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第二章:カゲリ
無垢な氷は透き通る
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当然、ずっと閉じ込めていられたい私ではない。
翌日はヒカリが外出をしたので、いろいろと考えていた檻から抜ける方法を試してみることにした。
まずは、檻の金網をかじり破ることが出来ないかと、隅の方を噛んでみた。普段木の根が邪魔だったりするとかじって道を開けているものだから、どうしても試さずにはいられない。実は何度か試したことがあるが、金網の上を歯が滑るばかりで、顎が疲れるだけである。ひとしきり試してみた後、やはり金網に穴を開けるのは難しいと改めて分かった。
もとよりこの方法はあてにしていない。次は、下に敷いてある砂を掘って、檻の底から逃げる作戦を試す。どうも、ヒカリが私の檻を掃除している時に見た限りだと、檻の底は金網ではないようなのだ。どこかに引っかかりがあれば噛み破ることも出来るかもしれない。
しかし、掘り進んでわかったのは、檻の底はつるりとしていて歯を立てられそうな場所がないということだけであった。だが、このくらいは、人間が我々を捕えておこうと考案した檻なのである、当然の造りだろう。
さて、前座の二作戦は当然のように失敗に終わった。これより、本命の作戦である、かんぬきを尻尾で引いて檻の戸を開けるという作戦を実行に移す。
難しいのはかんぬきが檻の高いところにあることで、いくら私が大柄なチュダイだといってもそう簡単には届かない。私はかんぬきの場所をよく確認してから、その真下あたりに座って、金網の方に尻を向けて座った。ここから少しずつ後ずさりをして、後ろ足を壁沿いに上らせていけば、逆立ちをするような形で尻尾を高く持ち上げられるという寸法だ。
ところで、人間もそうだろうが、チュダイにとってもこの体勢はやりやすいものではない。半歩後ずさりをするたびに、前足にかかる負荷は倍になるかと思うほど強くなり、体が半分ほど浮いたところで、もはや前足が震えはじめた。しかし、ここで崩れては逃亡など到底難しい、歯を食いしばって、少しずつ金網に後ろ足を掛けていった。
息を切らしながら、尻尾をしならせて、かんぬきを探る。考えてみると、金網の外から見れば尻を高く上げて振っているのだから無様な格好である。私だったら見たら笑うだろう。
そうして、頭を下にしていてぼうっとしたものだから、つい部屋の音を聞き逃したのだ。
「はは、お尻をぶりぶり振るのが趣味だなんて、知らなかったよ」
突然そんな声がしたものだから、私は前足を滑らせて、背中から地面へもんどり打ったのだった。
したたかに打った背中に息が詰まったが、それより驚いたのは声に聞き覚えがあったことである。体を起こして金網越しに見れば、相変わらずの魔窟にチュダイが一匹、鼻を上に向けて、すんすんと匂いを確かめていた。
「やっぱり、丈雲兄ちゃんだ」
満足げに鼻息をもらして、そのチュダイは首を元に戻し、檻に近づいてきた。あどけなさが残る鼻面、くるりんと丸まった尻尾、そして、とてとてと足音を殺そうともしない歩き方は、我が末弟、秤山氷雲に間違いなかった。
「氷雲! しばらくだな」
私は思わぬ来訪に驚いて、頓狂な声を上げてしまった。だが、今しがた恥ずかしい姿を見られたことをすぐに思い出した。兄の威厳が損なわれてはいけない。咳払いをすると、さも当然という風情を保って、私はもう一度逆立ちを始めた。そして、熱心に尻尾をかんぬきにかけられないか試していると、ついに後ろで氷雲が吹き出すのが聞こえた。
「に、兄ちゃん、お尻、お尻ぃ、ひっひひ」
私はこれを待っていた。今度はしなやかに後ろ足を下ろすと、檻越しに氷雲をしかとにらみつけ、一喝鳴き声を上げた。
「氷雲! 私は真面目に尻を持ち上げているのだ。理由も分からないお前が笑うな!」
笑い転げていた氷雲は、私の大声に驚いてあわてて縮こまった。
「ご、ごめんなさい、兄ちゃん」
「いいか、他鼠を笑うのは勝手だが、相手の事情も考えられないようでは一匹前のチュダイになれないぞ」
「はい、気をつけます」
氷雲はすっかりしょげかえった。なんとか兄として威厳は保てたようだった。私は声を和らげて、氷雲にもっと近くへ寄るよう声をかけた。
「改めて、久しいな。元気にやっていたか」
「うん。叔父さんも、亮雲兄ちゃんも元気。丈雲兄ちゃんの行方を気にかけて、早く帰ってきて欲しいっていってた。もちろん僕も心配してたんだよ。でも、まさか人間に捕まってるなんて。大丈夫? ひどいこと、されたりしてない?」
氷雲の目は、亮雲とは違って澄んでいた。清らかな声は薫風のようだった。あいつと違って、本当に気遣ってくれていることがすぐに分かった。
ああ、亮雲も氷雲も血を分けた弟であるが、いったいこの差はどこから生まれたのだろうか。しばし感傷に浸ったが、すぐに一つの疑問を抱いた。
「氷雲よ、お前も会議に出ていたなら、私がなぜ家を出たか知っているな。どうして叔父上や亮雲のいっていることをおかしいと思わないのだ」
もとより、私を帆河家へ婿にやるという、ふざけた決議に抗議するための逃避行である。封風叔父や亮雲が、早く捕まえたいというならまだしも、早く帰ってきて欲しいと心配する理由があろうか。
しかし、氷雲は目をぱちくりとしばたたかせて、小声でうなりながら首を傾げた。
「会議、最後まで聞いてなかったから分かんない」
「なんだと」
「だってさ、丈雲兄ちゃんは叶雨姉ちゃんたちとおしゃべりしてるし、亮雲兄ちゃんは偉そうにしてて怖かったし、つまんなかったから途中で抜け出して遊んでたんだもん」
だからよく分かんない、と悪びれない笑顔で宣う氷雲に、こちらが毒気を抜かれてしまう。おそらく亮雲も、この氷雲のあどけなさにほだされ、汚い事情は伝えていないのだろう。
だが、氷雲がなにも知らないでいることは、今秤山家に帰りたくない私にとっては好都合である。私は金網のすき間から前足を出すと、氷雲の頭を撫でてやった。
「氷雲、私は今、どうしても家に帰るわけにはいかないのだ」
私が困っている声を出したものだから、氷雲は心配そうに私を見上げた。
「それって人間に捕まってるから? そしたら亮雲兄ちゃんにいって助けに来てもらえば」
「いや、そうではない。今、亮雲は私を不幸にしようとしているのだ。あいつに捕まったら、もうお前と遊んでやることも出来なくなるのだよ」
そもそも、氷雲は亮雲よりも私になついている。その私が亮雲と敵対していると分かれば、氷雲は当然私の味方になってくれるはずだ。果たして、氷雲は愕然とした表情で私の前足にしがみついた。
「なんで? 前の会議でなんかあったの? 丈雲兄ちゃんがいなくなるのやだよ!」
今にも落涙しそうな氷雲を見て、こんな弟を持ってよかったと思った。同時に、少々事実を歪曲して、私に有利な風に伝えようと思っていた己の浅ましさを悔いた。これほどに清廉な弟を騙そうなどと、一瞬とて考えるべきではなかった。
「氷雲。以前の会議の内容をお前に説明してやろう。大切なことだから、よく聞きなさい」
話が終わると、氷雲はしばらく考えこんでいたが、やがて目を上げていった。
「よく分かんないけど、兄ちゃんはその、瀬穏姉ちゃんと話してみたくないの?」
氷雲は照れた様子で、姉ちゃん、と口にした。
私は驚いた。まだ幼い氷雲にとって少し複雑な話だったかもしれないが、彼にとって重要なことは、チュダイとヒイクの忌むべき混血ではなく、帆河瀬穏という血の繋がった姉がいたという、ただその一点だということか。
「おい氷雲!」
声を荒げたが、あくまで氷雲は純粋な疑問をその目に浮かべていた。あどけないというにはあまりに純潔な、曇りを晴らす目だった。私はたじろいで、継ぐ言葉を失った。
氷雲はその間にも、まだ見ぬ帆河瀬穏に対しての想像をたくましくしていた。
「あっ、でも僕より年上って決まったわけじゃないよね。そしたら瀬穏ちゃんかな。僕は姉ちゃんより妹がいいなぁ。でも丈雲兄ちゃんと結婚するんだから、やっぱり瀬穏姉ちゃんになるのかな」
「年の頃は亮雲と変わらないそうだ」
「へえ、じゃあ丈雲兄ちゃんより若いんだ。きれいな鼠なのかな」
「帆河家の者は美しいと吹聴したそうだ」
私は、封風叔父が会議でふがふがといっていたことを漫然と繰り返しながら、天真爛漫に瀬穏への興味を語る氷雲を見ていた。氷雲は昔から、我慢が出来なくてそわそわすると、くるりんとした尻尾がよりくるんと曲がるくせがあった。今の氷雲は、もはや尻尾が丸まるだけでは飽き足らないようで、その場でくるくると踊りはじめそうな勢いだった。
微笑ましい、と素直に思う。氷雲にとっては、チュダイだのヒイクだのということは、毛の先ほども関係ない。ただ、鼠と鼠の関係として今回の事件を捉えているだけだ。もしかすると、盤桜家に世話になった夜に由木彦がいいたかったことは、こういうことなのかもしれない。
「氷雲は、ヒイクについてどう思う」
私は、ついに回転し始めた氷雲に尋ねた。
「えっ、ヒイクなんて、一匹も会ったことないからよく分かんない。でも、チュダイとそう変わらないでしょ? 面白ければ笑って、ムカついたら怒るんじゃない?」
氷雲は息を切らしながら、私がいつか聞いたことのあるような台詞をいった。
私はしばらく黙っていたが、やがて瀬穏のことについて考えるのを止めた。考えると、頭が痛くなる。どうせこの檻から出られない限り、どうしようもない問題である。今頭を痛めても仕方がない。一つ身を震わせて、わずらわしいヒイクどものことを頭から追い出した。
今考えるべきは、檻のかんぬきをどうやって開けるかだ。
この部屋に氷雲がやってきたのは僥倖だった。内側から尻尾を伸ばすより、外からの方が断然開けやすいに違いない。私は氷雲に協力を仰ぎ、なんとかかんぬきを開けられないといろいろ指示を出した。
結果は、分かっていたが散々だった。氷雲はまだ幼く、私より体が小さい。私が逆立ちして尻尾がかんぬきに届かないのだから、氷雲がどうすればいいというのか。いたずらに飛び跳ねさせたり、檻によじ登らせようとしてみたりしてみたが、どうにもかんぬきには前足も尻尾も届かなかった。
そのうち、氷雲が肩で息をし始めたので、さすがにこれ以上続ける気も失せた。二匹で檻を挟んで背をつけて、意気消沈しながら横たわった。
「こうなったら、誰か他のチュダイを呼んでくるしかないかも」
息が整ってきた氷雲がいう。私も一つうなり声を上げて同意した。
「ただし、亮雲は駄目だ。亮雲だけでなく、お前以外の秤山家の者には知られたくない」
「どうして? 人に捕まったのを見られると恥ずかしいから?」
「それもあるが」
私は、いったい氷雲にどういえば、ヒイクと連れ合うことの厭わしさを伝えられるか悩んだ。氷雲には、ヒイクだから、という理由だけでは不十分だ。しかし、私にとってはそれだけで十分だったのだから、今さら他の理由を考えることが出来なかった。
「ともかく、秤山家の者は駄目だ。別の誰かを呼んできてくれまいか」
「わかった。亮雲兄ちゃんや叔父さんの知り合いじゃなくて、僕と一緒に来てくれそうなチュダイなんて思い当たらないけど、ちょっと考えてみる」
またね、といって、氷雲は走り出した。さっきまでへとへとだったのに、元気な奴だ。くるりんとした尻尾が袋の山の中に消えたのを見届けて、私は体を丸めて休むことにした。
しばらくして、檻の金網を叩く音がした。
「兄ちゃん、出口、どっちだっけ」
泣きそうな氷雲の声がした。
翌日はヒカリが外出をしたので、いろいろと考えていた檻から抜ける方法を試してみることにした。
まずは、檻の金網をかじり破ることが出来ないかと、隅の方を噛んでみた。普段木の根が邪魔だったりするとかじって道を開けているものだから、どうしても試さずにはいられない。実は何度か試したことがあるが、金網の上を歯が滑るばかりで、顎が疲れるだけである。ひとしきり試してみた後、やはり金網に穴を開けるのは難しいと改めて分かった。
もとよりこの方法はあてにしていない。次は、下に敷いてある砂を掘って、檻の底から逃げる作戦を試す。どうも、ヒカリが私の檻を掃除している時に見た限りだと、檻の底は金網ではないようなのだ。どこかに引っかかりがあれば噛み破ることも出来るかもしれない。
しかし、掘り進んでわかったのは、檻の底はつるりとしていて歯を立てられそうな場所がないということだけであった。だが、このくらいは、人間が我々を捕えておこうと考案した檻なのである、当然の造りだろう。
さて、前座の二作戦は当然のように失敗に終わった。これより、本命の作戦である、かんぬきを尻尾で引いて檻の戸を開けるという作戦を実行に移す。
難しいのはかんぬきが檻の高いところにあることで、いくら私が大柄なチュダイだといってもそう簡単には届かない。私はかんぬきの場所をよく確認してから、その真下あたりに座って、金網の方に尻を向けて座った。ここから少しずつ後ずさりをして、後ろ足を壁沿いに上らせていけば、逆立ちをするような形で尻尾を高く持ち上げられるという寸法だ。
ところで、人間もそうだろうが、チュダイにとってもこの体勢はやりやすいものではない。半歩後ずさりをするたびに、前足にかかる負荷は倍になるかと思うほど強くなり、体が半分ほど浮いたところで、もはや前足が震えはじめた。しかし、ここで崩れては逃亡など到底難しい、歯を食いしばって、少しずつ金網に後ろ足を掛けていった。
息を切らしながら、尻尾をしならせて、かんぬきを探る。考えてみると、金網の外から見れば尻を高く上げて振っているのだから無様な格好である。私だったら見たら笑うだろう。
そうして、頭を下にしていてぼうっとしたものだから、つい部屋の音を聞き逃したのだ。
「はは、お尻をぶりぶり振るのが趣味だなんて、知らなかったよ」
突然そんな声がしたものだから、私は前足を滑らせて、背中から地面へもんどり打ったのだった。
したたかに打った背中に息が詰まったが、それより驚いたのは声に聞き覚えがあったことである。体を起こして金網越しに見れば、相変わらずの魔窟にチュダイが一匹、鼻を上に向けて、すんすんと匂いを確かめていた。
「やっぱり、丈雲兄ちゃんだ」
満足げに鼻息をもらして、そのチュダイは首を元に戻し、檻に近づいてきた。あどけなさが残る鼻面、くるりんと丸まった尻尾、そして、とてとてと足音を殺そうともしない歩き方は、我が末弟、秤山氷雲に間違いなかった。
「氷雲! しばらくだな」
私は思わぬ来訪に驚いて、頓狂な声を上げてしまった。だが、今しがた恥ずかしい姿を見られたことをすぐに思い出した。兄の威厳が損なわれてはいけない。咳払いをすると、さも当然という風情を保って、私はもう一度逆立ちを始めた。そして、熱心に尻尾をかんぬきにかけられないか試していると、ついに後ろで氷雲が吹き出すのが聞こえた。
「に、兄ちゃん、お尻、お尻ぃ、ひっひひ」
私はこれを待っていた。今度はしなやかに後ろ足を下ろすと、檻越しに氷雲をしかとにらみつけ、一喝鳴き声を上げた。
「氷雲! 私は真面目に尻を持ち上げているのだ。理由も分からないお前が笑うな!」
笑い転げていた氷雲は、私の大声に驚いてあわてて縮こまった。
「ご、ごめんなさい、兄ちゃん」
「いいか、他鼠を笑うのは勝手だが、相手の事情も考えられないようでは一匹前のチュダイになれないぞ」
「はい、気をつけます」
氷雲はすっかりしょげかえった。なんとか兄として威厳は保てたようだった。私は声を和らげて、氷雲にもっと近くへ寄るよう声をかけた。
「改めて、久しいな。元気にやっていたか」
「うん。叔父さんも、亮雲兄ちゃんも元気。丈雲兄ちゃんの行方を気にかけて、早く帰ってきて欲しいっていってた。もちろん僕も心配してたんだよ。でも、まさか人間に捕まってるなんて。大丈夫? ひどいこと、されたりしてない?」
氷雲の目は、亮雲とは違って澄んでいた。清らかな声は薫風のようだった。あいつと違って、本当に気遣ってくれていることがすぐに分かった。
ああ、亮雲も氷雲も血を分けた弟であるが、いったいこの差はどこから生まれたのだろうか。しばし感傷に浸ったが、すぐに一つの疑問を抱いた。
「氷雲よ、お前も会議に出ていたなら、私がなぜ家を出たか知っているな。どうして叔父上や亮雲のいっていることをおかしいと思わないのだ」
もとより、私を帆河家へ婿にやるという、ふざけた決議に抗議するための逃避行である。封風叔父や亮雲が、早く捕まえたいというならまだしも、早く帰ってきて欲しいと心配する理由があろうか。
しかし、氷雲は目をぱちくりとしばたたかせて、小声でうなりながら首を傾げた。
「会議、最後まで聞いてなかったから分かんない」
「なんだと」
「だってさ、丈雲兄ちゃんは叶雨姉ちゃんたちとおしゃべりしてるし、亮雲兄ちゃんは偉そうにしてて怖かったし、つまんなかったから途中で抜け出して遊んでたんだもん」
だからよく分かんない、と悪びれない笑顔で宣う氷雲に、こちらが毒気を抜かれてしまう。おそらく亮雲も、この氷雲のあどけなさにほだされ、汚い事情は伝えていないのだろう。
だが、氷雲がなにも知らないでいることは、今秤山家に帰りたくない私にとっては好都合である。私は金網のすき間から前足を出すと、氷雲の頭を撫でてやった。
「氷雲、私は今、どうしても家に帰るわけにはいかないのだ」
私が困っている声を出したものだから、氷雲は心配そうに私を見上げた。
「それって人間に捕まってるから? そしたら亮雲兄ちゃんにいって助けに来てもらえば」
「いや、そうではない。今、亮雲は私を不幸にしようとしているのだ。あいつに捕まったら、もうお前と遊んでやることも出来なくなるのだよ」
そもそも、氷雲は亮雲よりも私になついている。その私が亮雲と敵対していると分かれば、氷雲は当然私の味方になってくれるはずだ。果たして、氷雲は愕然とした表情で私の前足にしがみついた。
「なんで? 前の会議でなんかあったの? 丈雲兄ちゃんがいなくなるのやだよ!」
今にも落涙しそうな氷雲を見て、こんな弟を持ってよかったと思った。同時に、少々事実を歪曲して、私に有利な風に伝えようと思っていた己の浅ましさを悔いた。これほどに清廉な弟を騙そうなどと、一瞬とて考えるべきではなかった。
「氷雲。以前の会議の内容をお前に説明してやろう。大切なことだから、よく聞きなさい」
話が終わると、氷雲はしばらく考えこんでいたが、やがて目を上げていった。
「よく分かんないけど、兄ちゃんはその、瀬穏姉ちゃんと話してみたくないの?」
氷雲は照れた様子で、姉ちゃん、と口にした。
私は驚いた。まだ幼い氷雲にとって少し複雑な話だったかもしれないが、彼にとって重要なことは、チュダイとヒイクの忌むべき混血ではなく、帆河瀬穏という血の繋がった姉がいたという、ただその一点だということか。
「おい氷雲!」
声を荒げたが、あくまで氷雲は純粋な疑問をその目に浮かべていた。あどけないというにはあまりに純潔な、曇りを晴らす目だった。私はたじろいで、継ぐ言葉を失った。
氷雲はその間にも、まだ見ぬ帆河瀬穏に対しての想像をたくましくしていた。
「あっ、でも僕より年上って決まったわけじゃないよね。そしたら瀬穏ちゃんかな。僕は姉ちゃんより妹がいいなぁ。でも丈雲兄ちゃんと結婚するんだから、やっぱり瀬穏姉ちゃんになるのかな」
「年の頃は亮雲と変わらないそうだ」
「へえ、じゃあ丈雲兄ちゃんより若いんだ。きれいな鼠なのかな」
「帆河家の者は美しいと吹聴したそうだ」
私は、封風叔父が会議でふがふがといっていたことを漫然と繰り返しながら、天真爛漫に瀬穏への興味を語る氷雲を見ていた。氷雲は昔から、我慢が出来なくてそわそわすると、くるりんとした尻尾がよりくるんと曲がるくせがあった。今の氷雲は、もはや尻尾が丸まるだけでは飽き足らないようで、その場でくるくると踊りはじめそうな勢いだった。
微笑ましい、と素直に思う。氷雲にとっては、チュダイだのヒイクだのということは、毛の先ほども関係ない。ただ、鼠と鼠の関係として今回の事件を捉えているだけだ。もしかすると、盤桜家に世話になった夜に由木彦がいいたかったことは、こういうことなのかもしれない。
「氷雲は、ヒイクについてどう思う」
私は、ついに回転し始めた氷雲に尋ねた。
「えっ、ヒイクなんて、一匹も会ったことないからよく分かんない。でも、チュダイとそう変わらないでしょ? 面白ければ笑って、ムカついたら怒るんじゃない?」
氷雲は息を切らしながら、私がいつか聞いたことのあるような台詞をいった。
私はしばらく黙っていたが、やがて瀬穏のことについて考えるのを止めた。考えると、頭が痛くなる。どうせこの檻から出られない限り、どうしようもない問題である。今頭を痛めても仕方がない。一つ身を震わせて、わずらわしいヒイクどものことを頭から追い出した。
今考えるべきは、檻のかんぬきをどうやって開けるかだ。
この部屋に氷雲がやってきたのは僥倖だった。内側から尻尾を伸ばすより、外からの方が断然開けやすいに違いない。私は氷雲に協力を仰ぎ、なんとかかんぬきを開けられないといろいろ指示を出した。
結果は、分かっていたが散々だった。氷雲はまだ幼く、私より体が小さい。私が逆立ちして尻尾がかんぬきに届かないのだから、氷雲がどうすればいいというのか。いたずらに飛び跳ねさせたり、檻によじ登らせようとしてみたりしてみたが、どうにもかんぬきには前足も尻尾も届かなかった。
そのうち、氷雲が肩で息をし始めたので、さすがにこれ以上続ける気も失せた。二匹で檻を挟んで背をつけて、意気消沈しながら横たわった。
「こうなったら、誰か他のチュダイを呼んでくるしかないかも」
息が整ってきた氷雲がいう。私も一つうなり声を上げて同意した。
「ただし、亮雲は駄目だ。亮雲だけでなく、お前以外の秤山家の者には知られたくない」
「どうして? 人に捕まったのを見られると恥ずかしいから?」
「それもあるが」
私は、いったい氷雲にどういえば、ヒイクと連れ合うことの厭わしさを伝えられるか悩んだ。氷雲には、ヒイクだから、という理由だけでは不十分だ。しかし、私にとってはそれだけで十分だったのだから、今さら他の理由を考えることが出来なかった。
「ともかく、秤山家の者は駄目だ。別の誰かを呼んできてくれまいか」
「わかった。亮雲兄ちゃんや叔父さんの知り合いじゃなくて、僕と一緒に来てくれそうなチュダイなんて思い当たらないけど、ちょっと考えてみる」
またね、といって、氷雲は走り出した。さっきまでへとへとだったのに、元気な奴だ。くるりんとした尻尾が袋の山の中に消えたのを見届けて、私は体を丸めて休むことにした。
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