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後編

迫る危機よりも 2

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 あの「公爵」という男性が来てから、4日が経つ。
 リスは、ようやく落ち着いて来たところだ。
 あの日は、サマンサにくっついて離れようとしなかった。
 少しでも姿が見えないと泣くといったふうだったのだ。
 
「寝たか?」
「ええ。今日は割と早かったわ」
 
 この3日あまり、寝つきも悪くなっていた。
 自分のベッドで眠るのも嫌がったため、サマンサの隣で寝かせている。
 今夜も嫌がるようなら、一緒に寝ようと思っていた。
 だが、気持ちが安定したのか、今日はすんなり自分のベッドに入っている。
 
 サマンサはソファに腰をおろして、溜め息をついた。
 リスが意思表示をするようになったのは嬉しい。
 ただ、今後のことを考えると、不安になる。
 早ければ、明日には「迎え」が来るかもしれないのだ。
 
「ねえ、本当に大丈夫かしら?」
 
 リスが不安定になっていたため、迎えが来るという話が、まだできていない。
 明日の朝には話しておこうと思ってはいる。
 とはいえ、また不安定になるのではないかとの心配があった。
 リスを危険にさらせないとわかっていても、だ。
 
「あいつは頭がいい。たぶん、薄々はわかってる。だから、サムに引っ付き回ってるんだよ。もう離れなくちゃならないって思ってるからだな」
「……そう……頭がいいというのも考えものね……気づきたくないことにまで気づいてしまうなんて」
「大人になれば長所だと言われるが、今はまだ早過ぎる。知る必要もねぇのにわかっちまうのは、苦しいもんだ」
 
 レジーもリスを心配しているのだろう。
 次は点々としなくてすむようにする、と言ってはいたが、すぐに新しい環境に慣れられるとは思えなかった。
 だからと言って、サマンサがついて行くことはできない。
 危険は、サマンサの周りで起きるのだ。
 
「リスのことは、今、考えてもしかたない。あずけた先で手に負えなくなったら、また俺が引き取る。もし……そうなった時、サムが危険な状態でなければ、一緒にここで暮らすのもいいかって、俺は思ってる」
 
 リスとレジーと3人で、ここで暮らす。
 
 それはサマンサも考えていたことだった。
 危険がなく、穏やかな暮らしができるのなら、それがいい。
 養子に迎えるのは無理だとしても、どうせウィリュアートンはリスの面倒を見る気はないのだ。
 
「そうね……安全になって、リスが新しい環境に馴染めなかったら……」
 
 いつ安全になるのか、期限は定まっていなかった。
 その間に、新しい環境に馴染むことも考えられる。
 リスにとっては、そのほうが望ましいことなのだ。
 
「ところで、俺には兄がいるって話はしたよな」
「当主をされているのだったかしら」
「ティンザーに連絡を入れてもらったんだが、すでに公爵様から話が通っていたようだ。サムのことは心配していても、公爵様に任せてるって話だったな」
 
 サマンサ・ティンザー。
 
 その名を聞いても、ピンとこない。
 ティンザーという貴族の娘らしいが、思い出せずにいる。
 家を追い出され、さまよっていたのではない、ということはわかったけれども。
 
「私の親は、彼を信用しているのね」
 
 よくわからなかった。
 あんな高圧的で傲慢な人を、自分の親が信用しているのが信じられない。
 彼は、レジーの手足を折るとまで言ったのだ。
 
(その上、私を囮にする気なのよ? そんな人を、どうして……?)
 
 急に、あの男性のことが気になり始める。
 両親が信用するほどの根拠があるのかが知りたかった。
 記憶のないサマンサからすれば、両親のこともよくわからないのだ。
 金や権力におもねっているのではないと信じたいけれども。
 
「レジーは、あの人のことを知っている?」
「公爵様か?」
「そう。ローエルハイド公爵、だったかしら」
 
 漆黒の髪に、黒い瞳。
 
 一見、穏やかそうな風貌であるにもかかわらず、口を開けば印象は一変した。
 初対面とも言える彼に対する、サマンサの感想は、ひと言。
 
 冷酷な人でなし。
 
 今のところ、それだけだ。
 とても「婚約者」だとは思えない。
 というより、自分で選んだ相手とは感じられなかった。
 
 貴族との立場で考えれば、政略的な婚姻も有り得る。
 両親が選んだ人なのかもしれない。
 それならば、両親に信用されているのもわかる気がするし。
 
「どういう人なの? 私の婚約者らしいけれど……正直、信じられないわ。あんな横柄な人を、私が選んだなんて……想像できないのよ」
「公爵様は特殊なかただからなぁ」
「特殊?」
「偉大な魔術師なのさ。アドラントの領主で、今は、ほとんど向こうにいる」
 
 アドラントという地名は、聞いたことがあるような、ないような。
 はっきりしないが、初めて聞くという感じでもない。
 
「ローエルハイド自体が、貴族らしくない貴族って言われてるんだ。金も力もあるけど、まつりごとにゃ、一切、関わらねぇし、表舞台にも出て来ない。元々、独立独歩って感じだった上に、アドラントは法治外だ。ロズウェルドの貴族じゃあるが、王宮に管理されない、唯一無二の貴族ってわけだな」
 
 サマンサは考え込む。
 ローエルハイドに金も権力もあるのだとすれば、いよいよ政略的な婚姻である可能性が高い気がしてきた。
 川に落ちたのは、望まない婚姻から逃げる最中さいちゅうだったのではなかろうか。
 
「前も言ったけどな。詳しいことが知りたいってなら、兄上に訊けばわかる。俺も多少は魔術の心得があるしな。連絡取るくらいはできるぞ?」
「いいえ、詳しく知りたいわけではないからいいわ」
「そうか? 気になってるんだろ?」
「でも、聞いたところで、私に実感はないと思うのよ」
 
 覚えていないことを聞いても、今の自分には受け入れがたいことかもしれない。
 そぐわない感覚に悩まされるのも嫌だった。
 ここでの生活に馴染み始めている。
 失った記憶に引きずられて「新しい自分」を見失いたくもない。
 
「実際、俺も公爵様のことは、よく知らねぇんだ。あの人を知らねぇ貴族はいねぇけど、会ったり話したりした奴は、ほとんどいない。俺だって、十年以上前に1回だけ会ったきりだ。兄上が家督を継いだ時だったよ。その時の夜会に、ちらっと姿を現して、挨拶だけして帰っちまったから、話らしい話はしてなくてな」
「レジーの印象はどう? 私は最悪だったけれど」
 
 顔をしかめるサマンサに、レジーが笑った。
 明るい声に、ホッとする。
 レジーには裏表がなくて、心も明け透けだ。
 楽観的でもあり、一緒にいると、サマンサも気が楽になる。
 
「んー、そうだなぁ。確か、俺の4つ上だと思うんだが、堂々としてんなぁって思った。こっちは、公爵様の前に立つだけで冷や汗だらだらかいてんのによ」
「冷や汗? どうして?」
「なんかなぁ。悪いことはしてねぇはずなのに、自分に後ろ暗いところはなかったかって、不安になるっていうか。背骨を引っこ抜かれそうな感じがした」
「魔術師だからかしら?」
「人の心を読んだり、覗いたりする魔術はねぇって聞くけどな。崖っぷちに立たされて、本心を白状しろって突き付けられてる気がするんだよ。たぶん公爵様の前だと、誰でもそうなっちまうんだろ。倒れそうになってる奴もいたからな」
 
 サマンサには、そうした感覚はなかった。
 記憶がないせいかもしれないが、彼と対峙しても、レジーが言うような気分にはならなかったのだ。
 それどころか、腹を立てっ放しだったのを思い出す。
 
(あんな人、ちっとも怖くないわよ。冷酷な人でなしってだけじゃない)
 
 口から出た言葉と、サマンサの本心は一致していた。
 後ろ暗いところも、まったくない。
 理不尽なように、反論したに過ぎないからだ。
 仮に、心を覗く魔術があったとしても、少しも怖くなかった。
 
「でも、レジーだって、あの人とやり合っていたでしょう?」
「命まで取りゃしねぇだろって思ってただけだ」
「手足が折られていたかもしれないのよ?」
「手足を折られても、死ぬわけじゃない」
 
 レジーは、なんでもなさそうに言う。
 だが、自分の手足が折られるかもしれない状況に、恐怖しないわけがない。
 
「楽観的なのか、勇敢なのか、わからないわね」
「頭を使うのが苦手なんでね。目の前のことに対処するだけで精一杯なのさ」
「あなたは私を守ろうとしてくれたわ」
「拾ったからには責任を持たねぇとな」
 
 レジーは、いい人だ。
 生きていられたのも、レジーのおかげだった。
 そして、なんの見返りも要求されていない。
 野菜だってまともに切れず、厄介事を持ち込んでもいるというのに。
 
「あなたには感謝しているわ、レジー」
 
 心から、そう思っている。
 記憶がなくても、前向きになれたのだって、レジーがいたからだ。
 新しい自分でいい、と言ってくれた。
 その言葉に支えられている。
 
「サム」
 
 レジーが、サマンサの手をとってきた。
 その手を、じっと見つめている。
 
「悪ィな」
「なにが?」
「綺麗だった手が荒れちまってる」
「ああ、これは洗濯をしているからね。別にかまわないわ。やれることがあるのは嬉しいことだもの」
 
 サマンサの手を、レジーが、そっと撫でた。
 とても優しい手つきだ。
 
「俺に治癒の魔術が使えたら治してやれんだけどな」
「平気よ。でも、それほど気になるなら、軟膏を手に入れてきてくれるといいかもしれないわね。もちろん、1番、安いものでいいのよ?」
 
 レジーの手を、軽く、ぽんぽんと叩く。
 レジーは、笑ってうなずいた。
 
「次に町に出た時には、それなりの品を手に入れてくるさ。サムの手が荒れ放題になる前に」
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