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第2章 黒い風と金のいと
笑顔を守るためならば 3
しおりを挟む「ほら、レティ。こうやって、少し魚を泳がせて……」
耳元に聞こえる祖父の声が、とても心地いい。
やわらかくて優しくて、うっとりする。
が、しかし。
「なにをしている! 早く竿を離さんか! 湖に引き込まれたらどうする!」
横から、非常に面倒くさいことを言う奴がいた。
耳障りはいい声だが、気持ち的には、まったく心地良くない。
というより、悪い。
(なんで邪魔ばっかりしてくるんだよ! 今日は、お祖父さまとデートなんだから! 死語だけど、こーいうのを、お邪魔虫って言うんだよな!)
魚と引き合いをしながら、王子様の声にイラっとくる。
さりとて、悪い奴ではない、との思いもあった。
レティシアに殴られたせいで静養に来るはめになった、とは言われた。
が、それきり花瓶の件は持ち出されていない。
それに、面倒くさいとは思うものの、内容自体はレティシアへの気遣いだ。
「ここは最も深い場所で9メートルもあるのだぞ! 大人でも溺れる! 引き込まれる前に、早く竿を離せ!」
これが、困る。
王子様は、何もわかっていない。
まったく、と呆れてしまう。
「釣りは、こーいうもんなの!」
「なんだとっ? そのように危険な娯楽をするとは、とんでもないことだ! 王宮に戻り次第、直ちに禁止させねばならんっ!」
「なに言ってんだよ、もおっ! 全っ然、危険じゃないから! 禁止なんかにしたら許さないからね!」
横からうるさくされるので、気が散ってしかたなかった。
王子様は、気の遣いかたを大幅に間違っている。
王宮に居過ぎて、アウトドアの楽しみかたを知らないのだろう。
娯楽での釣りは、ある種のスポーツなのだ。
体を使うのはあたり前で、だからこそ、服だって動き易いものにしている。
「きみは王太子ではなかったのではないかな? ここで、見聞きしたことは、王宮とは関わりのないことだと思うがね」
「そーだよ! お祖父さまの言う通り!」
レティシアの竿を握っている手に、祖父の手が添えられていた。
この手がある限り、湖に引き込まれることなどあり得ない。
ジョシュア・ローエルハイドがいる。
それを王子様は、わかっていないのだ。
レティシアの祖父に対する信頼は、絶対だった。
どんな、なにがあろうとも、祖父が助けてくれる。
そう信じていた。
首にかかった縄だって、指先ひとつで消してくれたのだから。
「そろそろ魚が弱ってきたよ」
「うん! 引く力が弱くなってる!」
「いいね、その調子だ。強く引き過ぎると糸が切れてしまうから……そうそう、うん、いい感じだよ。魚の動きに合わせて……」
なんという心地良さだろうか。
耳から体が蕩けてしまいそうだ。
祖父の甘やかさは、さすがのマルクのクリームシチューにも勝る。
が、しかし。
「魚が水面に上がってきている! もう少しで釣り上げられそうだぞ!」
なぜ、お前がはしゃぐ。
と、言いたくなった。
ぽにゃんとなりかかるたびに、邪魔される。
レティシアは、その「ぽにゃん」に浸っていたいのだ。
祖父に存分に甘えたいのだ。
なのに、王子様がいては、浸りたくても浸れない。
そのせいで、フラストレーションが溜まって、イライラする。
大好きなアーティストの大好きな歌を聞いている最中に、サビのところで横から大声を出されている気分。
クイズ番組で答えが出る直前に、コマーシャルが入る気分とも似ている。
ここでかよ!みたいな。
それが何度も続くのだから、イライラ度が上がってもしかたなかった。
「そこの一般人! うるさい! ちょっと黙っててよ!」
「いっぱん……??」
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
どうしようもなく、面倒くさい。
「あなたが王子様じゃないって意味!!」
それでも、レティシアは律儀に解説を加える。
出来の悪い新入社員にだって、社会人用語を教えていた。
そういう癖が抜けきらないのだ。
レティシアは、基本的に面倒見がいい。
さりとて、イライラは、する。
そのせいで、つい手に力が入った。
「あっ! まずい! 糸が切れちゃうよー! お祖父さま!」
「大丈夫。もうそこまで上がってきているからね。落ち着いて竿を前に出して」
優しい声に、胸がきゅーん、となる。
そう、こんなふうに、レティシアは祖父に甘えたいのだ。
抱っこをせがむのは恥ずかしいのでしないが、できないことをできないと言って甘えることの何が悪い。
否、何も悪くない。
「そこの坊や、魚を捕りに行きたまえ」
「それは、俺のことか……?」
「ほかに誰かいるのかい?」
祖父の言葉に、ぷぷっと笑う。
確かに王子様は、祖父から見れば「坊や」に違いない。
言われてもしかたないくらい、世間知らずなのだし。
「だが、捕まえるといっても……」
「きみは、ナイフとフォークを使えないのかな?」
「素手で捕まえろと言うか?」
「口でもかまわないがね。魚に傷がつくのは好ましくない」
どう考えても、王子様では祖父に太刀打ちできそうにない。
これなら、あのイ”ヴ”リン姫さまのほうが、まだしも対抗できていた気がする。
「よかろう。捕ってきてやる」
あくまでも王子様は上から目線だ。
こんな状況でも変わらないのだな、と思う。
そして、本当に王子様は変わらなかった。
いつも通り、鷹揚な歩きかたをしている。
「ちょっと! なにモタモタしてるのっ?! 魚に逃げられちゃうじゃん! もっと速く動いてよ! テキパキしてっ!」
ちらっと、王子様が振り向いた。
とても不本意そうな表情を浮かべている。
が、今の王子様は王子様ではないのだ。
にもかかわらず、王子様風を全開で吹かす神経が理解できない。
「早くッ! 魚に逃げられたら、あなたのせいだからねッ!」
ムっとした顔をしつつも、王子様が、ざぶざぶと足早に湖に入っていく。
世話が焼ける、とは、このことだ。
以前にも思ったが、5歳児よりも手がかかる。
もっとも5歳児ならば、湖に入らせたりはしなかったけれど。
「なんだ、これは! ヌルヌルして掴めんぞ!」
「魚なんて、だいたいヌルヌルしてるもんだよ! ガシッといって! ガシっと!」
魚を引きつつ、王子様を叱咤する。
激励はなし。
あれは褒めるとつけ上がるタイプだ。
ますます上から目線になるに決まっている。
「ううっ! 嫌な感触だ! 気色が悪い!」
「いいから! 魚は、そーいうもんだから! そのまま、こっちに戻って!」
ものすごく嫌そうな顔をして、王子様が魚を掴んでいた。
まるで雪山で吹雪にあっているかのごとく、1歩1歩を踏みしめるようにして、こちらに戻って来る。
「レティ、竿はそのままにしておくんだよ。籠を出すからね」
「わかった!」
ざぶりざぶりと、王子様が近づいてくる。
全身びしょ濡れだ。
リボンタイもほどけ、髪も、しなしな。
王子様然とした風格は、見る影もない。
(でも、今日は王子様じゃないんだし……王子様っぽくなくてもいいよね)
なんとも惨めったらしい姿ではあるが、そもそもあんな格好で釣りに来るのが間違っている。
道具も持ってきていなかったし、下調べをして来なかったのが悪いのだ。
「ここに、入れるのだな」
祖父の出した籠に、魚を放り投げる。
かなりヌルヌルが気になるのか、両手を見ながら言った。
「それは、ローチだ……コイやフナの仲間で……」
実際の釣りのことは何も知らないくせに、毛鉤を知っていたり、湖の深さや魚の種類を知っていたりするのが、王子様のズレているところだ。
レティシアは思う。
いや、そんな情報いりませんから。
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