脱鼠の如く

朝森雉乃

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第一章:とんずら丈雲

鼠も歩けば騒ぎに当たる

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「そんなに気になるなら、会いに行けばいいじゃないか」
 秋伍がそういってきたのは、由依花嬢の噂について話してから少し経ってからだった。
 あれ以来、私は由依花のことばかり考えて、夜も眠れなくなっていた。私がこうして惰眠を貪っている間に、由依花はヒイクの汚らしい前足でたぶらかされているかもしれない。いや、そんなことはあり得ない。そんなことで煩悶としていると、いつの間にか夜が明けているのだ。飯を食べている時も、秋伍と話している時も、私は由依花に思いを馳せていた。秋伍のことを由依花と見間違えて呼びかけた時、ついに秋伍も呆れかえったようである。
「ええい、私は由依花を信じているのだ。ヒイクと付き合っているわけがないだろう。確かめるまでもない」
「その本心は?」
「……今さらどの面下げて会いに行けというのだ」
 すでに一月、私は世間から隠れている。その事実は秤山家のみならず関東チュダイの皆が耳にしていると秋伍から聞いた。もちろん、逃げている理由は秤山家が頑なに隠しているだろうが、ただでさえ疎遠になっていた由依花の元へ、今さらのこのこと現れるのも不自然ではないか。
 私が珍しくしょげているのに、秋伍はまたふにゃふにゃと微笑んでいる。
「顔をすげかえることは出来まいよ。その面で行っておいでよ」
「そういうことをいっているのではない!」
 私が怒ると、秋伍はけらけらと声を上げて笑いながら私の爪が届かないところまで逃げた。しかし私は追う気も起きずに、尻尾を体に巻き付けて座り込んだ。すると、秋伍は遠くからこちらを眺めつつ、ひげを撫でつけていった。
「ひとつ、良いことを教えてやろう。他鼠と親しくなる方法はたった一通りしかない。その鼠と話すことだ。君がいつまでも由依花ちゃんと話すことを避けていれば、嫁に来てくれるものも来てくれなくなってしまうというものだ。行くなら、今しかないのじゃないかね」
 秋伍はいつになく真剣な眼差しである。私は身を起こして、彼の眼をはしと受け止めた。
「その本心は?」
「そのままの意味さ。なにも君にそろそろ暇乞いしてほしいだなんて、欠片も思っちゃいないさね」
 秋伍はにやりと相好を崩しながら、事もなげにいった。

 なにも秋伍にそそのかされたわけではないが、そういうわけで私は久しぶりの外を歩いていた。外に出てみれば、秤山家の追っ手がそこかしこで目を光らせているわけでもなく、すれ違う鼠が私のことに気づくこともなかった。考えてみれば、私が蒸発しているのは知っていても、私の顔を直接知らなければ気づきようがないのだから、至極当然である。
 私はいささか拍子抜けしながらも、これならばびくびくする必要もない。次第に、由依花と再会した時にどういった言葉を交わすべきか、物思いにふけりながら足を進めていた。
 周りが騒がしくなってきたのは、道中半ばほどまで来た時だ。私がその音に物思いからさめた時には、目の前から騒ぎの中心が近づいてきていた。道のど真ん中でいったいどんなことが起こっているのかと興味を持ちつつも、巻き込まれて下手に目立たぬように私は道の端のくぼみに体を寄せた。
 やがてやってきたのは、ヒイクの群れであった。
 私の全身の毛が逆立つ。ここはチュダイの縄張りの真ん中である。ヒイクどもが練り歩いて良い場所ではない。道行くチュダイも皆、神経を張りつめながらヒイクどもを遠巻きに睨んでいた。奴らがなにかおかしなことでもすれば、すぐにでも跳びかかって追い払おうという思いは、その場にいたチュダイ全員が持っていただろう。しかし、誰も跳びかかっていかないのは、そのヒイクどもが道の先以外には目線もやらず、粛々と歩を進める使節団だったからだ。
「あいつら、斎家らしい」
 隣の見知らぬチュダイ二匹がぼそぼそと話しているのを、私は盗み聞いた。
「ああ、じゃあ、あの先頭のが栄か」
「だろうな。どうだい、度胸だけはいっちょまえだ」
「盤桜由依花はあんな細長い顔の鼠が好きなのか?」
「お前、その噂信じているのか。虫唾が走るだろう、あんな噂」
「そうかね。俺ぁ初めてその噂を聞いた時、腹がよじれるほど笑ったがな」
 私の腹は煮えくり返っている。そのチュダイをぶん殴ってやろうと拳を固めた。だが、私が前足を出すより早く、今まで脇目も振らずヒイクどもを率いていた雄がぎろりとこちらを見た。その眼光の鋭さは、さながら人間が使う縫い針のようであった。
「おい、そこの尻尾曲がりのチュダイ。由依花さんが俺のことを好きなのではない。俺が由依花さんを慕っているのだ。ふざけたことをいって、彼女を貶めるな!」

「ふざけた口で彼雌の名を呼び、由依花嬢を貶めているのはどっちだ!」
 私は怒りのあまり、尻尾曲がりと侮辱された見知らぬチュダイがいい返すより先に口出しをしていた。ついさっきまでこのチュダイを腹に据えかねていたというのに、今は斎栄の方が許しがたかった。私は尻尾曲がりを押しのけて前に出ると、栄の鼻先と自分のひげがひっつかんばかりに身を乗り出した。
「さすがはチュダイ、我ら使節団への振る舞いも様になっているな」
 栄がせせら笑いを浮かべながらいった。
 元来、チュダイとヒイクの間でも、話し合いの場を設けて争いを解決してきたことがあり、そういった使節団に喧嘩を売ってはいけないことは不文律であった。だが、それを笠に着て相手を挑発するなど、なんたる傍若無鼠だろうか。周囲のチュダイが一斉に牙をむき立てたのも当然である。
「使節団様こそ、大切なご用事の最中に喧嘩を吹っ掛けるとは、感服する仕事ぶりだ」
 私は喉の奥から言葉を絞り出して、爪を出したい衝動に抗った。
 栄は鼻を鳴らすと、私から目を背けて道を進み始めた。あとに従う斎家の者たちは、周りのチュダイがいつ飛びかかってくるかと怯えながらついていく。一番最後のヒイクの尻尾を蹴っ飛ばしてやると、弾かれたように前に駆け出していった。
 なるほど、確かに斎栄は礼儀を知らぬヒイクである。斎家が見えなくなってからも怒りに震えていた私は、不意に肩を叩かれた瞬間、そちらに牙をむき出して威嚇の声を上げた。
 肩を叩いてきたのはあの尻尾曲がりのチュダイである。奴は私の威嚇にとびすさりながら、愛想笑いを浮かべて「すまん、気が立ってるのに。礼をいおうと思って」といった。
「礼には及ばない。私は用がある」
 あまり目立ってはいけないことを思い出して、私は奴から顔をそむけた。だが、場を去ろうとすると、今度は奴と奴の連れが私の両側に連れ立って、挟むように話しかけてくる。
「なあなあ、あいつが売られた喧嘩を代わりに買い取った雄気、しびれたぜぇ」
「俺っちにもそういうかっけー振舞いを教えてくれよぅ、兄貴」
「なあ、いいじゃねえかちょっとくらい。立ち止まって話そうぜ」
「なにもあんたを取って食おうってんじゃねえんだ、俺たちだって暇じゃねえさ」
 二匹はやけにしつこく食い下がってくる。はっと気づいて左右に目をやると、ちょうど奴らが、私の両後ろ足に向かって飛びかかろうとしているところであった。

 私はとっさに一歩前へ飛び出した。私の尻の後ろで、奴ら二匹が頭をしたたかに打ちつけた音がした。振り向きもせず駆けだすと、奴らが口々に叫んでいるのが聞こえた。
「いたぞ! 秤山家のぼんくら丈雲だ! 捕まえろ!」
「違う! とんずら丈雲だ!」
「どっちだっていい! 逃がすな、懸賞米はたんまりだぜ!」
 周りのチュダイが一斉に私を見る。小柄な雄が目の前に飛び出してくる。焦点の合わない目をしながら爪を突き出す。私は後ろ足に力を込めると、跳びあがって奴の背中を踏みつけた。さらに、奴を踏み台にもう一段跳躍すると、宙からざっと道に目を走らせた。道行くチュダイと合う目、目、目、私が誰なのかまだ分かっていない者もいれば、子供が巻き込まれないよう身を乗り出す母親も、貪婪な眼差しでよだれを口から垂らす阿呆もいる。
 地面に足がついた瞬間、私は横っ飛びに跳びすさった。案の定、着地点には私を狙う奴らが殺到してきていたが、お互いの体が邪魔しあい、ひげ一本の差で私に爪が届かない。今度は躊躇せず斜め前へ加速して、親子の間を滑り抜けた。もちろん、その瞬間「御免!」と声をかけることも忘れない。私は紳士である。そのまま今度は右へ左へ、この道を一閃稲光の如く、足を緩めず走り抜けた。時たま飛び出してくるチュダイをあるいは避け、あるいは跳び越して、しばらく走るといよいよ騒ぎがまだ伝わってきていないところまで逃げおおせたのか、邪魔をする者はいなくなった。
 それからもしばらく私は駆けつづけ、大きな下水道に潜り込んだ。この下水道をずっと行けば、盤桜家の縄張りに向かえる。私は歩みをようやく並足にして、ほっと息をついた。
 それにしても、亮雲が私を捜していることは聞いていたが、まさか懸賞がかかっているとは思いもよらなかった。それに見知らぬチュダイが私を襲ってきたことを鑑みると、私の鼠相が手配されているとしか考えられない。これからはより一層目立たぬようにしなくてはならないし、すれ違う者全てが敵のようなものだ。
 しかし、亮雲がこれほど私を必死に捜しているのなら、盤桜家に協力を頼んでいても不思議ではないではないか。私ははたと歩を止めて、この余計な考えにしばし囚われた。雄たるもの、恋しい雌に迷惑をかけるわけにはいかないではないか。
 ああ、しかし、次会えるのはいつとも知れぬ。こんな状況であればこそ、なおさらに由依花と会っておかねばなるまいか。
 私は下水道を行ったり来たりした。まこと、恋とはひどく悩ましいものである。
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