脱鼠の如く

朝森雉乃

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第二章:カゲリ

ざわつく胸の隙間に疼く

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 ヒカリは昼前まで目を覚まさなかった。そして、かたわらにシュンタロウがいないことに気づいてしばらく茫然としていた。そして、例の機械を耳に当てた。恐らくシュンタロウと話そうとしているのだろうと思ったが、耳に当てたりいじったりを繰り返すばかりでいっこうに話し始めない。十度二十度と繰り返すうちにヒカリの顔が赤くなり、しだいに青くなった。
 いよいよヒカリが青ざめて、ぽとりと機械を手からこぼした、その瞬間に機械がうなり声を上げた。ヒカリはまるで鼠を捕まえる猫のように機械に飛びかかる。目をむき髪を振り乱し、震える手で機械を耳に当てて、今にもわめき声を上げるかのように見えたが、突然肩の力が抜けて、一転破顔した。
「どうしたの?」
 しまりのない顔で、昨夜のようにぐずぐずに崩れた声を出しているところを見るに、話している相手はシュンタロウである。夢見心地にこくんこくんとうなずいていて、そのうちキャーという奇声まで上げた。いったい、シュンタロウがなんとしゃべっているのか想像もつかないが、ヒカリは納得したように機械を耳から離すと、枕を抱きしめてごろごろと布団の上で転がり出した。やがてそのまま私の檻の前まで転がってくると、枕をクッション代わりに敷いて座った。
「シュンタロウ、今朝バイトのヘルプに呼ばれちゃったんだって。お仕事ならしょうがないよねえ」
 そして、ひとつくしゃみをして、ようやく自分が服を着ていないことに気づいたらしく、伸びをしながらたんすを開けた。だが、ひととおり服を身に着けても、床に散らばっている服はそのままである。やはり元魔窟の主である、無精にもほどがあるというものだ。
 いまいち状況は飲みこめなかったが、どうも真夜中に出ていったシュンタロウと、今のヒカリの話が噛み合っていないことは分かる。だいたい、他人の部屋に邪魔しておいて、なんの断りもなくいなくなっているのだから、その時点でおかしな行動を取っているのは明らかだ。私はますますシュンタロウという人間の品性に疑いを抱いた。
 シュンタロウは本当にヒカリを好いているのか?
 当然、シュンタロウが部屋からいなくなってくれたのは、もっけの幸いである。救出作戦が行われる今日、シュンタロウとヒカリがずっと部屋にいてもらっては困るのだから。
 しかし、なぜだろう。痛いほどに胸が騒いでいる。

 もともと、ヒカリはシュンタロウと一日中部屋にいるつもりだったのだから、今日出かけることは期待してはいない。だが氷雲たちも、ヒカリひとりがいる場合の計画くらいは用意しているだろうから、私が檻から出られるのはまず間違いないだろう。胸騒ぎは久しぶりの自由の匂いに武者震いしているだけだと自分にいい聞かせて、私は無心で回し車を駆けた。
 ヒカリはというと、起きてからこのかた、煙草のひどい匂いが染みついた布団にくるまって陶然としている。普段なら食事をするような時間だろうに、シュンタロウを思い出させる布団から離れがたいようで立ち上がりもしない。私にもサラミや木の実をくれそうな気配はない。ただ、今日はあまりかまってほしくないわけだから、好都合ではあった。
 変わりばえのしない時間が過ぎて、窓から差す光が朱に染まるころ、ヒカリがふと立ち上がって用を足しに行った。その隙を狙って、物陰から氷雲が飛び出してきた。いよいよ救出計画が始まる。私はつばを飲みこんだ。
 檻の外にやってきた氷雲が、仕草だけでなにかを伝えようとした。だが、滑稽なだけでなにをいいたいのかてんで分からないから、思わず吹き出してしまった。
「氷雲、しゃべっても大丈夫だ。人間はそれほど耳が良くない」
 私がなおも笑っていると、氷雲は気を悪くしたようにシューッと息を吐いた。
「兄ちゃん救出作戦は今夜、あの人が寝たら決行ね。問題ない?」
「ああ、頼りにしている」
 いいながら、私は思わずヒカリが消えた部屋の通路の方を見ていた。その視線に気づいた氷雲が、一緒になってそちらを見た。
「ねえ、兄ちゃん」
「なんだ、氷雲」
「捕まってから二度目に会った時、具合が悪そうだったでしょ。もう元気になった?」
「どうした、こんな時にそんなこと」
 私がけげんな声を出すと、氷雲はいいにくそうに前足でひげをねじった。
「うん。そのことを由依花さんに伝えたらさ。『図太さでは他の追随を許さないあの丈雲さんが、そんなにやつれるなんて』って心配していたから」
 ぎくりとした。由依花が私の体のことを心配してそういっただけではないことを察したからだ。案の定、氷雲はねじっていたひげの先を口に入れて噛みながら、その先をいった。
「もしかして、この檻から出たくないの?」

「なに、阿呆なことをいう」
 そういいながらも、氷雲の目を見られないのがなによりの証拠である。氷雲ももうただの子鼠ではないから、私がもじもじしているのをすぐに見てとったようで、ひゅっと息を飲みこんで黙ってしまった。実に気まずい沈黙を、破ったのは春風よりも清涼な声だった。
「ずいぶんと冗談が下手になりましたね」
 はっとして見れば、物陰から現れたのは見間違いようもない、泥中の蓮、砂利石の中で光る玉、ごみ箱の中のチェダーチーズ、盤桜由依花嬢であった。怜悧な顔に冷ややかな怒りを押し隠し、あまつさえ微笑みをうかべながら、鞭のようにしなる尻尾には一寸の隙もない。それであっても見とれてしまうほどに、彼雌は完璧な歩みでしゃなりしゃなと向かってくるのである。もはや、突然の由依花の登場に開いた口がふさがらなくなっている氷雲のことなどどうでもよくなって、ふらふらと彼雌の方へ向き直ると、私は恭順の姿勢を取った。
「久しいな」
 触れば火傷しそうなほどに冷たい目が私を射すくめるから、それだけいうのにも全身全霊を掛けなければいけなかった。一方の由依花は堂々としたもので、氷雲に下がっているよういうと、低く落ち着き払った声で一言だけ発した。
「騙されました」
 違うんだ! 弁解をしなければいけないのに、由依花から放たれた言葉の牙は、なによりもまず私の喉を潰してしまった。亮雲に謀られた悲痛も、人間に捕まった屈辱も、由依花に失望された胸の痛みに比べれば尻尾の先に蚊が止まったようなものだ。身もだえすることすら出来ないほど全身の力が抜けて、ヒカリに放り投げられた時と似た天地が逆転するような感覚まで覚えた。
 なにもいい返さないのを見て由依花は、私が釈明するつもりもないと思ったようで、きっと目を細めるとひげを震わせた。今にももうひと突きの牙が飛んでくるかと恐れた私は、目を堅く閉じたが、聞こえたのは歯の隙間からかすかに吐き出す息の音と、氷雲のおずおずとした「あの」という声だった。
「とりあえず、一度退散です。足音がします」
 それを聞いて、由依花と私の間の緊張がふつりと音もなく途切れた。恐る恐る目を開けると、二匹はすでに背を向けていたが、由依花がさっと見返って、優しく笑った。
「今夜の作戦は延期です。また来ますね、丈雲さん」

 全身の力が抜けきった私を見て、ヒカリは「カゲリ?」といぶかしげに声をかけた。あんまり普段と違う振る舞いをして、やれまた消毒だのなんだのと振り回されてはたまらないので、なんとか四肢を奮って寝床へもぐりこんだ。
 しかし、居心地の良い狭さの寝床で気に入っているくぼみに身を納めてみても、由依花にあんなことをいわれた後では心の休まるはずもなかった。もちろん、騙すつもりはなかったが、結果としては、由依花をおとりにのうのうと逃げ延びただけのくそねずみだ。しかも、私がこの檻から出たくないということまでさとられているのだから、由依花の考えは半分以上根拠がある怒りである。どんなに彼雌が危険な目に遭ったか、私には想像もつかないが、あれほどに冷ややかな怒りを湛えることができるのだから、その苦労推して知るべしというもので、次に由依花が訪れる際にしどろもどろになっていては取り返しのつかないことになるのは明白だった。
 唯一、由依花の考えが間違っている点があるとしたら、私が檻から出たくない理由であろう。さりとて、己が保身のためではないとどう説明すればよいのか。いや、そもそも、己が保身は毛の先ひとつも考えていないと、果たして私はいい切れるだろうか。この檻の中にいれば、帆河瀬穏のことも、亮雲のことも、秤山家のことすらも、なにひとつ考えないでいられる。自由につきまとう暗雲を、この檻の金網が払ってくれるというのであれば、どうしてわざわざその庇護を放り出す必要がある。そう考えてはいないと、私は自信を持って断言できるだろうか。
 もちろん断言などできはしない。こうして煩悶していること自体が、その考えが脳裏によぎっているという揺るがぬ証拠である。だが、これは私の意思ではない。私の意思でこの檻に留まりたいと願う理由は別にある。私はもぞもぞと体を反転させて、寝床の口から鼻面を出すと、ぼおっとヒカリを眺めた。
 ヒカリは、机の上に出しっぱなしの缶と煙草と灰皿を見つつ息を長く吐いていて、一向に片づけを始めようとはしない。昨夜のことを思い出しているのか、煙草を親指と人差し指でつまみあげると、先から灰がほとりと灰皿に落ちた。残った短い煙草の分を戯れに口に持って行ったり、すぐに顔をしかめてペッとつばを吐き出したりと、下らないことばかりしている。
 私はまた奇妙な胸の疼きを覚えた。この奇妙な胸騒ぎは、必ず、ヒカリがシュンタロウへの好意を示す時に現れるものと、すでに分かっていた。
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