16 / 21
第二章:カゲリ
夜が始まる
しおりを挟む
追い払うように氷雲を帰らせてから、当たり散らした自分を恥ずかしく思った。氷雲がヒイクのことを蔑んでいないのは、前に話した時にも察せたし、そのことを微笑ましくも思ったではないか。清らな弟には清らなままでいてほしいと願ったではないか。
なによりも私を狂わせるものは不自由である。こけた脇腹をにらみつけて、そう結論付けた。囚われているからこそ、救いの手を差し伸べてくれる氷雲に当たったりするのだ。そんなことは真っ当なチュダイのすることではない。
だが、そんな生活も明日で終わりである。明日、ヒカリが出かければ、氷雲と由実介が二人がかりでこのかんぬきを開けてくれる。もはや魔窟でないヒカリの部屋から出るのは容易だし、なにもかも計画に支障はなかった。私は気を持ち直して、もう一走りしようと回し車に戻った。
回し車に前足を掛けた、その時である。今朝のヒカリの言葉が、ブルーチーズの匂いの如く強烈によみがえったのは。
『いよいよ明日、シュンタロウが来ます。明日は一日中、おうちで二人です』
唐突によみがえった記憶に驚くあまり、回し車に掛けた前足に体重を乗せてしまい、重みで回転を始めた回し車に、私の残りの体はだらしなく引きずられた。ずるずると敷き砂にこすれる尻を踏ん張った時には、脚の付け根が擦りむけそうになってひりひりしていた。
明日はシュンタロウがこの部屋に来る。ヒカリも当然いる。この部屋から出るつもりもないらしい。人間二人の目を盗んで、チュダイ二匹が檻のかんぬきを開けることができるだろうか。いやできない。
私は頭を抱えた。氷雲を今すぐ呼び戻してこのことを伝えたかったが、もはや叶わない。このまま、明日、なにも知らない二匹がのこのことやってきて、機会を見つけられずにおろおろするのを、ひげをくわえて待っていなければいけないのだ。なにより、そういった事情を確かめるために氷雲が私のもとへ来たのだろうに、あろうことか蹴りつけて追い返したのである。信じられない間抜けだ。ねずみ取りかごに引っかかった時以上に自分を呪った。
砂の上をのたうち回っているうちに、部屋の扉が開くガシャコン、という音がした。もうヒカリが帰ってくるような時間になっていたのか、とぼんやり扉の方を見上げていると、ぬっと現れたのは、ちんけなひげを生やした、頭に生えている毛が黄色い男であった。
「ペットなんか飼ってたっけ、お前。なにこれ、ねずみ?」
その男、シュンタロウは、私の前にしゃがみこんで、つまらなそうにいった。
「ああ、それは」
ヒカリはいいよどんだ。当然だろう、よもや思いを寄せる相手に「捕まえたドブネズミをそのまま飼うことにしたのー」とは口が裂けてもいえまい。人間は我々ねずみを汚い生き物だと思っている節があるし、そのことについてはこちらとて承知の上だ。
「最近流行ってるんだよ、こういうの」
ヒカリが言葉をにごすと、シュンタロウはやはりつまらなそうに鼻を鳴らした。
それにしても、シュンタロウは明日部屋に来るとは思っていたから驚いた。面長で、鼻とあごが細く、たしかにねずみを思わせる風貌かもしれない。だが背はヒカリよりもずっと高く、立ち上がるとシュンタロウの肩がヒカリの頭にぶつかりそうになった。
「まあいいや、酒ある? 飲もうぜ」
「んふふ、シュンタロウの好きなサラミもあるよ」
ヒカリは気持ち悪く笑うと、いつも私にくれるサラミと、性格の変わる飲み物が入った缶を机に並べ出した。その間、シュンタロウは口に白いものをくわえてその先に火をつけていた。人はよく火を扱うが、これほど顔に近づけてよく怖くないものだ。
「灰皿」
「煙草はやめてっていったじゃん」
とがめるような言葉だったが、口調はじゃれている風にしか聞こえないものだった。事実、ヒカリはシュンタロウにしなだれかかりながら、小さな皿をすっと手渡した。シュンタロウが親指と人差し指で煙草をつまんだ。シュンタロウの口からふぅっとはき出された煙の臭いは、離れた私にもすぐ届くくらいひどかった。しかし、ヒカリにはその臭いがたまらないらしく、うっとりとした目でシュンタロウのくちびるを見ている。
「変えたんだね、銘柄」
「おう、前のより強いやつ」
「甘ったるくなくていいよ」
すると、シュンタロウがいきなりヒカリに覆いかぶさった。なにをしているのか分からなかったが、その時二人の体がねじれて、私からも見えるようになった。お互いのくちびるを舐めているのだ。私はおぞけをふるった。人間は本当にわけの分からないことをする。
「もっと」
ヒカリがいった。
我々チュダイと人間に面白い共通点があるのをご存じだろうか。それは、猫のような決まった繁殖期を持たないことだ。社会性があり、どこでもしぶとく生き抜く気質で、かつ知性にあふれていることが、二つの異なった種の共通点を生み出したのだと私は考察する。
それはともかくとして、お互いのくちびるを舐める行為はどうやら発情の兆しのようで、シュンタロウとヒカリは人目を、いや鼠目をはばからずに情熱的に体を絡めあわせ始めた。少なくとも、ヒカリの方は情熱的に見えた。見開いた目はうるんでいるし、頬は上気して息も上がっている。ヒカリが私に喜々として話しかける時もそうなるから、きっと人間は興奮するとあのような表情になるのだとつねづね思っていた。
分からないのはシュンタロウの方で、ヒカリとは対照的に表情は硬く、それでいて手や腕は乱暴に見えるほど激しく動かしている。時折、抱きしめ合ってお互いの顔が見えなくなると、シュンタロウはぐるりと目を回しさえした。
いぶかしいずれは他にもあった。例えば、ヒカリはシュンタロウを抱きしめてその時間を楽しもうとするように止まるが、シュンタロウはヒカリと自分の服を体から引きはがすのに熱心で一時も止まらない。あるいは、ヒカリはうわ言のように「シュンタロウ」「もっと」とつぶやくのに、シュンタロウは無言をつらぬいている、といったところだ。心の機微を見るに長けた私でなくとも、二人が同じ気持ちを抱いてないことは、すぐに見抜けるだろう。
それでも、ヒカリが嬉しそうにシュンタロウと肌を合わせたりくちびるを舐めたりしているから、これが人間にとっては普通なのかもしれないと私は納得しようとした。だが人間だからといって、チュダイが雌雄で連れ合う際の感情と、さほど変わるということがあるだろうか。種が異なるとはいえ共にこの世に生を受けた者同士である。どうしてもヒカリとシュンタロウの感情の齟齬が、私の胸に引っかかり続けた。そのせいで、つい眠れない。
ヒカリが寝てしまったあとも、シュンタロウはもぞもぞと体をねじったり、例の遠くの人と話せる機械をいじったりしながら、ちんけなひげをひねっていた。そして、なにを思ったか、胸を枕にしていたヒカリを振りほどくと、一糸まとわぬ姿で私の前にしゃがみこんだ。私と目が合うと、シュンタロウは舌をべっと出して見せた。私はぞっとした。舌の先に金具が埋めこまれている。
「お前の飼い主、まじちょろいな」
俗語の意味が分からずにきょとんとしていると、シュンタロウは散らかっていた服を身に着けて、そのまま部屋を出ていってしまった。
なによりも私を狂わせるものは不自由である。こけた脇腹をにらみつけて、そう結論付けた。囚われているからこそ、救いの手を差し伸べてくれる氷雲に当たったりするのだ。そんなことは真っ当なチュダイのすることではない。
だが、そんな生活も明日で終わりである。明日、ヒカリが出かければ、氷雲と由実介が二人がかりでこのかんぬきを開けてくれる。もはや魔窟でないヒカリの部屋から出るのは容易だし、なにもかも計画に支障はなかった。私は気を持ち直して、もう一走りしようと回し車に戻った。
回し車に前足を掛けた、その時である。今朝のヒカリの言葉が、ブルーチーズの匂いの如く強烈によみがえったのは。
『いよいよ明日、シュンタロウが来ます。明日は一日中、おうちで二人です』
唐突によみがえった記憶に驚くあまり、回し車に掛けた前足に体重を乗せてしまい、重みで回転を始めた回し車に、私の残りの体はだらしなく引きずられた。ずるずると敷き砂にこすれる尻を踏ん張った時には、脚の付け根が擦りむけそうになってひりひりしていた。
明日はシュンタロウがこの部屋に来る。ヒカリも当然いる。この部屋から出るつもりもないらしい。人間二人の目を盗んで、チュダイ二匹が檻のかんぬきを開けることができるだろうか。いやできない。
私は頭を抱えた。氷雲を今すぐ呼び戻してこのことを伝えたかったが、もはや叶わない。このまま、明日、なにも知らない二匹がのこのことやってきて、機会を見つけられずにおろおろするのを、ひげをくわえて待っていなければいけないのだ。なにより、そういった事情を確かめるために氷雲が私のもとへ来たのだろうに、あろうことか蹴りつけて追い返したのである。信じられない間抜けだ。ねずみ取りかごに引っかかった時以上に自分を呪った。
砂の上をのたうち回っているうちに、部屋の扉が開くガシャコン、という音がした。もうヒカリが帰ってくるような時間になっていたのか、とぼんやり扉の方を見上げていると、ぬっと現れたのは、ちんけなひげを生やした、頭に生えている毛が黄色い男であった。
「ペットなんか飼ってたっけ、お前。なにこれ、ねずみ?」
その男、シュンタロウは、私の前にしゃがみこんで、つまらなそうにいった。
「ああ、それは」
ヒカリはいいよどんだ。当然だろう、よもや思いを寄せる相手に「捕まえたドブネズミをそのまま飼うことにしたのー」とは口が裂けてもいえまい。人間は我々ねずみを汚い生き物だと思っている節があるし、そのことについてはこちらとて承知の上だ。
「最近流行ってるんだよ、こういうの」
ヒカリが言葉をにごすと、シュンタロウはやはりつまらなそうに鼻を鳴らした。
それにしても、シュンタロウは明日部屋に来るとは思っていたから驚いた。面長で、鼻とあごが細く、たしかにねずみを思わせる風貌かもしれない。だが背はヒカリよりもずっと高く、立ち上がるとシュンタロウの肩がヒカリの頭にぶつかりそうになった。
「まあいいや、酒ある? 飲もうぜ」
「んふふ、シュンタロウの好きなサラミもあるよ」
ヒカリは気持ち悪く笑うと、いつも私にくれるサラミと、性格の変わる飲み物が入った缶を机に並べ出した。その間、シュンタロウは口に白いものをくわえてその先に火をつけていた。人はよく火を扱うが、これほど顔に近づけてよく怖くないものだ。
「灰皿」
「煙草はやめてっていったじゃん」
とがめるような言葉だったが、口調はじゃれている風にしか聞こえないものだった。事実、ヒカリはシュンタロウにしなだれかかりながら、小さな皿をすっと手渡した。シュンタロウが親指と人差し指で煙草をつまんだ。シュンタロウの口からふぅっとはき出された煙の臭いは、離れた私にもすぐ届くくらいひどかった。しかし、ヒカリにはその臭いがたまらないらしく、うっとりとした目でシュンタロウのくちびるを見ている。
「変えたんだね、銘柄」
「おう、前のより強いやつ」
「甘ったるくなくていいよ」
すると、シュンタロウがいきなりヒカリに覆いかぶさった。なにをしているのか分からなかったが、その時二人の体がねじれて、私からも見えるようになった。お互いのくちびるを舐めているのだ。私はおぞけをふるった。人間は本当にわけの分からないことをする。
「もっと」
ヒカリがいった。
我々チュダイと人間に面白い共通点があるのをご存じだろうか。それは、猫のような決まった繁殖期を持たないことだ。社会性があり、どこでもしぶとく生き抜く気質で、かつ知性にあふれていることが、二つの異なった種の共通点を生み出したのだと私は考察する。
それはともかくとして、お互いのくちびるを舐める行為はどうやら発情の兆しのようで、シュンタロウとヒカリは人目を、いや鼠目をはばからずに情熱的に体を絡めあわせ始めた。少なくとも、ヒカリの方は情熱的に見えた。見開いた目はうるんでいるし、頬は上気して息も上がっている。ヒカリが私に喜々として話しかける時もそうなるから、きっと人間は興奮するとあのような表情になるのだとつねづね思っていた。
分からないのはシュンタロウの方で、ヒカリとは対照的に表情は硬く、それでいて手や腕は乱暴に見えるほど激しく動かしている。時折、抱きしめ合ってお互いの顔が見えなくなると、シュンタロウはぐるりと目を回しさえした。
いぶかしいずれは他にもあった。例えば、ヒカリはシュンタロウを抱きしめてその時間を楽しもうとするように止まるが、シュンタロウはヒカリと自分の服を体から引きはがすのに熱心で一時も止まらない。あるいは、ヒカリはうわ言のように「シュンタロウ」「もっと」とつぶやくのに、シュンタロウは無言をつらぬいている、といったところだ。心の機微を見るに長けた私でなくとも、二人が同じ気持ちを抱いてないことは、すぐに見抜けるだろう。
それでも、ヒカリが嬉しそうにシュンタロウと肌を合わせたりくちびるを舐めたりしているから、これが人間にとっては普通なのかもしれないと私は納得しようとした。だが人間だからといって、チュダイが雌雄で連れ合う際の感情と、さほど変わるということがあるだろうか。種が異なるとはいえ共にこの世に生を受けた者同士である。どうしてもヒカリとシュンタロウの感情の齟齬が、私の胸に引っかかり続けた。そのせいで、つい眠れない。
ヒカリが寝てしまったあとも、シュンタロウはもぞもぞと体をねじったり、例の遠くの人と話せる機械をいじったりしながら、ちんけなひげをひねっていた。そして、なにを思ったか、胸を枕にしていたヒカリを振りほどくと、一糸まとわぬ姿で私の前にしゃがみこんだ。私と目が合うと、シュンタロウは舌をべっと出して見せた。私はぞっとした。舌の先に金具が埋めこまれている。
「お前の飼い主、まじちょろいな」
俗語の意味が分からずにきょとんとしていると、シュンタロウは散らかっていた服を身に着けて、そのまま部屋を出ていってしまった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる