12 / 21
第二章:カゲリ
恐怖心、決心、そして変心
しおりを挟む
もちろん、魔窟の出口など、私も檻の中にいるのだから分かりようがない。呆れかえって氷雲にそう伝えようとしたが、しかしこれは私にとっても大きな問題であることに気づいた。檻から抜け出しても、部屋から出られないのではどうしようもないではないか。
「まずいな。家主が帰ってきた時、お前がいたのではなかなかにまずい」
私がつぶやくと、氷雲は震えあがって金網にしがみついた。しかし、むしろ私としては、今の自分のつぶやきが一つの答えを導いたことに満足した。
「氷雲、少し耳を貸せ」
つまり、ヒカリがこの部屋に帰ってくるということは、ヒカリがこの部屋を出入りしているということである。ならば我々チュダイの使う出入り口がどこにあるのか分からなくなってしまっても、ヒカリが使う出入り口を使わせてもらえばよいのだ。幸い、私はヒカリが外出する時に向かう方を覚えていた。
私がそちらへ行ってみろと指示すると、氷雲は私の方を時々振り返りながらヒカリ用の出入り口へ向かった。しばらくして戻ってきた氷雲の表情は不安げであった。
「行き止まりだったよ。でもちょっとだけ外の空気の匂いがした」
「そこで正解だ。氷雲、それは行き止まりではなく、扉というものだ」
「トビラ?」
「出入り口をふさいでいる開閉出来る壁のことだ。この檻の戸と似たようなものだな。我々の力では開けられないが、家主が帰ってきた時を見計らってそこから飛び出せば、お前は外へ出られるはずだ」
私のいっていることが分かったのか分かってないのか、氷雲は難しい顔をしていたが、人間とすれ違うということを聞いて飛び上がった。
「待ってよ兄ちゃん、僕が人間の横を走るの? 出来ない、出来ない! 人に見つかったら殺されちゃうっていつも父ちゃんがいってたもん。怖いよ、怖い、怖いってば!」
「落ち着け、私は殺されていないだろう」
「でも母ちゃんは死んじゃった!」
氷雲が叫んだ。
母上は、氷雲がようやく乳離れした頃に亡くなっている。人間のせいだと父上から聞いている。傍若無鼠の我が父が唯一怖れたものがあるとすれば、それは人間だろう。
目を強くつぶってうずくまる氷雲にどんな言葉をかければよいのか、私は逡巡した。
氷雲は、母上のことをあまり覚えていない。乳の味も抱かれた時の温もりも、記憶としては曖昧だと聞いた。母上の優しい声やしとやかな仕草は、なおさら覚えていないだろう。
母は偉大な存在だった。
母はいつも父の三歩後ろを歩くねずみであった。それはつまり、父が起こした問題や、好きなだけ引っかき回して放り出した騒動や、収まりかけていたところに横やりを入れて以前よりも事を大きくした動乱の関係者に対して、謝り、なだめすかし、非難を一身に浴びながら許しを得て、父を守り、家族を守り、秤山家を守った鼠ということである。その献身と滅私の精神は関東チュダイの中でも尊敬を集めていて、秤山家が首の皮一枚で家名を保ち続けたのには、母への篤い信頼が大きく功を奏していた。
それが、あっけなく亡くなったとあって、その衝撃は家族のみならず、全関東にあまねく広がった。野放図で自分勝手たる我が父、秤山封雲でさえ落ち込んだという衝撃も、全関東にあまねく広がった。
しかし、封雲はしばらく落ち込んでいたと思ったら、ほとぼりも冷めきらぬ間に、以前よりもはるかにハチャメチャな振る舞いをし始めて、それはひどいものだった。関東チュダイの誰しもが、母は父の最後の手綱を握っていたのだと改めて知った。
私がそんな父に付き合いきれるわけもなく、面倒事は封風叔父に全て押しつけ、まだ幼かった亮雲と氷雲の世話をしながら、時たま父が陽気に家に帰るのを疎ましく思っていた。氷雲が、初めのうち父を「封雲おじさん」と呼んでいたほど、家に帰ることは少なかった。
だから、氷雲は両親というものにそれほど情を抱いていないとばかり思っていた。
氷雲は、そのくるりんとした尻尾をぷるぷると震わせながら、私の方をちらりとも見ないで、前足で耳のあたりを押さえて突っ伏している。幼い頃からよくやる仕草で、こうなると落ち着くまではなにをいっても聞こえなくなってしまう。仕方がないので、檻のすき間から尻尾を伸ばし、せめてもの慰みとして背をさすってやった。
やがて、尻尾がきゅっとつかまれたので振り返ると、氷雲はおどおどと地面に目を這わせていた。
「ねずみにチュダイとヒイクがいるように、チュダイにも秤山と盤桜がいるように、人間にもいろいろいる。私を捕まえたヒカリという人間は、私にサラミを与えてくれる。氷雲よ、お前は、お前自身で人間を知らないから怖いのだ」
私は氷雲にある提案をした。尻尾をつかむ氷雲の前足に力がこもった。
つまり、私は氷雲とヒカリを引き合わせたかったのだ。
人間へ恐怖心を抱いていては、氷雲のこれからのチュダイ鼠生にかかわる。今は何とかなるとしても、氷雲が家族を持つ頃になれば、いつも留守宅だけに忍び込めるとも限らない。その時になって、人間のいるところからは食べ物を頂戴できないとなったら、まだ見ぬ義理の妹や甥姪は飢えてしまうだろう。そんなことを良しとする私ではない。
だがもちろん、直接出会わせるには、氷雲にも、ヒカリにも心の準備が足りなすぎる。まずは氷雲にこの部屋に隠れていてもらって、ヒカリが私の世話をするところを見守ってもらうわけだ。そして、ヒカリがチュダイを殺す人間ではないこと、人間とねずみでも心を通じ合わせられることを見て、少しでも人間への認識を改めるようにと氷雲にいい含めた。
氷雲はまだ恐怖に引きつった顔をしていたが、私が自信満々に振る舞っているのを見て少しは落ち着いた様子だった。私の提案を聞いて、もし見つかったらどうしようと目を泳がせていたが、この魔窟にいる以上隠れる場所だけは充分にあると私がいったのには納得をしていた。それでも、決心を固めたのは窓から差す光があかね色になってきた頃だった。
「そもそも、人間を怖がってちゃ、ここから出られる見込みがないもんね」
少しやけっぱちな声音でもあったが、氷雲は気合を入れて自分にいい聞かせていた。
そうしているうちに、ヒカリがいつ帰ってもおかしくない時間になっていたので、私は氷雲に隠れるよう促した。そして、氷雲が檻の近くの袋の山に頭を突っ込んで満足したのを見て、わざと大声で笑った。
「氷雲、お尻、お尻ぃ、ひっひひ」
頭隠して尻尾隠さずとはこのことだ、と諭して、仕返しも済んだところで、改めてちゃんと隠れさせると、まるでそれを待っていたかのように扉がガシャコンと鳴った。
ヒカリの帰宅である。
改めて氷雲に静かにするよう警告の鳴き声を上げて、それからヒカリの足音に耳を澄ませた。いつもよりも足音が大きく、慌てているように思えたからだ。もしかして、氷雲の尻尾を見られていやしないか。ひやりと悪寒が走ったが、部屋に飛び込んできたヒカリは、氷雲の隠れた袋の山に見向きもしないで、まっすぐ私の檻の前に来てしゃがみこんだ。
「カゲリ! 聞いてよ! シュンタロウが、シュンタロウが私とより戻したいんだって!」
満面の笑みである。
「やっぱり、私のことが忘れられないんだって! やった! やった! えっへへへ!」
「まずいな。家主が帰ってきた時、お前がいたのではなかなかにまずい」
私がつぶやくと、氷雲は震えあがって金網にしがみついた。しかし、むしろ私としては、今の自分のつぶやきが一つの答えを導いたことに満足した。
「氷雲、少し耳を貸せ」
つまり、ヒカリがこの部屋に帰ってくるということは、ヒカリがこの部屋を出入りしているということである。ならば我々チュダイの使う出入り口がどこにあるのか分からなくなってしまっても、ヒカリが使う出入り口を使わせてもらえばよいのだ。幸い、私はヒカリが外出する時に向かう方を覚えていた。
私がそちらへ行ってみろと指示すると、氷雲は私の方を時々振り返りながらヒカリ用の出入り口へ向かった。しばらくして戻ってきた氷雲の表情は不安げであった。
「行き止まりだったよ。でもちょっとだけ外の空気の匂いがした」
「そこで正解だ。氷雲、それは行き止まりではなく、扉というものだ」
「トビラ?」
「出入り口をふさいでいる開閉出来る壁のことだ。この檻の戸と似たようなものだな。我々の力では開けられないが、家主が帰ってきた時を見計らってそこから飛び出せば、お前は外へ出られるはずだ」
私のいっていることが分かったのか分かってないのか、氷雲は難しい顔をしていたが、人間とすれ違うということを聞いて飛び上がった。
「待ってよ兄ちゃん、僕が人間の横を走るの? 出来ない、出来ない! 人に見つかったら殺されちゃうっていつも父ちゃんがいってたもん。怖いよ、怖い、怖いってば!」
「落ち着け、私は殺されていないだろう」
「でも母ちゃんは死んじゃった!」
氷雲が叫んだ。
母上は、氷雲がようやく乳離れした頃に亡くなっている。人間のせいだと父上から聞いている。傍若無鼠の我が父が唯一怖れたものがあるとすれば、それは人間だろう。
目を強くつぶってうずくまる氷雲にどんな言葉をかければよいのか、私は逡巡した。
氷雲は、母上のことをあまり覚えていない。乳の味も抱かれた時の温もりも、記憶としては曖昧だと聞いた。母上の優しい声やしとやかな仕草は、なおさら覚えていないだろう。
母は偉大な存在だった。
母はいつも父の三歩後ろを歩くねずみであった。それはつまり、父が起こした問題や、好きなだけ引っかき回して放り出した騒動や、収まりかけていたところに横やりを入れて以前よりも事を大きくした動乱の関係者に対して、謝り、なだめすかし、非難を一身に浴びながら許しを得て、父を守り、家族を守り、秤山家を守った鼠ということである。その献身と滅私の精神は関東チュダイの中でも尊敬を集めていて、秤山家が首の皮一枚で家名を保ち続けたのには、母への篤い信頼が大きく功を奏していた。
それが、あっけなく亡くなったとあって、その衝撃は家族のみならず、全関東にあまねく広がった。野放図で自分勝手たる我が父、秤山封雲でさえ落ち込んだという衝撃も、全関東にあまねく広がった。
しかし、封雲はしばらく落ち込んでいたと思ったら、ほとぼりも冷めきらぬ間に、以前よりもはるかにハチャメチャな振る舞いをし始めて、それはひどいものだった。関東チュダイの誰しもが、母は父の最後の手綱を握っていたのだと改めて知った。
私がそんな父に付き合いきれるわけもなく、面倒事は封風叔父に全て押しつけ、まだ幼かった亮雲と氷雲の世話をしながら、時たま父が陽気に家に帰るのを疎ましく思っていた。氷雲が、初めのうち父を「封雲おじさん」と呼んでいたほど、家に帰ることは少なかった。
だから、氷雲は両親というものにそれほど情を抱いていないとばかり思っていた。
氷雲は、そのくるりんとした尻尾をぷるぷると震わせながら、私の方をちらりとも見ないで、前足で耳のあたりを押さえて突っ伏している。幼い頃からよくやる仕草で、こうなると落ち着くまではなにをいっても聞こえなくなってしまう。仕方がないので、檻のすき間から尻尾を伸ばし、せめてもの慰みとして背をさすってやった。
やがて、尻尾がきゅっとつかまれたので振り返ると、氷雲はおどおどと地面に目を這わせていた。
「ねずみにチュダイとヒイクがいるように、チュダイにも秤山と盤桜がいるように、人間にもいろいろいる。私を捕まえたヒカリという人間は、私にサラミを与えてくれる。氷雲よ、お前は、お前自身で人間を知らないから怖いのだ」
私は氷雲にある提案をした。尻尾をつかむ氷雲の前足に力がこもった。
つまり、私は氷雲とヒカリを引き合わせたかったのだ。
人間へ恐怖心を抱いていては、氷雲のこれからのチュダイ鼠生にかかわる。今は何とかなるとしても、氷雲が家族を持つ頃になれば、いつも留守宅だけに忍び込めるとも限らない。その時になって、人間のいるところからは食べ物を頂戴できないとなったら、まだ見ぬ義理の妹や甥姪は飢えてしまうだろう。そんなことを良しとする私ではない。
だがもちろん、直接出会わせるには、氷雲にも、ヒカリにも心の準備が足りなすぎる。まずは氷雲にこの部屋に隠れていてもらって、ヒカリが私の世話をするところを見守ってもらうわけだ。そして、ヒカリがチュダイを殺す人間ではないこと、人間とねずみでも心を通じ合わせられることを見て、少しでも人間への認識を改めるようにと氷雲にいい含めた。
氷雲はまだ恐怖に引きつった顔をしていたが、私が自信満々に振る舞っているのを見て少しは落ち着いた様子だった。私の提案を聞いて、もし見つかったらどうしようと目を泳がせていたが、この魔窟にいる以上隠れる場所だけは充分にあると私がいったのには納得をしていた。それでも、決心を固めたのは窓から差す光があかね色になってきた頃だった。
「そもそも、人間を怖がってちゃ、ここから出られる見込みがないもんね」
少しやけっぱちな声音でもあったが、氷雲は気合を入れて自分にいい聞かせていた。
そうしているうちに、ヒカリがいつ帰ってもおかしくない時間になっていたので、私は氷雲に隠れるよう促した。そして、氷雲が檻の近くの袋の山に頭を突っ込んで満足したのを見て、わざと大声で笑った。
「氷雲、お尻、お尻ぃ、ひっひひ」
頭隠して尻尾隠さずとはこのことだ、と諭して、仕返しも済んだところで、改めてちゃんと隠れさせると、まるでそれを待っていたかのように扉がガシャコンと鳴った。
ヒカリの帰宅である。
改めて氷雲に静かにするよう警告の鳴き声を上げて、それからヒカリの足音に耳を澄ませた。いつもよりも足音が大きく、慌てているように思えたからだ。もしかして、氷雲の尻尾を見られていやしないか。ひやりと悪寒が走ったが、部屋に飛び込んできたヒカリは、氷雲の隠れた袋の山に見向きもしないで、まっすぐ私の檻の前に来てしゃがみこんだ。
「カゲリ! 聞いてよ! シュンタロウが、シュンタロウが私とより戻したいんだって!」
満面の笑みである。
「やっぱり、私のことが忘れられないんだって! やった! やった! えっへへへ!」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる