若輩当主と、ひよっこ令嬢

たつみ

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彼女と彼は 2

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 目の前が、真っ赤に染まる。
 彼の薄茶色の髪は、生温かいもので、ぐっしょりと濡れていた。
 
 血だ。
 
 滴り落ちてきたそれが、目に入っている。
 本来、異物が入ってくれば、違和感を覚えたり、痛みを伴ったりするものだが、今は、なにも感じない。
 目の前が、赤い、ということしか認識できずにいる。
 
 チッという舌打ちが聞こえ、魔術師の気配が消えた。
 感じていても、彼の思考は、ひとつの場所にだけ向けられている。
 
 赤い視界の中に、小さな体が、うつ伏せに倒れていた。
 身動きひとつしない。
 背中には、血溜まりができている。
 今は消えてしまったが、そこには矢が突き立っていたのだ。
 
 光の矢が。
 
 彼の視界が、赤く赤く染まっていく。
 彼自身も、あちこちに光の矢を受けていた。
 肩や胸、腹からも血が流れている。
 だが、この髪を滴り落ちる血は、彼のものではない。
 
「……お、お嬢……さ、ま……」
 
 微かな声で呼びかけても、小さな体は反応を示さなかった。
 背中にある血溜まりが広がるばかりだ。
 彼女は、動かない。
 彼の言葉にも無反応で、横たわっている。
 
 あの小さな体で、自分を守ろうとしたのだ。
 
 彼の目から赤い涙がこぼれ落ちた。
 彼女と過ごした日々が、自然と頭に浮かぶ。
 
 産まれたばかりの、今より小さな体を腕に抱いた時、彼女は彼の指を握った。
 最初は、彼の顔を見ているだけだったのが、いつしか笑うようになった。
 怖い夢を見た時も転んで怪我をした時も、泣くより先に彼女は彼の名を呼んだ。
 まるで、彼さえいれば、どんなことからも守られる、と信じているかのように。
 
 嬉しいこと、楽しいこと、恥ずかしいこと。
 彼女は、なんでも彼に打ち明ける。
 まるで、隠すことや嘘をつくことを知らないみたいに。
 
 その彼女が、倒れていた。
 顔を上げることすらせず、動かずにいる。
 彼の名も呼ばない。
 
 とても、とても、静かだった。
 
 彼の目は、赤く染まっている。
 赤い涙は、あふれ続けていた。
 彼は、自分の無力さを呪う。
 
(私に力がないせいで……お嬢様を守れず……)
 
 逆に、彼女は、彼を守ろうとした。
 そして、動かなくなったのだ。
 せめて抱き起こしたかったが、体が動かない。
 そのせいで、さらに無力感が募る。
 
 彼女は十歳だった。
 たったの十年しか生きていない。
 この先、様々な経験をして、大人になる未来があったのだ。
 そんな彼女のそばに、ずっと寄り添っていくつもりでいた。
 だが、未来は断ち切られようとしている。
 
 自分の死に、こだわりなどない。
 彼女を守れさえすればよかった。
 自分にもっと力があれば、彼女を守れたのだ。
 中途半端な自分を呪う。
 
「これはまた、大変なことになっているねえ」
 
 赤い視界の中に、ぼんやりと人影が見えた。
 とどめを刺しに来たのか、死を確認しに来たのか。
 いずれにせよ、彼にできることはない。
 その彼の前に、人影がしゃがみこんでくる。
 
 ぞわり、と背筋が冷たくなった。
 死にかけていて、命など惜しくもないのに、本能的な恐怖に体を貫かれている。
 
「助けてほしいかい?」
 
 その言葉が、本能を押しのけた。
 恐怖を弾き返し、すがりつく。
 
「お、お嬢……さ……ま……」
 
 人影が、ほんの少し動いた。
 しゃがみこんだまま、振り返っているようだ。
 
「彼女を助けてほしいのかね?」
 
 残っているわずかな力を使い、小さくうなずく。
 ほんの少しでも可能性があるのなら、彼女を助けてほしかった。
 とても釣り合うとは思えなかったが、自分の命と引き換えにしてもかまわない。
 
 彼女は、彼のすべてなのだ。
 
 赤く濁った視界に映る人影に、必死で訴えかける。
 彼女を生かしてほしい、と。
 そのためならどんなことでもする、と。
 
「彼女を助けてもいいが、その代わり、きみは、大きな代償を支払うことになる。とても大きな代償だ。それでもいいのだね?」
 
 代償など、どうでもよかった。
 自分が支払えるものなら、なんでも差し出す。
 彼は、もう1度、うなずいた。
 
「いいだろう。まずは、きみに力を与える」
 
 彼の体が、緑色のもやにつつまれる。
 同時に、ぶわっと、なにかが体の中に入ってきた。
 体が内側から破裂するのではないかというほどの衝撃を感じる。
 加えて、腹の中を掻き回されるような怖気おぞけに襲われた。
 
 彼は、地面をのたうち回る。
 さっきまで身動きもできなかったはずの体が打ち上げられた魚のように跳ねた。
 呼吸も満足にできず、意識を失いかける。
 が、ふっと、唐突に、すべての苦痛が融けた。
 
 初めて知る感覚に戸惑いながらも、彼は地面を滑るようにして彼女に駆け寄る。
 すぐさま、小さな体を抱き上げた。
 まだぬくもりが体に残っている。
 彼女を救うことしか考えられなかった。
 
「説明せずにすんで、なによりだ」
 
 元々、彼は、小さな傷くらいなら癒す力を持っている。
 ただ、大きな治癒の魔術を発動できるほどの魔力はなかった。
 彼女に頼まれ、死にかけている小鳥を癒そうとしたが、できなかったのだ。
 けれど、今、彼の身のうちには、必要なだけの魔力が溢れている。
 
「お嬢様……っ……」
 
 彼の体から緑色の光が放たれ、彼女をつつみこんだ。
 背中は濡れていたが、傷が塞がっていくのを感じる。
 だんだんに呼吸も力強いものに戻っていった。
 
「この子が16になったら、妻にする」
 
 言葉に、ハッとして人影を振り仰ぐ。
 月を背にして立っているのに、顔も表情もよく見えない。
 
「そして、きみは私の元に来る。いいね?」
 
 ひどく静かで、穏やかな口調だった。
 なのに、とてつもない冷酷さを感じる。
 それでも、代償は支払わなければならない。
 
 彼女は、彼の腕の中で、安らかな寝息を立てていた。
 そっと、彼女の体を近くの木まで運び、もたれかけさせる。
 そもそも狙われていたのは、彼だったのだ。
 彼女の命が奪われることはないだろう。
 
「では、行こうか」
 
 彼は、1度だけ彼女のほうを振り向いた。
 彼女の幸せだけを願う。
 それから、自分の前に立つ人影の前にひざまいて言った。
 
「かしこまりました、我が君」
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