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第2章 黒い風と金のいと
笑顔を守るためならば 2
しおりを挟む「レティが怪我をしたら、私が治すだけのことだ。きみの心配することではない。早く自分のことをしたまえ」
ユージーンは、大変、面白くない。
面白くはないが、文句も言えずにいる。
(俺は、今……王太子ではないのだ……)
先ほどの大公の言葉を思い出し、ゾッとした。
『私も”それなり”に、礼を尽くさなければならない』
王太子だと言っていたら、丸焦げにされていたかもしれない。
もちろんレティシアのいないところで。
こうしていられるのは、彼女がいるおかげだ。
レティシアに「嫌われていない」から、大公はお目こぼしをしているだけだと、わかっている。
さりとて「きみ」だの「したまえ」だのと言われると、嫌な気分にはなった。
だいたい大公は、レティシアにベタベタとさわり過ぎている。
それに、彼女のほうも、なにかと言えば大公に抱き着いているし。
(祖父と孫娘……というのは、そういうものなのだろうか……俺には祖母も祖父もおらぬから、わからんが……む。うまくいかんものだ……)
大公に渡された毛鉤を針にくくろうとするのだが、糸が滑って、なかなかうまく結べない。
道具と言われて思い出した。
大昔より盛んに行われていたという毛鉤を使った魚を捕る方法。
馬の尾の毛を縒り合わせた糸に毛鉤をつける。
それを垂らすと、毛鉤を虫と勘違いした魚が食いつくのだとか。
昔は、それが漁の主流だったのだが、今は娯楽になっているのだろう。
(釣りという娯楽が、自分で道具を用意せねばならぬものであったとは)
なにをしに来たのかとレティシアに問われ、咄嗟に「釣り」と答えた。
以前、ウサギ姿の時、レティシアとした会話が頭をよぎったのだ。
サハシーでは盛況な娯楽でもあったし、勘繰られることはないだろうと思ってのことでもある。
レティシアを守るための魔術を覚えるため、とは言えなかったからだ。
「まだできないのかい? レティはとっくに釣り糸を垂らしているよ? 女性に遅れをとるなんてね。いかにもきみは不器用そうだ」
嫌なことを言う。
ユージーンにだって、わかっていた。
自分には、できないことがたくさんある。
着替えですら3日もかけて練習したくらいなのだ。
今まで、人任せにし過ぎていたと痛感している。
しかし、ユージーンは王宮暮らししか、したことがない。
生まれてからずっと王太子として生きてきた。
その中でのあたり前が、外では通用しないなどと知りもしなかった。
レティシアに恋をすることがなければ、今も知らずにいたに違いない。
彼女に会うという目的のためだけに、こんなところまで来たのだから。
「そうだ。俺は何も知らんのだ。それはわかっている……ところで、これで釣りはできそうか?」
ぎゅっと毛鉤を結んだ針を、大公に見せる。
大公は、軽く肩をすくめただけで返答をしない。
それでいいということなのか、それでは駄目だということなのか。
わからなかったが、ともかく毛鉤をつけることはできた。
立ち上がって、レティシアの隣に並ぼうと歩き出す。
「ああ、きみ。そんなに近いと糸が絡んでしまうのでね。もっと離れて」
しかたなく、少しだけ離れた。
振り向くと、「もっとだ」と言うように、大公が、手をちょいちょいと振る。
さらに離れる。
そして、さらに。
(こんなに離れては、あれと話もできんではないか!)
彼女との距離、およそ百メートル。
本当に、これほど離れる必要があるのかはわからない。
が、ユージーンは釣りをしたことがないし、王太子でもないので、従わざるを得なかった。
「……大公……そのように近くては、糸が絡むのではないか……?」
「私は手ぶらなのでね。心配はいらない」
ちらっと肩越しに見る。
後ろに、ぴったりと大公がついていた。
確かに、両手は空いている。
レティシアに近づくのは許さない、ということだろう。
「きみは魔術を使わないようだ」
ぞくっと背筋が凍える。
レティシアが近くにいた時とは、明らかに違う声音。
ひどく冷ややかで、なんの感情もこもっていなかった。
いつでも殺せる、と言われているのがわかる。
が、ユージーンにも「想い」があった。
(あれと親しい仲になる際、大公は避けては通れぬ道だ)
親しい仲もなにも、怒られっぱなしなのだが、それはともかく。
最大の難関から逃げていては、彼女を手にいれられない、と思う。
「魔術師どもを追いはらってくれたのだろ? 俺にとっても、あやつらはどうにも煩わしくてな」
腕に走ったピリッという感覚。
枝が当たったのかと思っていたが、そうではない。
あれは際どい状態だったのだ。
おそらく大公の絶対防御が、この辺りにはかけられている。
魔術師たちは、領域の中に入れずにいるか、もしくは。
(丸焦げにされていたら……サイラスに詫びねばならんな)
正直、サイラス以外の魔術師の顔は覚えていないし、興味もなかった。
そこいらにいるのだろうと思うだけで、気にかけてはいない。
ただ、サイラスの部下であるという点において、サイラスに対しては申し訳なく思う。
サイラスは「殿下が無事であればいい」と言ってくれるのだろうけれども。
「時に大公。大公は、いろいろな魔術が使えるようだが、逃げるのに適した簡単な魔術というのは、どういうものがある?」
「きみは、この湖がどのくらいの深さか、知っているかい?」
それが魔術と、どう関係しているのかはわからないが、とりあえず頭の中で報告書をめくる。
ユージーンは真面目で、頭も悪くはないのだ、けして。
「確か……最も深い場所で9メートルだったか」
「まさにね。大人でも溺れる」
「それと魔術と、どう関係がある?」
「なにもないさ。きみが溺れたがっているように感じたのでね」
釣りというのは、それほど危険な娯楽なのだろうか。
とはいえ、自ら溺れたがるはずもない。
大公の意図がわからず、肩越しに振り返ってみた。
さらに冷ややかさが増していて、ゾゾッと背筋が震える。
百メートル離れていてもレティシアがいたからこそ、腰を抜かさずにすんだ。
「レティを連れて逃げるつもりなら、私に聞くのは、いささか愚かに過ぎる」
「しかし……仮に、なんらかのことで俺とあれが2人の時、魔術師に襲われたらどうする? 剣ならまだしも魔術師相手となると、あれを守ってやれんではないか」
冷や汗を、だらだらと流しながらも、ユージーンは自分の想いを口にする。
大公の「連れて逃げる」と、ユージーンの思う「連れて逃げる」は、意味が違うのだが、それには気づかない。
ユージーンは王太子であり、常に自分を中心に物事を考える癖があった。
そのため、自分が「思うところ」にしか考えが及ばないのだ。
「なんらかのこと? それは、きみの乳母が何かする、ということかね」
「いや……彼女のことで、俺からサイラスに頼み事をする気はない。俺の望まぬことを、サイラスがするはすがなかろう」
「本気で、そう思っているのか?」
大公の声が、ぐっと低くなる。
冷たさもひとしおだ。
ユージーンの全身が、恐怖により小刻みに震える。
どうしようもない恐ろしさだった。
目に見えない脅威を、無意識の本能が感じ取っている。
それでも、ユージーンはうなずいた。
視界の端に、レティシアがいる。
彼女に無様な姿は晒したくない、という一心だった。
「当然だ。俺はサイラスを信じている」
フッと空気が軽くなる。
ようやく冷や汗も止まっていた。
大公が、大きく息をつく。
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ハッとして、レティシアのほうを見る。
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「レティ、竿を離してはいけないよ。こうして……」
大公が、後ろから彼女の体を抱くようにして支えていた。
それを見て、ユージーンは、はっきりと思う。
なぜあそこにいるのが自分ではないのか、と。
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