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第一章:とんずら丈雲
噂と憤と信と酔い
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まさか私が、秤山家前家督の第一子であるこの私が、政略結婚の駒になるとは思ってもみなかった。しかもその相手はヒイク、さらにいえば腹違いの妹である。こんなふざけた話があってたまるものか。亮雲の宣言が耳に反響している。信じられないことだが、亮雲にそそのかされて、封風叔父は私を売ったのである。どうせ政略結婚ならば、盤桜由依花嬢とさせてくれればいいではないか。なぜ、汚らわしいヒイクと一生を共にせねばならんのだ!
本能のまま走り続け、追っ手の足音も聞こえなくなった頃、私は知らず知らずのうちに落涙していたことに、ようやっと気づいた。
ともかく隠れ家を見つけ、秤山家の者に見つからないようにしなければならない。かといって盤桜家を頼って、由依花嬢にこんな情けない姿を見せるわけにはいかない。答えはすぐに出た。
そうして、私は滝緒家の世話になることにしたのである。滝緒秋伍が快く私を迎え入れてくれたのは、読者諸賢もご存知のとおりだ。
ことの顛末をつまびらかにした際、秋伍は一人うなずきながら、こんなことを口にした。
「ははあ、それで、亮雲くんがヒイク博打で帆河に賭けたのも納得がいくよ。大穴を狙う馬鹿じゃなく、秤山家と帆河家が混ざり合った時の莫大な勢力は佐樹草家も上回ると踏んでのことかあ」
謎が解けたのが嬉しいのか、秋伍は爽やかに笑っている。前足でひげを撫でつけるインテリな仕草が彼の癖であることを、私はその時に知った。
「亮雲くんは、なんとしてもきみをその瀬穏という雌と契らせようとするんだろうなあ。これは、面白くなりそうだ」
「面白いものか。私はもう心に決めた盤桜由依花嬢という想い鼠がいるのだ。勝手に政略結婚させられたら困る」
私は鼻の先にしわを寄せて抗議をした。秋伍は「違いない」と笑いながら、なおもひげを触っている。と、不意にその手が止まり、秋伍の目が上の方を向く。なにかを思い出したようににんまりと笑う彼を見て、私は非常なる不安を覚えた。
「そういえば、こういった噂を知っているかい?」
意地悪そうな眼差しがこれほど似合う雄もいるまい。私はつばを飲み込んで、次の秋伍の言葉を待った。
「きみの惚れている由依花ちゃんだけど、あの斎家の栄との交際が噂されているそうだ」
ああ、なんということか。滝緒家の情報収集力は侮れない。だが、この噂だけは嘘であってほしい。いや、嘘であるはずだ。嘘でなければならない。嘘であってくれ。
「もちろん、ただの噂さ。チュダイとヒイクが連れ合っているなんて、それこそ前代未聞の大スキャンダルだからね。まあ、きみの父君がうまく隠していたようだから未聞だっただけであって、すでにあったことのようだが」
意地の悪いことをいうが、私とて父にはもうなんの尊敬も抱いてはいない、秋伍の封雲への暴言はどうでもよかった。それより、チーズのない所に匂いは立たぬと昔からいうもの、こんな噂が立つようであれば変に勘繰る馬鹿もいよう。春に滲み出す岩清水のように清廉な由依花嬢を貶める輩がこの世にいようとは! 義憤に駆られた私は鼻息荒く秋伍の胸倉を引っ掴み、食いしばった歯の隙間から息をもらしながら問うた。
「そんな噂を垂れ流す、潰れたカメムシよりも性根腐った阿呆どもはいったいどこにいるというのだ」
秋伍は相変わらずにへらと笑っている。
「そんな血走った眼をしなくてもいいじゃないか、丈雲くん。主に栄を持てはやす若いヒイクの間で囁かれる噂だ。不思議だな、ヒイクにとってもチュダイと交際するのは十分な悪評だろうに、栄の支持者はそれさえも『トキ・サカエ・ザ・ホープ』のカリスマ性に感じるらしい。滝緒家の者たちのような狂信者だよ」
けらけらとしている秋伍に毒気を抜かれて、私の怒りもどこかへ失せてしまう。ここに逗留するようになってから、こういったやり取りの繰り返しである。秋伍は滝緒家の信仰についてあまり興味がないようで、すぐこういう家を馬鹿にするような発言をするのだ。
「由依花がそのようなことをするはずがない。私は信じている」
深呼吸をしてから口に出してみれば、至極当たり前のことであった。と同時に、その至極当たり前から外れようとしている己の状況が、いやに惨めになる。私は秋伍の胸から前足を下ろすと、ため息をこぼさずにはいられなかった。
「はは、ここにも狂信者が一匹、だな」
憎まれ口を叩く秋伍だったが、私は気にならなかった。愛する雌を信じない雄がどこにいようか。さらにいえば、愛せぬ雌を信じられるはずがないではないか。今さらに、帆河瀬穏との政略結婚という与太話に嫌悪感が募って、気分すら悪くなった。
会ったこともないヒイクの雌に、私は振り回されている。酔いもしようというものだ。
本能のまま走り続け、追っ手の足音も聞こえなくなった頃、私は知らず知らずのうちに落涙していたことに、ようやっと気づいた。
ともかく隠れ家を見つけ、秤山家の者に見つからないようにしなければならない。かといって盤桜家を頼って、由依花嬢にこんな情けない姿を見せるわけにはいかない。答えはすぐに出た。
そうして、私は滝緒家の世話になることにしたのである。滝緒秋伍が快く私を迎え入れてくれたのは、読者諸賢もご存知のとおりだ。
ことの顛末をつまびらかにした際、秋伍は一人うなずきながら、こんなことを口にした。
「ははあ、それで、亮雲くんがヒイク博打で帆河に賭けたのも納得がいくよ。大穴を狙う馬鹿じゃなく、秤山家と帆河家が混ざり合った時の莫大な勢力は佐樹草家も上回ると踏んでのことかあ」
謎が解けたのが嬉しいのか、秋伍は爽やかに笑っている。前足でひげを撫でつけるインテリな仕草が彼の癖であることを、私はその時に知った。
「亮雲くんは、なんとしてもきみをその瀬穏という雌と契らせようとするんだろうなあ。これは、面白くなりそうだ」
「面白いものか。私はもう心に決めた盤桜由依花嬢という想い鼠がいるのだ。勝手に政略結婚させられたら困る」
私は鼻の先にしわを寄せて抗議をした。秋伍は「違いない」と笑いながら、なおもひげを触っている。と、不意にその手が止まり、秋伍の目が上の方を向く。なにかを思い出したようににんまりと笑う彼を見て、私は非常なる不安を覚えた。
「そういえば、こういった噂を知っているかい?」
意地悪そうな眼差しがこれほど似合う雄もいるまい。私はつばを飲み込んで、次の秋伍の言葉を待った。
「きみの惚れている由依花ちゃんだけど、あの斎家の栄との交際が噂されているそうだ」
ああ、なんということか。滝緒家の情報収集力は侮れない。だが、この噂だけは嘘であってほしい。いや、嘘であるはずだ。嘘でなければならない。嘘であってくれ。
「もちろん、ただの噂さ。チュダイとヒイクが連れ合っているなんて、それこそ前代未聞の大スキャンダルだからね。まあ、きみの父君がうまく隠していたようだから未聞だっただけであって、すでにあったことのようだが」
意地の悪いことをいうが、私とて父にはもうなんの尊敬も抱いてはいない、秋伍の封雲への暴言はどうでもよかった。それより、チーズのない所に匂いは立たぬと昔からいうもの、こんな噂が立つようであれば変に勘繰る馬鹿もいよう。春に滲み出す岩清水のように清廉な由依花嬢を貶める輩がこの世にいようとは! 義憤に駆られた私は鼻息荒く秋伍の胸倉を引っ掴み、食いしばった歯の隙間から息をもらしながら問うた。
「そんな噂を垂れ流す、潰れたカメムシよりも性根腐った阿呆どもはいったいどこにいるというのだ」
秋伍は相変わらずにへらと笑っている。
「そんな血走った眼をしなくてもいいじゃないか、丈雲くん。主に栄を持てはやす若いヒイクの間で囁かれる噂だ。不思議だな、ヒイクにとってもチュダイと交際するのは十分な悪評だろうに、栄の支持者はそれさえも『トキ・サカエ・ザ・ホープ』のカリスマ性に感じるらしい。滝緒家の者たちのような狂信者だよ」
けらけらとしている秋伍に毒気を抜かれて、私の怒りもどこかへ失せてしまう。ここに逗留するようになってから、こういったやり取りの繰り返しである。秋伍は滝緒家の信仰についてあまり興味がないようで、すぐこういう家を馬鹿にするような発言をするのだ。
「由依花がそのようなことをするはずがない。私は信じている」
深呼吸をしてから口に出してみれば、至極当たり前のことであった。と同時に、その至極当たり前から外れようとしている己の状況が、いやに惨めになる。私は秋伍の胸から前足を下ろすと、ため息をこぼさずにはいられなかった。
「はは、ここにも狂信者が一匹、だな」
憎まれ口を叩く秋伍だったが、私は気にならなかった。愛する雌を信じない雄がどこにいようか。さらにいえば、愛せぬ雌を信じられるはずがないではないか。今さらに、帆河瀬穏との政略結婚という与太話に嫌悪感が募って、気分すら悪くなった。
会ったこともないヒイクの雌に、私は振り回されている。酔いもしようというものだ。
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