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 仏典を読み進めるにつれ、優菜は仏教にもいろいろな考え方があることを知った。法然や親鸞のように、「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば救われる」と説く宗派もあれば、禅宗のように厳しい修行を課す宗派もある。実際、高校の日本史では、宗派ごとに創始者と本山を全て覚えさせられるぐらい、仏教には多種多様な考え方があるのだ。
 でも、わからないのは、厳しい修行を課す宗派と課さない宗派と、どちらが正しいかということだ。
「坂口尚『あっかんべェ一休』では、一休さんが悟りを開いた後で、『一休の修行とは、遊女屋通いと酒盛りだ』と主張して、既存の仏教の権威を徹底的に破壊したんだよね。でも、一休さん自身は、禅宗の厳しい修行で悟りを開いたわけだし……。もう、訳わかんないや。一つだけわかるのは、一休さんや親鸞などの名僧は既存の権威に縛られないってことかな」
 それを優斗に話すと、優斗は、「なるほど。面白いところに目をつけたな」と興味深そうにつぶやいた。
「ブッダは、餓死する寸前まで自分の肉体をいじめ抜いたが、それだけでは悟りを開けなかったので、蜂蜜入りの乳がゆを飲んだ。それに対し、ジャイナ教の教祖であるニガンタ・ナータプッタは、あくまで精神を善、肉体を悪とすることで、『餓死した者は勝者だ』と最後まで言い続けた。この場合、ブッダとニガンタ・ナータプッタとどこが違うと思う?」
「……う~ん……ブッダのほうが、まともな人間かな。ニガンタ・ナータプッタのほうは、弟子を餓死させて平気でいるなんて、狂人だわ」
「その通り。ブッダは、快楽に流されるのも悪いが、苦しみすぎるのも悪いと言った。仏教が人間を大切にする宗教だと言われている所以さ。もっとも、日本の仏教の坊主どもは、世俗の欲だらけの輩も多いけどな。だから、日本では無宗教の若者が多いんだけどさ」
 優斗は苦笑いする。優菜は好奇心から尋ねてみた。
「なら、お兄ちゃんは仏教を信じるほう?」
「それに関しては、自分でも信じているかどうか、よくわからないんだ。教義を知りたいという好奇心はあるが、仏教を名乗る新興宗教には、死んでも入信したくないしな。それでも、死んだら地獄に堕ちたくないから、善行を積もうとする。人間ってのは、よくわからない生き物だと痛感するよ。それで、ここからが本題だが、優菜の今回の小説のお題は、これにしよう。快楽に流されず、苦しみすぎない修行とは何か、だな」
「え~……。難しそう」
「小説のお題は、難しいぐらいで、ちょうど良いんだ。そうでないと、成長できないからな」
 優菜は数日にわたって考えてみたが、うまく考えがまとまらなかった。
「日本軍では、『先輩が新入りの兵士をいじめるのは、自分が新入りだった頃にいじめられたから』と書かれてるけど……。これを小説にするとなると、私には難しいな。私自身はいじめられた経験がないから、漫画から実態を知るぐらいしかできないし……」
 考えに詰まってしまった優菜は、優斗に相談に行った。
「なるほど。いじめられたから、他人に同じことをするか……。良いところに気がついたな。実は、同じことが独裁者にも当てはまるんだ。優菜は、イラクのフセイン大統領が、貧しい階層の出身だってことは知っているか?」
「ええっ? あの贅沢三昧のフセインが、貧乏人の出身ですって? 貧乏人なら、貧乏人の気持ちがわかるから、貧乏人のための政策を行えるようになるって、『十二国記』にも書いているのに、意外だわ」
「そこが問題なんだよ。貧乏人として虐げられてきた者なら、出世した後に、自分がされたことを他人にもしたがるものさ。手塚治虫『きりひと讃歌』には、そういう金持ちの話が出てくる」
 優菜は、よくわからないという顔で、考えこんでしまう。
「わからないのも無理はない。愛情に包まれて育った者には、愛情に飢えている者の気持ちは、なかなかわからないからな。ドストエフスキーが、『満腹な者に、飢えた者の気持ちはわからない。でも、飢えた者にも、飢えた者の気持ちはわからない』と書いているぐらいだしな。優菜は、この言葉の意味を考えながら、書いてみよう」
 優菜はまたもや、三日ほど考えこんでしまった。こうなると、以前に読んだ、外国の人の歩き方を真似しようとして、自分の歩き方を忘れてしまった人よろしく、自分の書きたかった小説が何なのか、わからなくなってくる。正直、話を考えるのが苦痛なぐらいだ。
 仕方ないので、他の漫画や小説を読んでみる。ネタを思いつかないときは、無理に書こうとするのではなく、いったん離れることも大事だと、優菜は知っているのだ。とりあえず思想から離れて、三国志でも読んでみようと、インターネットで三国志関係の記事を見て回る。優菜ぐらいの年齢で、三国志を小説でまるまる読むには長すぎるので、インターネットで要点だけ掴もうとしたのだ。
 諸葛亮が、魏の陳倉城を攻めあぐねていた際に、部下の「陳倉城を包囲したまま放っておいて先に進んでは?」という助言で、陳倉城にこだわりすぎていたと悟った話。劉備が死んだ直後に魏軍が五方向から蜀に侵攻した際に、諸葛亮は動揺を見せないために数日間にわたって宮中に出仕せず、名案を思いついてから出仕して魏軍を撃退した話。魏の皇帝即位に対し、劉備が即位をためらっていると、「今、あなたが即位しなければ、魏の皇帝の即位を認めることになる」と言って即位を促したこと。それらを元にして考えてみた。
(目先のことにこだわりすぎない『離』という考えも大事だけど、ここぞというときに動揺しなかったり、敵の思い上がりにもきちんと対応してるあたりは、さすがだな)
 諸葛亮にヒントを得た優菜は、ようやく書き始めた。
「あるところに、中沢くんという男の子がいました。中沢くんは高校野球部の一年生でしたが、エラーするごとに、先輩に体罰を受けていました。親もそのことを知っていましたが、『子供の成長のために必要だ。肉体をいじめ抜いてこそ、精神的に成長できる』として黙認していて、退部も許しませんでした。中沢くんはただ耐えるしかなく、数ヵ月もすると、だんだん暗い子になっていきました。同級生や他の部員たちは、中沢くんの窮状に無関心でしたが、同級生の山下くんだけは、何とかしたいと思っていました。山下くんは野球部の先輩たちに『中沢くんをいじめないでください』と交渉しに行きました。でも、無為無策で野球部に交渉しに行っても、満足のいく結果が得られるはずがありません。『部外者はすっこんどれ!』と部室から追い出され、今度は山下くんまでが野球部の先輩にいじめられるようになりました。先生たちにも訴えましたが、野球部出身のOB会の発言力が強く、気弱な管理職はOB会に迎合していたので、梨のつぶてでした。これでは自分までが精神を病んでしまうと思った山下くんは、勇気を出して両親に学校でのことを相談し、『妙案を思いつくまで学校を休ませてほしい』と頼みました。最初は驚いていた両親でしたが、山下くんの決意が固いことを知ると、『わかった。おまえの思う通りにやってみろ』と了承しました。山下くんはまず、野球部の先輩たちの切り崩しを図りました。SNSを使い、『うちの高校の野球部は、一年生をいじめているから、そのうち大会に出場できなくなる』といううわさを流したのです。最初は、うわさに惑わされる上級生やOBはいませんでした。特にOBは、『どうせ、デマだ』と言って、とりあいませんでした。もちろん、山下くんも、その程度のことは予想済みです。次はネットカフェで複数のフリーメールアドレスを作り、あたかも大勢の人がうわさを流しているように見せかけました。同時に、野球部の先輩たちをひそかに尾行しました。先輩たちは、校内では模範的に振る舞っていますが、校外ではひそかにタバコを吸ったり、ビールを飲んだりするなど、高校生にあるまじきことをいくつもやっていました。山下くんはひそかにスマホで隠し撮りし、あらかじめ作ってあった複数のフリーメールアドレスで、野球部やOB会のアドレスに画像を送りつけました。これで青くなったのは先輩たちです。OBたちからは、『我が校の恥だ。自己批判せぇ』と詰め寄られるし、先生方の信用も失いました。山下くんは、『この画像を高野連に送りつけられたくなかったら、中沢くんに謝罪せよ』とメールしました。ついでに、イジメの再発防止のために、『なぜ中沢くんをいじめたのか?』とメールで尋ねました。先輩たちは、自分の立場だけが悪くなるのを避けたいのか、『俺らだって、一年生の頃は、先輩たちに同じことをされてきたからだ』と答えました。山下くんは、この問題を匿名で校内に拡散し、議論を促しました。全校生徒が議論に参加し、野球部の内情もずいぶん知られるようになりました。こうして、先輩たちは中沢くんに謝罪し、イジメをやめたことで、野球部内の雰囲気もずいぶん良くなりました」
 書き終えたとき、優菜は心身ともに消耗していた。
「これが文章を書くための、産みの苦しみってやつなのかな。作家って、毎回、こんな苦しい思いをして、話を考えているんだ……」
 優菜は早速、優斗に見せに行った。
「優菜も今回は苦しんだみたいだな。数日かけただけに、少しは成長の跡が見えるぞ。まだまだ甘いところはあるけどな。例えば、先輩たちを尾行して悪事の画像を撮るあたりが、あっさりしすぎている。普通は、後輩に簡単に追跡されないように、もっと警戒しているはずさ」
 優菜はハッとした。言われてみれば、確かにその点は詰めが甘かった。
「でも、高校生でもないのに、よく高校野球部を舞台にした話を書けたもんだ。これは誇って良いぞ」
「エヘヘ……。まあ、インターネットや漫画の受け売りだけどさ。でも、それらを参考にしても、書くのに苦労したよ」
「まあ、この後、数日は脳を休ませないとな。いったん小説から離れることだ。でないと、話のネタを思いつけなくなるからな。その間は、他の漫画や小説を読むなり、どこかへ出かけるなりしてみよう」
 こうして、優菜は数日、近所の商店街をブラブラ歩いて過ごした。その間に、脳は活性化して、再び書く意欲がみなぎってきた。
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