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第二章:カゲリ
理のない道理
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次にシュンタロウが来るのは一週後と聞いて、だいぶ先のことだと安心したはずなのだが、いつの間にかシュンタロウがヒカリの部屋へ上がりこんでいた。よくよく思い出せば、たしかに七度日が昇った。檻の中で過ごす日々は代わり映えせず、ともすると時間の感覚が狂ってしまうことを、うっかり忘れていたのである。
シュンタロウは相変わらずちんけなひげを生やして、怖がりもせず火を操り、鼻の曲がりそうな臭いの煙を出す煙草を何本も灰にしていた。座りこんで延々と煙草を吸いながら、自由勝手にヒカリのことをあごで使うものだから、ヒカリは家主のくせに座っては立ち、立っては座りを繰り返している。
いよいよ煙草の煙で天井がかすみ始めたころ、シュンタロウはやっとヒカリに目を向けた。それまでずっとしゃべり通しだったヒカリが、うっとりとした顔で黙ると、それからは一週前の出来事と変わらない、眠るにはうるさい夜が始まったのであった。まったく、ヒカリとシュンタロウの食い違った感情までも一週前とまったく同じであるのだから、驚くべきことである。
違ったのは夜が明ける前にシュンタロウが出ていかなかったことで、目覚めたヒカリは隣にシュンタロウがいることに満足そうな鼻息をついた。
「おはよう、シュンタロウ」
「ん、おはよ」
気のない返事も意に介さず、ヒカリはシュンタロウの胸に頭を預けて目を閉じている。また眠ってしまうのではないかと思ったが、次の瞬間、ヒカリはぱちりと目を開けて私を見た。そして、そのままもぞもぞと起き出して、檻の前までやってきたのだった。
「カゲリもおはよう。朝ご飯だよー」
言葉とともにサラミが檻のすき間から差し入れられたが、どうにもヒカリの手にまで煙草の匂いが染みついているようで、近づきたくなかった私は、ふいと穴倉の中に身を隠した。こうすれば、ヒカリはぽとりと檻の中にサラミを落としてくれるのである。
だが、その時うしろで大声が上がった。
「おい!」
何事かと振り向くと、シュンタロウが身を起こして私とヒカリをおぞましそうに見ているではないか。
「ふざっけんなよ、昨日のつまみはねずみの餌だったってのかよ!」
「え?」
ヒカリが茫然として、取り落としたサラミは檻の外に落ちた。それから、なにをいわれたのかを理解したらしく、あわててシュンタロウへ弁明をした。
「違う、なにいってるの」
「なにが違うんだよ。ねずみにやろうとしてただろ」
「ちゃんとおつまみ用のサラミだって。ほら」
ヒカリが差し出したサラミの袋を、いきり立ったシュンタロウは片手で払いのけた。大きな音が鳴って、床にサラミがぶちまけられた。
「ねずみとおんなじもんが食えるか、馬鹿!」
シュンタロウはそのままヒカリの肩を乱暴につかむと、力任せに布団に押し倒した。ヒカリの顔が苦痛に歪むのを見て、私は思わず穴倉から飛び出して鳴いていた。しかし、檻の中からでは、二人を見ることしかかなわない。シュンタロウはヒカリに馬乗りになって、まるでそのままヒカリの喉笛に食らいつきそうな勢いで顔を近づけた。
「ふざけんじゃねえぞ、あ?」
その間にも、肩をつかんだ手にはぎりぎりと力を込めているようで、ヒカリは首を振って痛みを必死でこらえていた。
「違う、違うわ。シュンタロウ、サラミ好きだったでしょ」
「黙れ!」
シュンタロウががなり立てる。私はどうにかシュンタロウの気をそらそうと、威嚇の声を上げ続けた。人間にはちゅっ、ぢゅっと鋭く聞こえているはずであるが、シュンタロウは一向にこちらを気に留めようとはしなかった。
「いいか。俺が、気分わりいっつってんだよ。いうことあんだろ?」
一瞬、ヒカリが息を詰めた。ヒカリが唾でも吐いてくれれば、私の胸もすっきりとしたのだが、そうはならなかった。
「ごめんなさい」
ヒカリは声を震わせていった。その途端、私は目を疑った。
シュンタロウが腕を振り上げて、ヒカリの顔を平手で打ったのである。乾いた音が響いて、ヒカリの目から涙がこぼれた。そして、また次の瞬間、私はもう一度目を疑った。
シュンタロウがヒカリをかき抱いて、嗚咽を上げ始めたのだ。
「ヒカリ」
震わせながらしぼり出した声は、普段のシュンタロウのものとはまったく違っていた。その純真な響きに呆気に取られて、この私が一瞬違和感に気づかなかったほどである。
「ヒカリ、痛くしてごめん」
どうやらその響きにほだされたのは私だけではなくて、ヒカリもシュンタロウの体を抱き返すと、泣き声を大きくしたシュンタロウの黄色い頭をなでてやっていた。
「大丈夫だよ。シュンくん。ちゃんと謝ってくれたから平気だよ」
ヒカリが「シュンくん」と呼んだのを聞いて、私は先ほどの違和感の正体を見た。つまり、シュンタロウがヒカリの名を呼んだのは、少なくとも私の前では今が初めてだったのである。いや、正しくいえば、違和感の正体は、今シュンタロウがヒカリと呼んだことではなく、今までシュンタロウがヒカリの名を口にしていなかったことだ。
私がいぶかしんでいるのを尻目に、シュンタロウはヒカリにひしと抱きついて、みっともなく泣き続けていた。いったい、殴られたヒカリが泣くならいざ知らず、シュンタロウがなにを泣くことがあるのかすら私には分からなかったが、ヒカリはなにもかも知っているように「大丈夫だよ」と優しく声をかけている。
どことなく寂しさを感じて、私は自分自身に驚いた。ヒカリとシュンタロウは、いささか歪とはいえ、私のあずかり知らぬ絆で結ばれているような気がした。それに対して、私はヒカリのことをなにも分かっていない。なぜシュンタロウを許せるのかが分からない。どれだけの時間をかけようとも、ヒカリとシュンタロウの関係を理解することは出来ないと直感した。
まったくお笑い草というもので、由依花に対してあれだけの啖呵を切ったにもかかわらず、ヒカリと共に暮らすことへの疑いが頭をもたげた。もともと、ヒカリがシュンタロウを失った悲しみにつけこんで懐に潜りこんだのだから、二人がよりを戻したのであれば、今さら私の出る幕など無いのは道理だ。そんな理にすら気づかずに、檻を出ないといい張った自分がなんとも情けなくなって、私は檻の金網に頭を押しつけた。
「本当に、ややこしいですね」
唐突なささやき声に息が止まるほど驚いて、振り向いた先にいたのは、盤桜由依花であった。私が目を白黒させていると、由依花はこともなげに小首をかしげた。
「もう来ないなんて、一言もいっていませんよ、カゲリさん」
由依花はしっと息を吐いて、私がなにかいうのを制止した。
「分かっています。気配を殺すのは氷雲くんよりも上手いですよ」
ささやき声の調子は面白がっているようで、私の心配をよそに由依花はすっと影に姿を隠した。彼雌が瞳に宿す明朗な光のおかげで、ようやくどこにいるのか分かる程度だ。これではヒカリたちから見えようはずもない。その見事さに、私は舌を巻いた。
「鈍いものです。ああしてみっともなく泣き合って、見えるものも見えなくなっている」
由依花のつぶやきは、どうやら、ヒカリたちに彼雌の姿が見えていないことを指しているのではないように聞こえた。
私は改めてヒカリたちの様子をうかがった。むせび泣くシュンタロウと、それをあやすようなヒカリの様子は、仲睦まじいように見えた。シュンタロウが悔悛して、ヒカリがそれを受け入れ、赦しているようではないか。
由依花になにをいいたいのか問おうとした時、私の目にも由依花が見ていたものが写った。床に散らばるサラミである。私は、シュンタロウの思考のからくりをようやく理解して、あごが外れそうになった。
シュンタロウは、ヒカリが純粋な好意で用意したものを、怒りに駆られて払いのけた。それを、その瞬間に謝っていればまだしも、奴が返したのは脅迫と暴力だった。その後、遅れて謝罪をしたかのように見えたが、よく思い出せば殴ったことについてだけではないか。
奴はおのれのこと、おのれの考えること、おのれのしたことについてのみ感情が動くのだ。ヒカリがシュンタロウを思いやっていようが、どうしようが、奴には関係がない。ヒカリの痛みを忖度して泣いているわけではない。おのれが相手を殴ったという罪悪感に耐え切れずに泣いているのだ。
分かってしまうと、泣きわめくシュンタロウは、都合よく慰めてくれるヒカリに甘えて、ぐずついている子鼠のようにしか見えなくなった。一瞬でも二人の間に歪な絆を見たような自分が恥ずかしくなるほど、彼らの間には迷妄と無理解しかなかったのである。
「彼女の方も同じです。彼を理解しようともしないで、表面的に泣いているから慰める」
由依花の声は相変わらず面白がるようにとげとげしかった。
「私がなにをいいたいか、分かりますね、カゲリさん」
「分かっている。ああ、分かっているとも」
私は前足で砂を握りつぶしながらいった。私に二人を蔑む資格はなかった。
由依花を裏切り、ヒカリに失望してしまえば、私に残されているのは虚無感ばかりだった。檻の外に出たいとも思えず、檻の中にいたいとも思えず、尻をぺたりと砂に押しつけて、シュンタロウの気味の悪い泣き顔をぼうっと眺めていた。
「ぼんくら丈雲というのは本当のようだな」
斎栄の声がした時も、威嚇をすることも忘れて、ぼんやりとひげを向けるのが精いっぱいだった。由依花の横に、もう一対の目が光っていた。
「栄さん、あまり無礼なことをおっしゃらないでください」
「ちっ」
栄は物陰から姿を現すと、私を見て少しだけひげを動かした。どうせ、私と一度まみえた時のことでも思い出したのだろう。だが、由依花の前で格好をつけたかったのか、奴は気取った仕草で挨拶をよこした。
「ごきげんよう。俺は斎栄だ」
「ああ」
「知っているだろうが、お前の弟に頼まれてな。お前を助けなければならない」
「勝手にするといい」
栄はまた舌打ちをして、物陰に戻ると由依花になにやら耳打ちをした。由依花はうなずいて、それから私の方へやってきた。
「貴方は今や、秤山家の丈雲さんでも、飼い殺しのカゲリさんでもないようですね」
「ああ」
「またひとつ、しがらみから逃げられたではないですか。いつも望むことでしょう?」
「ああ」
「いかがですか、ご気分は」
「くそくらえ」
「そうですか」
由依花は栄を呼びよせると、その背に乗って、檻のかんぬきを簡単に抜いた。戸は音もなく開け放たれた。私が立てば、自由に檻の外に出られる。
「来なさい。貴方が何もしたくないのなら、私が貴方を飼いましょう」
由依花は笑っていた。優しく前足を差し伸べてくれているようにさえ見えた。
栄でさえ一歩後ずさるほど、怒りをその身にまといながら。
シュンタロウは相変わらずちんけなひげを生やして、怖がりもせず火を操り、鼻の曲がりそうな臭いの煙を出す煙草を何本も灰にしていた。座りこんで延々と煙草を吸いながら、自由勝手にヒカリのことをあごで使うものだから、ヒカリは家主のくせに座っては立ち、立っては座りを繰り返している。
いよいよ煙草の煙で天井がかすみ始めたころ、シュンタロウはやっとヒカリに目を向けた。それまでずっとしゃべり通しだったヒカリが、うっとりとした顔で黙ると、それからは一週前の出来事と変わらない、眠るにはうるさい夜が始まったのであった。まったく、ヒカリとシュンタロウの食い違った感情までも一週前とまったく同じであるのだから、驚くべきことである。
違ったのは夜が明ける前にシュンタロウが出ていかなかったことで、目覚めたヒカリは隣にシュンタロウがいることに満足そうな鼻息をついた。
「おはよう、シュンタロウ」
「ん、おはよ」
気のない返事も意に介さず、ヒカリはシュンタロウの胸に頭を預けて目を閉じている。また眠ってしまうのではないかと思ったが、次の瞬間、ヒカリはぱちりと目を開けて私を見た。そして、そのままもぞもぞと起き出して、檻の前までやってきたのだった。
「カゲリもおはよう。朝ご飯だよー」
言葉とともにサラミが檻のすき間から差し入れられたが、どうにもヒカリの手にまで煙草の匂いが染みついているようで、近づきたくなかった私は、ふいと穴倉の中に身を隠した。こうすれば、ヒカリはぽとりと檻の中にサラミを落としてくれるのである。
だが、その時うしろで大声が上がった。
「おい!」
何事かと振り向くと、シュンタロウが身を起こして私とヒカリをおぞましそうに見ているではないか。
「ふざっけんなよ、昨日のつまみはねずみの餌だったってのかよ!」
「え?」
ヒカリが茫然として、取り落としたサラミは檻の外に落ちた。それから、なにをいわれたのかを理解したらしく、あわててシュンタロウへ弁明をした。
「違う、なにいってるの」
「なにが違うんだよ。ねずみにやろうとしてただろ」
「ちゃんとおつまみ用のサラミだって。ほら」
ヒカリが差し出したサラミの袋を、いきり立ったシュンタロウは片手で払いのけた。大きな音が鳴って、床にサラミがぶちまけられた。
「ねずみとおんなじもんが食えるか、馬鹿!」
シュンタロウはそのままヒカリの肩を乱暴につかむと、力任せに布団に押し倒した。ヒカリの顔が苦痛に歪むのを見て、私は思わず穴倉から飛び出して鳴いていた。しかし、檻の中からでは、二人を見ることしかかなわない。シュンタロウはヒカリに馬乗りになって、まるでそのままヒカリの喉笛に食らいつきそうな勢いで顔を近づけた。
「ふざけんじゃねえぞ、あ?」
その間にも、肩をつかんだ手にはぎりぎりと力を込めているようで、ヒカリは首を振って痛みを必死でこらえていた。
「違う、違うわ。シュンタロウ、サラミ好きだったでしょ」
「黙れ!」
シュンタロウががなり立てる。私はどうにかシュンタロウの気をそらそうと、威嚇の声を上げ続けた。人間にはちゅっ、ぢゅっと鋭く聞こえているはずであるが、シュンタロウは一向にこちらを気に留めようとはしなかった。
「いいか。俺が、気分わりいっつってんだよ。いうことあんだろ?」
一瞬、ヒカリが息を詰めた。ヒカリが唾でも吐いてくれれば、私の胸もすっきりとしたのだが、そうはならなかった。
「ごめんなさい」
ヒカリは声を震わせていった。その途端、私は目を疑った。
シュンタロウが腕を振り上げて、ヒカリの顔を平手で打ったのである。乾いた音が響いて、ヒカリの目から涙がこぼれた。そして、また次の瞬間、私はもう一度目を疑った。
シュンタロウがヒカリをかき抱いて、嗚咽を上げ始めたのだ。
「ヒカリ」
震わせながらしぼり出した声は、普段のシュンタロウのものとはまったく違っていた。その純真な響きに呆気に取られて、この私が一瞬違和感に気づかなかったほどである。
「ヒカリ、痛くしてごめん」
どうやらその響きにほだされたのは私だけではなくて、ヒカリもシュンタロウの体を抱き返すと、泣き声を大きくしたシュンタロウの黄色い頭をなでてやっていた。
「大丈夫だよ。シュンくん。ちゃんと謝ってくれたから平気だよ」
ヒカリが「シュンくん」と呼んだのを聞いて、私は先ほどの違和感の正体を見た。つまり、シュンタロウがヒカリの名を呼んだのは、少なくとも私の前では今が初めてだったのである。いや、正しくいえば、違和感の正体は、今シュンタロウがヒカリと呼んだことではなく、今までシュンタロウがヒカリの名を口にしていなかったことだ。
私がいぶかしんでいるのを尻目に、シュンタロウはヒカリにひしと抱きついて、みっともなく泣き続けていた。いったい、殴られたヒカリが泣くならいざ知らず、シュンタロウがなにを泣くことがあるのかすら私には分からなかったが、ヒカリはなにもかも知っているように「大丈夫だよ」と優しく声をかけている。
どことなく寂しさを感じて、私は自分自身に驚いた。ヒカリとシュンタロウは、いささか歪とはいえ、私のあずかり知らぬ絆で結ばれているような気がした。それに対して、私はヒカリのことをなにも分かっていない。なぜシュンタロウを許せるのかが分からない。どれだけの時間をかけようとも、ヒカリとシュンタロウの関係を理解することは出来ないと直感した。
まったくお笑い草というもので、由依花に対してあれだけの啖呵を切ったにもかかわらず、ヒカリと共に暮らすことへの疑いが頭をもたげた。もともと、ヒカリがシュンタロウを失った悲しみにつけこんで懐に潜りこんだのだから、二人がよりを戻したのであれば、今さら私の出る幕など無いのは道理だ。そんな理にすら気づかずに、檻を出ないといい張った自分がなんとも情けなくなって、私は檻の金網に頭を押しつけた。
「本当に、ややこしいですね」
唐突なささやき声に息が止まるほど驚いて、振り向いた先にいたのは、盤桜由依花であった。私が目を白黒させていると、由依花はこともなげに小首をかしげた。
「もう来ないなんて、一言もいっていませんよ、カゲリさん」
由依花はしっと息を吐いて、私がなにかいうのを制止した。
「分かっています。気配を殺すのは氷雲くんよりも上手いですよ」
ささやき声の調子は面白がっているようで、私の心配をよそに由依花はすっと影に姿を隠した。彼雌が瞳に宿す明朗な光のおかげで、ようやくどこにいるのか分かる程度だ。これではヒカリたちから見えようはずもない。その見事さに、私は舌を巻いた。
「鈍いものです。ああしてみっともなく泣き合って、見えるものも見えなくなっている」
由依花のつぶやきは、どうやら、ヒカリたちに彼雌の姿が見えていないことを指しているのではないように聞こえた。
私は改めてヒカリたちの様子をうかがった。むせび泣くシュンタロウと、それをあやすようなヒカリの様子は、仲睦まじいように見えた。シュンタロウが悔悛して、ヒカリがそれを受け入れ、赦しているようではないか。
由依花になにをいいたいのか問おうとした時、私の目にも由依花が見ていたものが写った。床に散らばるサラミである。私は、シュンタロウの思考のからくりをようやく理解して、あごが外れそうになった。
シュンタロウは、ヒカリが純粋な好意で用意したものを、怒りに駆られて払いのけた。それを、その瞬間に謝っていればまだしも、奴が返したのは脅迫と暴力だった。その後、遅れて謝罪をしたかのように見えたが、よく思い出せば殴ったことについてだけではないか。
奴はおのれのこと、おのれの考えること、おのれのしたことについてのみ感情が動くのだ。ヒカリがシュンタロウを思いやっていようが、どうしようが、奴には関係がない。ヒカリの痛みを忖度して泣いているわけではない。おのれが相手を殴ったという罪悪感に耐え切れずに泣いているのだ。
分かってしまうと、泣きわめくシュンタロウは、都合よく慰めてくれるヒカリに甘えて、ぐずついている子鼠のようにしか見えなくなった。一瞬でも二人の間に歪な絆を見たような自分が恥ずかしくなるほど、彼らの間には迷妄と無理解しかなかったのである。
「彼女の方も同じです。彼を理解しようともしないで、表面的に泣いているから慰める」
由依花の声は相変わらず面白がるようにとげとげしかった。
「私がなにをいいたいか、分かりますね、カゲリさん」
「分かっている。ああ、分かっているとも」
私は前足で砂を握りつぶしながらいった。私に二人を蔑む資格はなかった。
由依花を裏切り、ヒカリに失望してしまえば、私に残されているのは虚無感ばかりだった。檻の外に出たいとも思えず、檻の中にいたいとも思えず、尻をぺたりと砂に押しつけて、シュンタロウの気味の悪い泣き顔をぼうっと眺めていた。
「ぼんくら丈雲というのは本当のようだな」
斎栄の声がした時も、威嚇をすることも忘れて、ぼんやりとひげを向けるのが精いっぱいだった。由依花の横に、もう一対の目が光っていた。
「栄さん、あまり無礼なことをおっしゃらないでください」
「ちっ」
栄は物陰から姿を現すと、私を見て少しだけひげを動かした。どうせ、私と一度まみえた時のことでも思い出したのだろう。だが、由依花の前で格好をつけたかったのか、奴は気取った仕草で挨拶をよこした。
「ごきげんよう。俺は斎栄だ」
「ああ」
「知っているだろうが、お前の弟に頼まれてな。お前を助けなければならない」
「勝手にするといい」
栄はまた舌打ちをして、物陰に戻ると由依花になにやら耳打ちをした。由依花はうなずいて、それから私の方へやってきた。
「貴方は今や、秤山家の丈雲さんでも、飼い殺しのカゲリさんでもないようですね」
「ああ」
「またひとつ、しがらみから逃げられたではないですか。いつも望むことでしょう?」
「ああ」
「いかがですか、ご気分は」
「くそくらえ」
「そうですか」
由依花は栄を呼びよせると、その背に乗って、檻のかんぬきを簡単に抜いた。戸は音もなく開け放たれた。私が立てば、自由に檻の外に出られる。
「来なさい。貴方が何もしたくないのなら、私が貴方を飼いましょう」
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