脱鼠の如く

朝森雉乃

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第二章:カゲリ

夜が始まる

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 追い払うように氷雲を帰らせてから、当たり散らした自分を恥ずかしく思った。氷雲がヒイクのことを蔑んでいないのは、前に話した時にも察せたし、そのことを微笑ましくも思ったではないか。清らな弟には清らなままでいてほしいと願ったではないか。
 なによりも私を狂わせるものは不自由である。こけた脇腹をにらみつけて、そう結論付けた。囚われているからこそ、救いの手を差し伸べてくれる氷雲に当たったりするのだ。そんなことは真っ当なチュダイのすることではない。
 だが、そんな生活も明日で終わりである。明日、ヒカリが出かければ、氷雲と由実介が二人がかりでこのかんぬきを開けてくれる。もはや魔窟でないヒカリの部屋から出るのは容易だし、なにもかも計画に支障はなかった。私は気を持ち直して、もう一走りしようと回し車に戻った。
 回し車に前足を掛けた、その時である。今朝のヒカリの言葉が、ブルーチーズの匂いの如く強烈によみがえったのは。
『いよいよ明日、シュンタロウが来ます。明日は一日中、おうちで二人です』
 唐突によみがえった記憶に驚くあまり、回し車に掛けた前足に体重を乗せてしまい、重みで回転を始めた回し車に、私の残りの体はだらしなく引きずられた。ずるずると敷き砂にこすれる尻を踏ん張った時には、脚の付け根が擦りむけそうになってひりひりしていた。
 明日はシュンタロウがこの部屋に来る。ヒカリも当然いる。この部屋から出るつもりもないらしい。人間二人の目を盗んで、チュダイ二匹が檻のかんぬきを開けることができるだろうか。いやできない。
 私は頭を抱えた。氷雲を今すぐ呼び戻してこのことを伝えたかったが、もはや叶わない。このまま、明日、なにも知らない二匹がのこのことやってきて、機会を見つけられずにおろおろするのを、ひげをくわえて待っていなければいけないのだ。なにより、そういった事情を確かめるために氷雲が私のもとへ来たのだろうに、あろうことか蹴りつけて追い返したのである。信じられない間抜けだ。ねずみ取りかごに引っかかった時以上に自分を呪った。
 砂の上をのたうち回っているうちに、部屋の扉が開くガシャコン、という音がした。もうヒカリが帰ってくるような時間になっていたのか、とぼんやり扉の方を見上げていると、ぬっと現れたのは、ちんけなひげを生やした、頭に生えている毛が黄色い男であった。
「ペットなんか飼ってたっけ、お前。なにこれ、ねずみ?」
 その男、シュンタロウは、私の前にしゃがみこんで、つまらなそうにいった。

「ああ、それは」
 ヒカリはいいよどんだ。当然だろう、よもや思いを寄せる相手に「捕まえたドブネズミをそのまま飼うことにしたのー」とは口が裂けてもいえまい。人間は我々ねずみを汚い生き物だと思っている節があるし、そのことについてはこちらとて承知の上だ。
「最近流行ってるんだよ、こういうの」
 ヒカリが言葉をにごすと、シュンタロウはやはりつまらなそうに鼻を鳴らした。
 それにしても、シュンタロウは明日部屋に来るとは思っていたから驚いた。面長で、鼻とあごが細く、たしかにねずみを思わせる風貌かもしれない。だが背はヒカリよりもずっと高く、立ち上がるとシュンタロウの肩がヒカリの頭にぶつかりそうになった。
「まあいいや、酒ある? 飲もうぜ」
「んふふ、シュンタロウの好きなサラミもあるよ」
 ヒカリは気持ち悪く笑うと、いつも私にくれるサラミと、性格の変わる飲み物が入った缶を机に並べ出した。その間、シュンタロウは口に白いものをくわえてその先に火をつけていた。人はよく火を扱うが、これほど顔に近づけてよく怖くないものだ。
「灰皿」
「煙草はやめてっていったじゃん」
 とがめるような言葉だったが、口調はじゃれている風にしか聞こえないものだった。事実、ヒカリはシュンタロウにしなだれかかりながら、小さな皿をすっと手渡した。シュンタロウが親指と人差し指で煙草をつまんだ。シュンタロウの口からふぅっとはき出された煙の臭いは、離れた私にもすぐ届くくらいひどかった。しかし、ヒカリにはその臭いがたまらないらしく、うっとりとした目でシュンタロウのくちびるを見ている。
「変えたんだね、銘柄」
「おう、前のより強いやつ」
「甘ったるくなくていいよ」
 すると、シュンタロウがいきなりヒカリに覆いかぶさった。なにをしているのか分からなかったが、その時二人の体がねじれて、私からも見えるようになった。お互いのくちびるを舐めているのだ。私はおぞけをふるった。人間は本当にわけの分からないことをする。
「もっと」
 ヒカリがいった。

 我々チュダイと人間に面白い共通点があるのをご存じだろうか。それは、猫のような決まった繁殖期を持たないことだ。社会性があり、どこでもしぶとく生き抜く気質で、かつ知性にあふれていることが、二つの異なった種の共通点を生み出したのだと私は考察する。
 それはともかくとして、お互いのくちびるを舐める行為はどうやら発情の兆しのようで、シュンタロウとヒカリは人目を、いや鼠目をはばからずに情熱的に体を絡めあわせ始めた。少なくとも、ヒカリの方は情熱的に見えた。見開いた目はうるんでいるし、頬は上気して息も上がっている。ヒカリが私に喜々として話しかける時もそうなるから、きっと人間は興奮するとあのような表情になるのだとつねづね思っていた。
 分からないのはシュンタロウの方で、ヒカリとは対照的に表情は硬く、それでいて手や腕は乱暴に見えるほど激しく動かしている。時折、抱きしめ合ってお互いの顔が見えなくなると、シュンタロウはぐるりと目を回しさえした。
 いぶかしいずれは他にもあった。例えば、ヒカリはシュンタロウを抱きしめてその時間を楽しもうとするように止まるが、シュンタロウはヒカリと自分の服を体から引きはがすのに熱心で一時も止まらない。あるいは、ヒカリはうわ言のように「シュンタロウ」「もっと」とつぶやくのに、シュンタロウは無言をつらぬいている、といったところだ。心の機微を見るに長けた私でなくとも、二人が同じ気持ちを抱いてないことは、すぐに見抜けるだろう。
 それでも、ヒカリが嬉しそうにシュンタロウと肌を合わせたりくちびるを舐めたりしているから、これが人間にとっては普通なのかもしれないと私は納得しようとした。だが人間だからといって、チュダイが雌雄で連れ合う際の感情と、さほど変わるということがあるだろうか。種が異なるとはいえ共にこの世に生を受けた者同士である。どうしてもヒカリとシュンタロウの感情の齟齬が、私の胸に引っかかり続けた。そのせいで、つい眠れない。
 ヒカリが寝てしまったあとも、シュンタロウはもぞもぞと体をねじったり、例の遠くの人と話せる機械をいじったりしながら、ちんけなひげをひねっていた。そして、なにを思ったか、胸を枕にしていたヒカリを振りほどくと、一糸まとわぬ姿で私の前にしゃがみこんだ。私と目が合うと、シュンタロウは舌をべっと出して見せた。私はぞっとした。舌の先に金具が埋めこまれている。
「お前の飼い主、まじちょろいな」
 俗語の意味が分からずにきょとんとしていると、シュンタロウは散らかっていた服を身に着けて、そのまま部屋を出ていってしまった。
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