脱鼠の如く

朝森雉乃

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第二章:カゲリ

若鼠の笑いと苦笑い

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 三匹で暗い道を歩く間、由依花も栄も私も、一言も話さなかった。栄が私のことをちらちらと見てきたが、由依花の機嫌が悪いことを察して、声を掛けられないのだろう。由依花は栄のことも私のことも振り向かずに、先へ先へと歩を進めている。
 私はといえば、ヒイクと一緒にいることにうんざりすることもなく、ただ漫然とうしろをついていっていた。徐々に見覚えのあるところへと差しかかって、我々が盤桜家の縄張りへ向かっていることも分かったが、特になんの思いも浮かばない。ただ、他のチュダイと一度もすれ違わずに縄張りへとたどり着いた時には、由依花の勘と鼻の良さに感じ入った。
 由依花の棲まう本家へ向かうのかと思いきや、その道からは外れて、彼雌は縄張りの外れにある土を掘った古臭い穴倉へと私たちを連れていった。
 私の記憶に間違いがなければ、ここは由木彦と私が幼い頃にいたずらに掘った穴である。もっとも、その頃よりもはるかに広く、質素ながら居心地もよく改装されていた。由依花も栄も慣れた足取りで奥に進んでいくから、二匹にとってはよく来る場所なのかもしれない。嫉妬心がわくかと思ったが、私の心のうちはひたすらに平穏だった。
「ここで氷雲くんを待ちます。栄さん、貴方はどうしますか」
「俺はもうお役御免だ。約束さえ守ってくれればここにいる理由はない」
「そうですか。とはいえ、今すぐというわけにもいきません。また後日話し合いを持ちましょう」
「なら、俺は帰るとするよ。このぼんくらと一緒にいると、へどが出そうだ」
 由依花がキッと栄をにらんだが、すぐに目をそらした。栄は満足そうに目を閉じて、私の横を抜けていった。尻尾が私の脇腹に強めに当たったが、偶然だろう、とがめる気も起きなかった。
 二匹きりになったというのに、彼雌の張りつめた表情は変わらなかった。私は息を大きく吸ったが、話す気になれずにそのまま息を吐きだした。由依花が今度は私をキッとにらんだ。
「なぜ、なにも聞かないのですか」
 それでも私は黙っていた。聞いたところでどうなるというのか。由依花と栄の約束は、私には関係のないことで、首を突っ込むような無粋な真似はできない。今のチュダイ社会の趨勢も、私にとって興味のある話ではない。
 ぼんやりと穴倉を見まわした。飾り気もなにもない、殺風景な場所だった。

 ひょっこりと顔を出したのは氷雲である。なにも話すことなく由依花と二匹きりでいるのが、まことに気まずい限りだったので、思わずほっと息をついた。
「兄ちゃん! 良かった、無事で」
 すぐに顔を輝かせて、私のそばへとやってきた氷雲は、だいぶ精悍な顔つきをするようになっていた。どうやら、一連の騒動を通じて、ひとまわりねずみとして大きくなったようだ。私は氷雲の顔をなでてやると、あらためていろいろと動いてくれた礼をいった。氷雲はこそばゆそうな表情をしながらも、誇らしげにひげを立てていた。
 それから、ようやく由依花に礼をいっていないことに思い当たって、情けなさをおぼえた。私が打ちひしがれていることと、由依花が私を檻から出すために動いてくれたことは、まったく別のことがらである。それをいっしょくたにして、いつまでもふてくされていることが許されていいだろうか。いいや、素直にならなければならない。
「由依花にも、苦労をかけた。ありがとう」
 改まっていってみれば、胸につかえていたいろいろなもののうちのひとつがすっと外れる感じがあった。こうして私は、身に降りかかったいくつかの悩みが、自身の感性をかなり狂わせていたことを、ようやく自覚したのだった。ぶるぶると首を振る。
「私のために振り回されたというのに、当の私がすねていては申し訳がたたないな。今は、あの人間どものことを置いておいて、改めてお前たちに感謝しなければなるまい」
 私が頭を下げると、由依花と氷雲が目を見合わせてぱちくりとまばたきをした。二匹ともあきれたような表情で、頭を下げる私を見る。
「兄ちゃんらしくないや」
「ええ、本当に。丈雲さん、ずいぶんと殊勝なことをおっしゃいますね。まったく、そのとおりですよ。こちらの身にもなっていただきたいものです」
 氷雲が笑い出したのを皮切りに、由依花にも、そして私にも不思議と笑顔が伝染した。三匹の笑いが穴倉に満ちると、それまでの気まずさが嘘のように消えてなくなった。
 ひとしきり笑ったところで、由依花が真面目な顔をして氷雲を見た。ずいぶんつらそうな目をするので、私もつい居住まいを正した。氷雲はまだ笑いの余韻が残った顔をしていた。
「それで、やはり、氷雲くんは秤山家から勘当されたのですか」
 今度は私が目をぱちくりする番だった。氷雲の笑い顔が、苦笑いに変わった。
「んー。まあね」

「しょうがないかもね。でも、由実介くんと遊べるようになったからいいや」
 氷雲があっけらかんとしているので、私には事の重大さが分かっていないように見えた。
 チュダイ社会にとって、家から断絶された者の生きる道は少ない。挨拶は必ず家の名を名乗ってからするものだし、その家名の評判に従って敬われたり、同情されたりするのが常である。自分の食い扶持を確保できなかった時に頼ることができるのも、自分の生まれた家をおいて他にない。もちろん、客としてもてなされるうちは別だが、それとて勘当されたチュダイを客として迎える家はどこにもない。縄張りというものはかくも厳しく、それゆえに秩序だったものなのである。
 ただ、氷雲が勘当されたというのならば、封風叔父は気が狂ったとしか思えなかった。氷雲は前家督の末息子であり、いくら我が父封雲の横暴が目立ったといっても、将来の秤山家での地位はそれなりに確保されている。その上、氷雲は鼠懐っこく、封風叔父にも、ほかの分家の者たちにも好かれていた。私を切り捨てるならまだしも、氷雲を勘当しては家の他の者が黙っているはずがなかった。
「なぜだ――」
 いいかけて、しかし、私はふと口をつぐんだ。明白である。私にかかわっていたからとしか思えなかった。今さら兄貴面をしたところで滑稽なだけで、なんの役に立つこともない。逆立った首の毛を後ろ足で引っかくと、もう治ったと思っていた、亮雲につけられた脇腹の傷がピリッと痛んだ。
 由依花はちらりと私を見たが、なにもいわずに、氷雲と今後について話しはじめた。どうやら、ヒカリとの一件でふぬけた私が、氷雲にはすぐに反応したのを見て、なにか考えがあるようだった。
「氷雲くん、盤桜家への養子縁組は本当にしなくていいのですね?」
「うん。だって、迷惑かかっちゃうでしょ。由木彦さんもたぶん反対するだろうし」
「兄は公平を保とうとしていただけです。本当に氷雲くんが勘当されたなら、盤桜家は秤山家の現状を看過はできませんし、氷雲くんの味方をしない理由はありません」
「それでも、やっぱり迷惑かけられないや。いちおう、僕も雄だからね。雄一匹、世間の荒波なんてどんと来いって感じで生きないと。ね、兄ちゃん?」
「むっ、そう。そうだな」
 由依花の狙いは当たっていた。純粋な氷雲を無視するのは、なかなかに難しかった。

 雄一匹うんぬん、と初めにいったのは、なにを隠そう私である。まだ亮雲も氷雲も小さかったころ、母が死に、父が棲み処に寄りつかなくなった時代のことであった。封風叔父の頼りなさにうすうす気づいていた私は、ことあるごと、弟たちに、一匹でも生きていけるようにならなければならないと諭した。時を経て、氷雲から逆にその台詞を聞くとは思いもよらなかったが、改めて聞けばなるほど、私の今の状況にもふさわしい言葉である。身勝手に厭世を気取るのは、私のするべきことではなかった。
 深呼吸をすると、土の匂いがした。尻尾の先まで冴えわたるような感覚は、いつぶりのことであろう。前足に力を入れると、爪が心地よく地面を刺した。
「氷雲、よくいった。お前が立派に育っていること、誇りに思うぞ」
「ええ、私も、氷雲くんのような素敵な若鼠が、盤桜家の一員になってくれないことを、残念に思います」
 私と由依花に褒めそやされて、氷雲は尻尾をくるんと巻いてみせた。
 ところで、由依花は、鼻を高くしている氷雲を微笑ましそうに見ながらも、私のほうにひげを向けていた。それが、私の元気が戻ったことを喜んでいるのか、氷雲の前で私を嘲るのをひかえているだけなのかは分からなかったが、少なくとも私を気にかけてくれる鼠が一匹いるということは思い知らされた。もとより惚れた雌である。昂りそうになる気持ちを抑えて、私は一歩だけ由依花のほうに寄った。
「由依花。私も、今後のことを考えようと思う」
 浮かれている氷雲を見ながら、低い声でいうと、彼雌はそっとうなずいた。
「丈雲さんについては、養子縁組をすることも、もちろん飼うこともできません。裏切られたことは水に流しますが、また貴方を好くのには、もう少し時間をかけようと思います」
 胸をえぐられるような言葉だった。それでも、由依花が嫌うではなく好くという言葉を使ったことに気づかないわけでもなかった。
「今の秤山家や、亮雲さんのことをお教えするくらいなら私にもできますが」
「いや、少しやってみたいことができたのだ。今は亮雲と向き合うつもりはない」
 私は氷雲のくるりんとした尻尾をじっと見つめた。
「由依花、頼みがある」
「なんでしょうか」
「斎家の栄が来るまで、ここに置かせてもらえはしないだろうか?」
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