲気を醸していた。
碇を背負うのはこの世界では多くの場合旅人の装備で珍しくはない。鰭に隠すように忍ばせた小刀は一見しただけでは気づかないだろう。
しかし、彼女の鰭や尾はあまりにも鮮烈な真紅色だった。それでいて、先端は硝子のように透き通っており、触れれば切れる刃のようにも見えた。
海の青を切り裂くような赤色はベタ系の種族の証。進海獣達が持つ尾や鰭は魚類に近く、色や形は実に様々だ。その中で、ベタ系の鰭や尾を持つ種族のその容姿を憧れる者もいれば畏怖する者もいる。
ベタ系の種族と言えば、いつでもどこでも戦いを求め、集落や旅の群れを襲う荒くれとして有名な一方、その端麗な容姿で舞う姿は男女問わず虜にしてしまう者も多く、両極端な印象が良くも悪くも根強い。さらに、彼女の一族の鰭は特殊な治癒力があった。新鮮であればあるほど薬効は高く、故に争いの発端になったわけだが、その事情を知るのは一部だ。一般人からすればそれはおとぎ話のような扱いをされている。
今、彼女は――、ガラスは、一人旅で、まして誰かに危害を加えるつもりも一切ない。それでも目立つ容姿ゆえ、用事のない海域は早々に立ち去ることにすることがもはや日常になりつつある。時々妙に生き急いでいる自分に気付き始めていた。
それでなにか困ることはないにせよ、ふと母親の最期を思い出しては、自分は将来戦いの中や、事故や病気で海に骸を残すのか、それとも、自然に死に、母のように海の泡になるのか。遅かれ早かれいずれはそうなるのだろうと考えるようになった。
群れから離れたことで無暗に戦う日々も終わり、のんびりと過ごすことに、未だになれない。海流に流されないための錨と、大切な小刀と、ささやかなお金をもち、旅を始めたのは母を亡くしてからだ。一族からは裏切り者と罵られ、鰭のことを知る者達からは追われ、いつの間にか眼光は常に鋭くなり、あてもなくこうして彷徨っているというわけだ。
そうしているうちに、街が見えてきた。適当に放浪するばかりでろくに街を気にしたことはなかったが、月の光が随分と届いており、街の様子がよく見えた。
太陽が沈めばいずれ月が昇ることは、世界が海に覆われても変わらない。海の夜に月光が、金色と砕けた虹の煌めきを古びた教会跡にあたえるころ、そこが旅人達の宿になる。ガラスはその教会の鮮やかな光に導かれるように足を止め、一夜を明かすことにした。深海で眠るには、あまりもったいないくらいに、月もステンドグラスも美しかった。
街のあちこちにある、旅人達のために開放された廃墟の規模や建物は色々だが、大きな施設で情報交換をすることが一般的だ。
こうした宿に泊まる際は、宿代の代わりに、瓦礫類や朽ちた家具、海藻などの一部を旅先で処分することが義務付けられている。持ち出したものは売るなり加工するなり、邪魔にならないような場所になら、捨てても構わない。こうした決まりが出来てから、街の宿泊可能な廃墟の状態は手付かずのところよりもはるかに安全な場が増えた。どこかの旅人が始めたことが、こうして今日まで受け継がれているのだ。
この教会は、窓のステンドグラスはすでにあまり元の体を保ってはおらず、割れた破片は持ち出されたか、はたまた海流にさらわれたのかあまり見当たらない。
ガラスは部屋の隅で椅子を覆う海藻の刈り取り、それを持ち出すことを決めた。これほどの量ならお金になる。いつぶりに月の光を浴びるのかわからないほど古い椅子が姿を現した。碇を椅子の背に固定し、海藻とともに鎖を胴に巻いて横になると、他人の話し声や水音に耳を傾けながら静かに眠りにつく。
教会の隅で原型を失いつつある椅子に、数十年ぶりに生き物の熱がある。久しぶりに他人の気配を感じながらまどろむと、荒んだ心が少しだけ癒えていくような気がした。
暗闇に重たい波の音だけが蠢く世界。
未だにこの深海の闇は完全には暴かれてはおらず、発光生物たちの朧げな光をようやく目でとらえながら浅海の方へ向かうその影は、やがて光が届くほどの深度に到達すると白い毛並みと鮮やかな鰭を持つ狼の姿になる。顎からはとても長い二本の髭が生えており、神秘的な風貌と眼差しが海を行く他の者達をざわつかせた。
海と川の境が消え失せた今、新たな海の世界に適応した生き物を進海獣(しんかいじゅう)という。
彼らの先祖は元々は陸に居たが、世界の多くが海に沈んだ現在、海の生物として進化を遂げたことで、沈んだ街で新たな文明を築きながら生活している。
さらにその進化は彼らに言葉をもたらし、鰓と肺の両方で呼吸も可能になった。発達した声帯で会話ができる他、浅海や深海への行き来も自由という頑強な肉体、さらに進海獣の特徴的な器官として、超音波を発生させる頭部のメロンや、それを受け取る髭や鰭、舌、肉球などがある。
それらから滲む栄養素が海を豊かにし、彼らも他の生き物達の営みに貢献している。彼らの多くが特定の縄張りを持たないのもこれが関係している。
ざわめく微弱な他人の音波が自分の髭をくすぐるのが鬱陶しくなり、一気に水を掻いてその場を離れた一匹狼の眼光は鋭く、その姿と相まって近寄りがたい雰囲気を醸していた。
碇を背負うのはこの世界では多くの場合旅人の装備で珍しくはない。鰭に隠すように忍ばせた小刀は一見しただけでは気づかないだろう。
しかし、彼女の鰭や尾はあまりにも鮮烈な真紅色だった。それでいて、先端は硝子のように透き通っており、触れれば切れる刃のようにも見えた。
海の青を切り裂くような赤色はベタ系の種族の証。進海獣達が持つ尾や鰭は魚類に近く、色や形は実に様々だ。その中で、ベタ系の鰭や尾を持つ種族のその容姿を憧れる者もいれば畏怖する者もいる。
ベタ系の種族と言えば、いつでもどこでも戦いを求め、集落や旅の群れを襲う荒くれとして有名な一方、その端麗な容姿で舞う姿は男女問わず虜にしてしまう者も多く、両極端な印象が良くも悪くも根強い。さらに、彼女の一族の鰭は特殊な治癒力があった。新鮮であればあるほど薬効は高く、故に争いの発端になったわけだが、その事情を知るのは一部だ。一般人からすればそれはおとぎ話のような扱いをされている。
今、彼女は――、ガラスは、一人旅で、まして誰かに危害を加えるつもりも一切ない。それでも目立つ容姿ゆえ、用事のない海域は早々に立ち去ることにすることがもはや日常になりつつある。時々妙に生き急いでいる自分に気付き始めていた。
それでなにか困ることはないにせよ、ふと母親の最期を思い出しては、自分は将来戦いの中や、事故や病気で海に骸を残すのか、それとも、自然に死に、母のように海の泡になるのか。遅かれ早かれいずれはそうなるのだろうと考えるようになった。
群れから離れたことで無暗に戦う日々も終わり、のんびりと過ごすことに、未だになれない。海流に流されないための錨と、大切な小刀と、ささやかなお金をもち、旅を始めたのは母を亡くしてからだ。一族からは裏切り者と罵られ、鰭のことを知る者達からは追われ、いつの間にか眼光は常に鋭くなり、あてもなくこうして彷徨っているというわけだ。
そうしているうちに、街が見えてきた。適当に放浪するばかりでろくに街を気にしたことはなかったが、月の光が随分と届いており、街の様子がよく見えた。
太陽が沈めばいずれ月が昇ることは、世界が海に覆われても変わらない。海の夜に月光が、金色と砕けた虹の煌めきを古びた教会跡にあたえるころ、そこが旅人達の宿になる。ガラスはその教会の鮮やかな光に導かれるように足を止め、一夜を明かすことにした。深海で眠るには、あまりもったいないくらいに、月もステンドグラスも美しかった。
街のあちこちにある、旅人達のために開放された廃墟の規模や建物は色々だが、大きな施設で情報交換をすることが一般的だ。
こうした宿に泊まる際は、宿代の代わりに、瓦礫類や朽ちた家具、海藻などの一部を旅先で処分することが義務付けられている。持ち出したものは売るなり加工するなり、邪魔にならないような場所になら、捨てても構わない。こうした決まりが出来てから、街の宿泊可能な廃墟の状態は手付かずのところよりもはるかに安全な場が増えた。どこかの旅人が始めたことが、こうして今日まで受け継がれているのだ。
この教会は、窓のステンドグラスはすでにあまり元の体を保ってはおらず、割れた破片は持ち出されたか、はたまた海流にさらわれたのかあまり見当たらない。
ガラスは部屋の隅で椅子を覆う海藻の刈り取り、それを持ち出すことを決めた。これほどの量ならお金になる。いつぶりに月の光を浴びるのかわからないほど古い椅子が姿を現した。碇を椅子の背に固定し、海藻とともに鎖を胴に巻いて横になると、他人の話し声や水音に耳を傾けながら静かに眠りにつく。
教会の隅で原型を失いつつある椅子に、数十年ぶりに生き物の熱がある。久しぶりに他人の気配を感じながらまどろむと、荒んだ心が少しだけ癒えていくような気がした。
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