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素足の庭で 4
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3日ほど前のことが、まだ忘れられずにいる。
ジョバンニに抱きかかえられ、部屋まで帰ってきた時のことだ。
なんだか懐かしいような気がした。
そして、ものすごく安心したのと同時に、嬉しくなったのを覚えている。
公爵も優しくて、アシュリーを大事にしてくれていた。
なのに、公爵に甘えたいと思ったことはない。
爵位によるものではないと、うっすら感じている。
公爵と、互いに愛称で呼び合うのも慣れてきていた。
距離感というほどの距離は感じなくなっている。
見た目にだって、素敵だなぁと思うことも、少なくない。
それでも、なにかがジョバンニとは決定的に異なっていた。
なにが、というのは、アシュリーにもわからないのだけれども。
気がつくと、いつもジョバンニのことを考えている。
というより、ジョバンニのことばかり考えている。
たいていは一緒にいるのだが、傍にいないと、そわそわしてしまう。
ジョバンニは執事なので、本来的には、始終、アシュリーの世話をする立場ではなく、ほかの仕事でも忙しいのだ。
アドラント、王都と、2つの屋敷の取りまとめ役をしているのだから、むしろ、アシュリーのために時間を割いていること自体が異例と言える。
ジョバンニは「遠慮せず」と言っていたが、本当は遠慮すべきだろうか。
彼は、アシュリーが呼べば、忙しくても来てくれるに違いないのだ。
ほかの仕事は大丈夫なのだろうかと、心配になる。
そうでなくとも、彼がいつ眠っているのか、アシュリーは気にしていた。
アシュリーが、サマンサと中庭で会ったのは深夜だ。
夢見が悪く、たまたま起きたに過ぎない。
ジョバンニも眠っていると思ったからこそ、声をかけずにいた。
だが、彼は、アシュリーの元に駆けつけている。
しかも、アシュリーが寝つくまで傍にいてくれた。
かなり遅い時間になっていたはずだ。
「ねえ、リビー。ジョバンニって、ちゃんと眠っているのかしら?」
昼食後、アシュリーは、リビーに着替えを手伝ってもらっている。
ひと月半以上も屋敷の敷地内から、彼女は外に出ていない。
そろそろアドラントの街に出てはどうかと、少し前から公爵に勧められていたのだ。
アシュリーは、その提案に、すっかり乗り気になっている。
早速、街に出ることにした。
そのための着替えだ。
華美になり過ぎず、質素に過ぎず。
リビーは、ひとしきりドレス選びに時間をかけている。
街で目立たない程度、さりとて侮られることもない上品なドレスだった。
とはいえ、街は屋敷とは違い、外気に温度調節がなされていない。
暑さも加味して、肌は透けないものの、風通しのいい素材が選ばれている。
「ジョバンニは、あまり睡眠を必要としないそうですよ? 魔術師は、得てして、そういうものらしいのです。旦那様も、あまりお休みになられないようですし」
「魔術師って、私たちとは、いろいろと違うのね」
「そうみたいです。魔力があると、なにかと体質が変わるのかもしれません」
魔力を持たないアシュリーには、それがどういう感覚なのか、想像できない。
眠らなくても、食べなくても、平気だなんて。
(私は、お腹がいっぱになると眠くなるし、お腹がすいても、1度に、たくさんは食べられないから、またすぐにお腹がすくし……お菓子も果物も好き)
こういうところが、子供なのだろうか。
それとも、魔術師でなければ、これがあたり前なのだろうか。
「リビーは、ちゃんとお腹がすいたり、眠くなったりする?」
「私は寝ますね。お腹もすきますよ。旦那様とジョバンニが特殊なだけです」
「魔術師って不思議ね。いろんなことが、パッとできるでしょう?」
「姫様、それも、旦那様とジョバンニが特殊なので、誰でもが同じだとは思わないほうがよろしいかと」
「そうなの?」
リビーが、髪を結い上げてくれている。
外は暑いので、おろしていると首元が「蒸れる」のだそうだ。
確かに、上げているほうが、すっきりする。
「数は少ないですが、アドラントにも魔術師がいくらかはいます。ですが、それほど大きな力は持っていないらしいですよ」
「アドラントにも魔術師がいるなんて知らなかったわ」
アドラントは、元は別の国だった。
そのため、魔術師はいないはずなのだ。
領民は、元アドラント国民であり、ロズウェルドの者ではないので、魔術師には成り得ない。
と、アシュリーは知識上、そう思っていた。
「ここ数年、ロズウェルドの者と婚姻するアドラント領民が増えているのです。どういう理屈かはわかりませんけど、中には魔力顕現する子もいるのだとか。そういう子は、ロズウェルドの王宮で魔術師となることもできると聞いています」
「魔術師になってから、アドラントに戻ってくるの?」
「中には、そういう者もいますね。アドラント王族の護衛のためとか」
ふぅんと、アシュリーはうなずく。
魔術師のことを、本当に自分は知らないのだな、と思った。
だが、ジョバンニは魔術師なのだ。
魔術師のこと、というより、ジョバンニのことを、もっと知りたいと思う。
「今日のお出かけは、ジョバンニとリビーも、一緒なのよね?」
「さようにございます、姫様」
「リビーは、街にはよく行く?」
「勤め始めた頃は街を知るために、買い出しなどに出かけていましたね。ですが、ジョバンニのほうが、詳しいでしょうから」
アシュリーの気持ちが高揚しているのは、外出だけが理由ではない。
ジョバンニが一緒だからだ。
彼に案内され、街歩きをすると思うと、うきうきしてくる。
(ヘンリーは、王都の街にさえ連れて行ってくれなかったものね)
夜会で会ったハインリヒを思い出し、背筋がゾクッとした。
ジョバンニが助けてくれなければ「酷いこと」になっていた気がする。
あの日、アシュリーは必死で、ハインリヒに抵抗しようとした。
4年間、穏便にすませることだけを考えて、口ごたえせず、傍若無人な従兄弟に合わせてきたのに、あの時ばかりは、うなずくことができなかったのだ。
「準備が整いましたよ、姫様」
ぽふんとかぶった、小ぶりな帽子が気に入る。
ボンネットと呼ばれる令嬢定番の帽子とは違うデザインだった。
顔を覆う造りではないため、心もとなさはある。
けれど、軽くて、とても涼しげだ。
「立ち寄り先は、ジョバンニが決めていると思いますので、ご安心くださいませ。ただ、姫様が行きたいと思われる場所や店があれば、教えてくださいね」
「わかったわ。初めてだから、たぶん、お任せになると思うけれど」
「王都の街とは、また違った風情がありますよ」
アシュリーは、王都の街にも行ったことがないとは恥ずかしくて言えなかった。
曖昧に笑みを浮かべながら、うなずいてみせる。
彼女は、まだ消極的な自分から抜け出し切れていないのだ。
ともすると、相手に合わせようとしてしまう。
ハインリヒによる刷り込みが根深く残っていた。
リビーと2人で部屋から出て、階下に向かう。
玄関ホールには、すでにジョバンニが待っていた。
姿を見るだけで、どきどきする。
今日のジョバンニは執事服ではなかった。
「ジョバンニ、ずいぶんと気合いが入っているみたいですね」
リビーに言われても、ジョバンニは、いつものように穏やかに微笑んでいる。
サマンサと話していた時のような雰囲気は感じられない。
「今日は護衛も兼ねているのでね。執事服では護衛騎士に見えないだろう?」
ジョバンニが来ているのは、王宮の近衛騎士が着ているものとは似ていない。
立ち襟の黒い上着の前裾を濃い灰色の腰当てで押さえ、その上を何本かのベルトで締めている。
ベルトの1本は太く、そこに短い剣を下げていた。
(ジョバンニは魔術師なのに、剣を使うの?)
そういえば、ハインリヒに「剣士の称号」を持っていると言っていた気がする。
いつもの執事服も落ち着いていていいのだが、騎士服も似合うと思った。
のだけれども。
「なんでも出来過ぎる男性は、面白味がないですよ」
リビーには不評だったらしい。
ジョバンニに抱きかかえられ、部屋まで帰ってきた時のことだ。
なんだか懐かしいような気がした。
そして、ものすごく安心したのと同時に、嬉しくなったのを覚えている。
公爵も優しくて、アシュリーを大事にしてくれていた。
なのに、公爵に甘えたいと思ったことはない。
爵位によるものではないと、うっすら感じている。
公爵と、互いに愛称で呼び合うのも慣れてきていた。
距離感というほどの距離は感じなくなっている。
見た目にだって、素敵だなぁと思うことも、少なくない。
それでも、なにかがジョバンニとは決定的に異なっていた。
なにが、というのは、アシュリーにもわからないのだけれども。
気がつくと、いつもジョバンニのことを考えている。
というより、ジョバンニのことばかり考えている。
たいていは一緒にいるのだが、傍にいないと、そわそわしてしまう。
ジョバンニは執事なので、本来的には、始終、アシュリーの世話をする立場ではなく、ほかの仕事でも忙しいのだ。
アドラント、王都と、2つの屋敷の取りまとめ役をしているのだから、むしろ、アシュリーのために時間を割いていること自体が異例と言える。
ジョバンニは「遠慮せず」と言っていたが、本当は遠慮すべきだろうか。
彼は、アシュリーが呼べば、忙しくても来てくれるに違いないのだ。
ほかの仕事は大丈夫なのだろうかと、心配になる。
そうでなくとも、彼がいつ眠っているのか、アシュリーは気にしていた。
アシュリーが、サマンサと中庭で会ったのは深夜だ。
夢見が悪く、たまたま起きたに過ぎない。
ジョバンニも眠っていると思ったからこそ、声をかけずにいた。
だが、彼は、アシュリーの元に駆けつけている。
しかも、アシュリーが寝つくまで傍にいてくれた。
かなり遅い時間になっていたはずだ。
「ねえ、リビー。ジョバンニって、ちゃんと眠っているのかしら?」
昼食後、アシュリーは、リビーに着替えを手伝ってもらっている。
ひと月半以上も屋敷の敷地内から、彼女は外に出ていない。
そろそろアドラントの街に出てはどうかと、少し前から公爵に勧められていたのだ。
アシュリーは、その提案に、すっかり乗り気になっている。
早速、街に出ることにした。
そのための着替えだ。
華美になり過ぎず、質素に過ぎず。
リビーは、ひとしきりドレス選びに時間をかけている。
街で目立たない程度、さりとて侮られることもない上品なドレスだった。
とはいえ、街は屋敷とは違い、外気に温度調節がなされていない。
暑さも加味して、肌は透けないものの、風通しのいい素材が選ばれている。
「ジョバンニは、あまり睡眠を必要としないそうですよ? 魔術師は、得てして、そういうものらしいのです。旦那様も、あまりお休みになられないようですし」
「魔術師って、私たちとは、いろいろと違うのね」
「そうみたいです。魔力があると、なにかと体質が変わるのかもしれません」
魔力を持たないアシュリーには、それがどういう感覚なのか、想像できない。
眠らなくても、食べなくても、平気だなんて。
(私は、お腹がいっぱになると眠くなるし、お腹がすいても、1度に、たくさんは食べられないから、またすぐにお腹がすくし……お菓子も果物も好き)
こういうところが、子供なのだろうか。
それとも、魔術師でなければ、これがあたり前なのだろうか。
「リビーは、ちゃんとお腹がすいたり、眠くなったりする?」
「私は寝ますね。お腹もすきますよ。旦那様とジョバンニが特殊なだけです」
「魔術師って不思議ね。いろんなことが、パッとできるでしょう?」
「姫様、それも、旦那様とジョバンニが特殊なので、誰でもが同じだとは思わないほうがよろしいかと」
「そうなの?」
リビーが、髪を結い上げてくれている。
外は暑いので、おろしていると首元が「蒸れる」のだそうだ。
確かに、上げているほうが、すっきりする。
「数は少ないですが、アドラントにも魔術師がいくらかはいます。ですが、それほど大きな力は持っていないらしいですよ」
「アドラントにも魔術師がいるなんて知らなかったわ」
アドラントは、元は別の国だった。
そのため、魔術師はいないはずなのだ。
領民は、元アドラント国民であり、ロズウェルドの者ではないので、魔術師には成り得ない。
と、アシュリーは知識上、そう思っていた。
「ここ数年、ロズウェルドの者と婚姻するアドラント領民が増えているのです。どういう理屈かはわかりませんけど、中には魔力顕現する子もいるのだとか。そういう子は、ロズウェルドの王宮で魔術師となることもできると聞いています」
「魔術師になってから、アドラントに戻ってくるの?」
「中には、そういう者もいますね。アドラント王族の護衛のためとか」
ふぅんと、アシュリーはうなずく。
魔術師のことを、本当に自分は知らないのだな、と思った。
だが、ジョバンニは魔術師なのだ。
魔術師のこと、というより、ジョバンニのことを、もっと知りたいと思う。
「今日のお出かけは、ジョバンニとリビーも、一緒なのよね?」
「さようにございます、姫様」
「リビーは、街にはよく行く?」
「勤め始めた頃は街を知るために、買い出しなどに出かけていましたね。ですが、ジョバンニのほうが、詳しいでしょうから」
アシュリーの気持ちが高揚しているのは、外出だけが理由ではない。
ジョバンニが一緒だからだ。
彼に案内され、街歩きをすると思うと、うきうきしてくる。
(ヘンリーは、王都の街にさえ連れて行ってくれなかったものね)
夜会で会ったハインリヒを思い出し、背筋がゾクッとした。
ジョバンニが助けてくれなければ「酷いこと」になっていた気がする。
あの日、アシュリーは必死で、ハインリヒに抵抗しようとした。
4年間、穏便にすませることだけを考えて、口ごたえせず、傍若無人な従兄弟に合わせてきたのに、あの時ばかりは、うなずくことができなかったのだ。
「準備が整いましたよ、姫様」
ぽふんとかぶった、小ぶりな帽子が気に入る。
ボンネットと呼ばれる令嬢定番の帽子とは違うデザインだった。
顔を覆う造りではないため、心もとなさはある。
けれど、軽くて、とても涼しげだ。
「立ち寄り先は、ジョバンニが決めていると思いますので、ご安心くださいませ。ただ、姫様が行きたいと思われる場所や店があれば、教えてくださいね」
「わかったわ。初めてだから、たぶん、お任せになると思うけれど」
「王都の街とは、また違った風情がありますよ」
アシュリーは、王都の街にも行ったことがないとは恥ずかしくて言えなかった。
曖昧に笑みを浮かべながら、うなずいてみせる。
彼女は、まだ消極的な自分から抜け出し切れていないのだ。
ともすると、相手に合わせようとしてしまう。
ハインリヒによる刷り込みが根深く残っていた。
リビーと2人で部屋から出て、階下に向かう。
玄関ホールには、すでにジョバンニが待っていた。
姿を見るだけで、どきどきする。
今日のジョバンニは執事服ではなかった。
「ジョバンニ、ずいぶんと気合いが入っているみたいですね」
リビーに言われても、ジョバンニは、いつものように穏やかに微笑んでいる。
サマンサと話していた時のような雰囲気は感じられない。
「今日は護衛も兼ねているのでね。執事服では護衛騎士に見えないだろう?」
ジョバンニが来ているのは、王宮の近衛騎士が着ているものとは似ていない。
立ち襟の黒い上着の前裾を濃い灰色の腰当てで押さえ、その上を何本かのベルトで締めている。
ベルトの1本は太く、そこに短い剣を下げていた。
(ジョバンニは魔術師なのに、剣を使うの?)
そういえば、ハインリヒに「剣士の称号」を持っていると言っていた気がする。
いつもの執事服も落ち着いていていいのだが、騎士服も似合うと思った。
のだけれども。
「なんでも出来過ぎる男性は、面白味がないですよ」
リビーには不評だったらしい。
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