脱鼠の如く

朝森雉乃

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第一章:とんずら丈雲

夜に混ざる黒、乱れて染まる赤

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 私のあまりの消耗ぶりを見て、由香里は一旦この場をおさめ、話し合いは明日にすることを提案してくれた。私はありがたく受け、盤桜家に一夜の世話になることにしたのである。
 いったい、ただ由依花に一目会いに来ただけだというのに、話がなにやらねじ曲がってきている。整理して考えれば、発端は親父がヒイクと隠し児をもうけるからいけないのだ。そのせいでチュダイとヒイクの混血の娘、帆河瀬穏が生まれ、そのことを盾に帆河家は秤山家に無理を押し通そうとしている。封風叔父と亮雲にしても、隠し児という不名誉な事実を公表されるよりは、私と瀬穏が正式につがいになる方が、家名への傷が少ないと考えたのも無理からぬことではある。だが、あまりに当事者への配慮が足りないのが問題だ。私は、ヒイクと寝起きを共にするくらいならば、この尻尾を失ってもよいと思う。
 煩悶しながら客間で寝転んでいると、なにやら鼠の気配がする。客間の入り口を見やると、影がひょいひょいと見え隠れしている。私は居住まいを正して、「どうぞ」と声をかけた。顔を見せたのは由木彦である。
「やあ、少し騒がしかったからあまり挨拶も出来なかった。改めて、久しぶりだな、友よ」
「しばらくぶりだ。すまないな、沙汰もなく」
 私は改めて寝転びながら答えた。由木彦とは気の置けない仲である。このところとんと付き合いをしていなかったとはいえ、目を合わせた瞬間、以前の関係と何ら変わっていないことは確信できた。だからこそ、このようにぶしつけに転がりながら会話をしても、気兼ねがないのだ。案の定、由木彦も私の横に転がってきた。
「いいさ、むしろ自由な君らしい。僕も、本当はなにがあったかなんて実は聞きたくない」
「昔から、面倒事は本当に嫌いだな、お前は」
「当たり前だろう? 楽しいことを楽しくすれば、この世は楽しく生きられるんだ。なにも自分から首を突っ込んでいくことはない。そうじゃないか?」
「まったくだ。そういうことが分かっていながら、なんでお前まで亮雲の戯言を信じた?」
「実は、君がヒイクへ突っ込んだなんて、これっぽっちも信じちゃいなかった」
「ふっ、さっきはなにやら暴言を吐いて跳びついてきたじゃないか」
「まあ、母さんと由依花がうろたえるものだから、少し芝居を打っていたところはあるな。でも、敵を欺くにはまず味方、裏でいろいろと噂を集めたよ。ほんとに、いろいろとね」
 私が身を起こすと、由木彦は閉じていた片目を開いて私を見た。
「なかなか可哀想な身の上じゃないか、君の嫁にさせられそうなヒイクは」

「ヒイクに可哀想もなにもあるものか。馬鹿らしい」
 私はうろたえた。まさか、秤山家以外の者にこのことが知られているとは思わなかったのである。しかも、相手は先ほど、面倒事に首を突っ込むなんてまっぴらだ、といっていた由木彦だ。
「いうこととやることが違うじゃないか。面倒事を嗅ぎ回るなど、お前らしくもない」
 由木彦は悠々と寝転がり、尻尾をぱたぱたと動かしている。
「知ったうえで何もしなければ、巻き込まれはしないからね。まして親友に降りかかった出来事だ、君の身を案じてのことだよ。安心しなよ、誰にも話していない。まず君と話したかったんだ。そしたら都合のいいことに、君の方からやってきた」
 私は唸って、由木彦の次の言葉を待った。由木彦は、しばらくなにもいわなかった。ときどき何度か胸が膨らむが、そのたびに言葉を飲み込んでいるようだった。
「なあ丈雲、その雌と、会ってみようとは思わないのかい」
 やっと口にした言葉は、感情を押し殺したとよく分かる平板な声だった。本当ならば口にしたくはないが、仕方なくいったというような風情だった。
「なぜだ」
 私は歯を食いしばった。親友と呼んでくれた由木彦に感謝しているとはいえ、ヒイクへの悪感情がそれで薄らぐ余地もなし。帆河瀬穏に会うなど、到底考えられない。
 由木彦も、私がそういう風に考えていることなど、百も承知のようだった。苦虫をかみつぶしたような顔で、ごろり、と体を転がした。
「最近、うちによく斎家の若旦那の栄が来るんだよ。由依花に会いにくる」
「知っている」
 私は、ここへ来る道中、斎栄と遭遇したことを由木彦に伝えた。由木彦は驚いた顔をしたが、それならば話は早い、と、私の方に身を寄せた。
「初めのうちは追い返していたんだが、斎があまりにしつこいものだから、このころは母さんと由依花で相手するようになった。それで、この間、由依花に聞いたんだ。斎栄っていうのはどんなヒイクなのかって。そうしたら、由依花はなんといったと思う?」
 由木彦がこんなに辛そうな顔をするのは珍しい。私は目をそらした。
「『見栄っ張りでわがまま、強引で自分に酔う方ですが、楽しければ笑い、傷つけられれば怒ります。面白い冗談を沢山ご存知でした。思ったより、チュダイに似ています』だとさ」

「なにがいいたいのだ、由木彦よ」
 あの由依花が、ヒイクを褒めたと聞いただけで気分が悪くなる。吐き気を堪えて、白蟻を間違えて飲み込んだ時のように顔をしかめた。きっと、由木彦も私と同じような顔をしているに違いない。
「僕はただ、妹のことを信じているだけだよ。由依花が鼠のことを、ヒイクだというだけで差別しない、清い心を持っていることを誇らしく思う。その心を僕は、持つことが出来ない。だが君なら」
 由木彦が言葉を切った。彼は体を起こすと、溜息をついて客間から去っていった。きっと、いろいろと堪えきれなくなったのだろう。耳を澄ましていると、遠ざかる足音の中に小さく鼻をすする音が混ざった。
 盤桜家の者たちが立てる音もついに無くなり、夜のしじまが私を包んでも、由木彦の喉を詰まらせた声が耳を離れることはなかった。だが君なら。由木彦が私をどう評価しているのか分からないが、由依花と同じこと、ヒイクを色眼鏡なく見つめることなど、果たして私は出来るのだろうか。考えを巡らせながら自分の呼吸の音を聞いていると、ゼイゼイと荒くなることもあれば、すぅと落ち着くこともあった。そうして眠りの兆しもないままに、どのくらいの時間が経ったのか、もうわからなくなった。
 足音がして、そろそろ朝が来たのだろうと思ったのも、そういった事情があったからである。私は閉じていた目を開いて、うんと伸びをした。考えはまとまっていようはずもなく、いっそ帆河とのことを由香里に相談しようと心に決めていた。悩みというものは、相談をしようと思うだけで随分と軽くなるもので、気分の良くなった私は足取り軽く客間から出たのである。
 目と鼻の先にあったのは、見覚えのある漆黒の毛皮、慣れ親しんだ顔。まごうことなく、愚弟亮雲であった。
 いったいなんだかわからない。だが、尻尾がこれまで生きてきた中で体験のないほど強くけいれんし、私の体ごと強く後ろに引っ張ったかのように、私は本能で後ろに跳びすさっていた。それでも、鼻先にがぁんと強い衝撃を受ける。奴の爪が私の顔をかすったのだった。
「見張っていて正解だった、丈雲!」
 身を躍らせてかかってきた亮雲を、今度はすんでのところでかわす。しかし、じんじんとする鼻を気にする余裕はない。客間の出口を塞がれて、まさに袋の鼠であった。

「狼藉はよさないか、亮雲。盤桜家に失礼だろう」
 奴の血走った眼を見て、私は大声を出すのをやめた。由香里と由依花は雌鼠であるし、由木彦も荒事は得意ではない。どうせ由有葉やさらにその弟の由実介ゆみすけも、喧嘩を好きなはずがない。昂った亮雲の相手をするには、盤桜家を巻き込むよりも、私一匹の方が都合がよいと判断したのである。
 亮雲は牙をむき出しながら、じりじりと間合いを計っている。
「なあに、行方不明だった兄がここにいると噂を聞いたんだ。一刻も早く再会したかった弟が、取り乱して挨拶もせずに乗り込んだだけのことだよ」
「そんな乱暴な言い訳が由香里に通じるはずがない。なにせ、お前が嘘をついたことはもう明るみに出ているのだぞ」
 亮雲が飛びかかってきたので、言いさしながら横に跳びすさった。そのまま出口を目指そうとしたが、その狙いは亮雲も感づいていた。薙いだ尻尾が私のひげをかすめた。間一髪、避けるために踏ん張ったせいで、速度が落ちて亮雲に先回りされてしまった。
「おいおい、逃げるなよ兄さん。感動の再会だ。少しくらい抱きしめさせてくれよ」
 浮ついた猫撫で声を出しながら、両のかいなを振り上げてくる亮雲を、もう一度後ろに跳びすさって避ける。引き続いて繰り出される爪、牙、体当たり。攻撃をことごとく避け続けるにも、この狭い客間では限度がある。ついに避けきれない攻撃が飛んできたところで、私も前足を出さざるを得なくなった。亮雲の爪をむき出した右前足と、私の左前足を絡みつかせる。勢いそのままぐっと後方へ引っ張ると、亮雲は体を崩して吹っ飛んだ。だがその瞬間、私の背中に激痛が走った。亮雲が空いていた前足の爪を引っ掛けたのだ。もんどりうった奴は、しかしすぐに起き上がると、なんと爪についた私の血を舌で舐めたのだった。
「諦めろ、亮雲。由香里も由木彦も、お前のことはもう信じない」
 燃えるような痛みに喘ぎそうになりながらも、私は余裕を見せつけるために語り掛けた。亮雲は、血で染まった真っ赤な舌をべろりと出して、私に見せつけた。
「ああ、そうだろうとも。お前がここにたどり着いたと聞いた時点で、盤桜家は俺の敵に回ったと思ったさ。こっちも無策で飛び込む馬鹿じゃねえんだよ」
 おぞましい狂気に身を焦がした亮雲は、さっきまでの猿芝居をかなぐり捨てた。語気を荒くして笑うその姿は、さながら腹を空かせた大蛇のようである。
「なあ、丈雲よ? 由依花姉さんのこと、好きなんだったっけ?」

「なにをいっている。なにをする気だ」
 食いしばった歯の間から押し出した声はかすれていた。どうせ下手な挑発だと分かっていても、どきりとするのを抑えられるわけではなかった。一瞬の動揺を見抜かれて、亮雲の爪がもう一度私の体を襲った。左脇腹に激烈な痛みが走ると、そのまま体を吹き飛ばされたのである。
「なにもしないさ。兄さんの愛しの由依花姉さんだ。いずれ俺の姉になって欲しいものなあ。なにもするわけがないだろう?」
 後ろから、また猿芝居を始めた亮雲の声が聞こえる。気が遠くなりながらも、ここで倒れるわけにはいかなかった。ふらつきながら立ち上がる。すぐ耳元で亮雲が囁いた。
「でも、兄さんが秤山家に戻ってきてくれないと、由依花さんも心配のあまり、自傷に走るかもしれない」
 声のしたところに爪を飛ばしたが、やすやすと避けられてしまう。そのお返しは、左脇腹への改めて痛烈に響く一撃だった。
「由依花に手出ししてみろ! ただで済ませるものか!」
 痛みに視界もかすみながら、私はやみくもに叫んだ。もはや、盤桜家を巻き込まないようにするなどといってはいられない。由依花に危険を知らせることが最優先である。そのうえで、私は威嚇の声を上げた。亮雲は余裕の表情を浮かべ、口の端の笑みを隠そうともしていない。
「怖いね、何をされるんだろう。おやつのチーズを横取りされるのかな?」
 口の中に湧いてきた苦い味の唾をはき出して、私はもう一度亮雲と自分の位置をしっかりと見据えた。今は入口に近いところに立っているとはいえ、私を攻撃する際は必ず場所を動かなければならない。その隙を狙って飛び出し、奴の攻撃を潜り抜け、いるかもしれない奴の手下をぶちのめして、由依花を守りに行くには、どうすればよいのだ。
 考えて、考えて、考えて、私は、深く肩を落とした。
「おい、亮雲、私がおとなしく捕まれば、由依花嬢に手出しはしないな?」
「案ずるな、俺もそこまでくずじゃない。重要なのは、お前を捕まえることだ」
 立っているのも苦しいとばかりに、息を吐きながらうつ伏せに倒れた私を見て、亮雲は勝ち誇った笑顔を浮かべて歩み寄ってきた。そして、奴の前足が背中にかかった瞬間、私はこっそりと伸ばしていた後ろ足で、壁を強く蹴り飛ばしたのだった。

 かかっていた前足の爪が背中に深々と突き刺さり、そのまま皮を剥いだような激痛が走る。その痛みに朦朧とする暇もなく、私も盤桜家の棲み処を走った。後ろから亮雲の金切り声が追ってくる。何といっているのか、私にはよく分からない。満身創痍に気力の鞭を打ちつけながら、頭の中から血が抜けたのか、思考は自分で驚くほどに冷静さを取り戻した。盤桜家の棲み処の細かな記憶が一切思い出され、棲み処の狭い抜け道から由木彦と集めた宝物の場所すらも脳裏に鮮明であった。もちろん、由依花の寝床へも、足が勝手に進んでいったかのように、気づけば最短の道のりを選んでいた。
「由依花!」
 飛び込んで見れば、寝息を立てる由依花の隣に大柄なチュダイ一匹、どうにも爛々と燃える目は、一通りの荒くれ者ではなさそうであった。私の突然の闖入に一瞬ひるんだその隙を、もちろん逃す私ではない、頭から脇腹に飛び込んでいけば、亮雲の手下は身を翻せずにまともに頭突きを食らって、へぎゅう、と聞いたことのない鳴き声を上げた。
 ところで私の頭も石つぶてで出来てはいない。かち割れそうなほどの衝撃と、吐き気を催すほどの振動に、瞬間目の前が真っ暗になったが、ここで正体を失えば万事休す、脇腹の傷に自ら爪を立て、痛みで気付けを施した。そして由依花を見やれば、さすがの騒ぎに目は覚めたが、まだ何も分かっていない様子である。
「逃げるぞ!」
 由依花は目を丸くして、私と、横で悶えている亮雲の手下とを見比べながら、口を開けては閉めた。何かいいたいようであるが、そんなことを気にしている場合ではない。私は由依花の前足を握ると、その星を浮かべた泉のように美しい目をしかと見つめた。
「私を信じて、今はついてこい」
 由依花は逡巡した様子だったが、泉に朝露が落ちたようにひとつ目をしばたたいて、その時表情はもう決意一色になっていた。
「行くぞ!」
 もう一度亮雲の手下を足蹴にした後、盤桜家の棲み処の出口とは反対に駆けた。由木彦の寝床がある方向であり、奴が幼い時分に勝手に堀った抜け穴がそちらにあったことを、私は思い出していたからである。
 私は駆けた。前だけを見て駆けた。後ろから、由依花の足音が離れず聴こえてくることを、嬉しく思いながら駆け抜けた。
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