伯爵様のひつじ。

たつみ

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前編

光と闇と 2

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 深い深い闇が晴れ、陽の光が見える。
 目をつむっていても、新緑の芽吹きを感じた。
 
───ああ、良い季節だ。目覚めには、とても良い季節だ。
 
 まるで木々が枝を広げ、根を伸ばすように、意識を拡げていく。
 葉脈が光を、根が地下水を吸収するかのごとく、すぐさま情報がとどけられる。
 過去から現在まで、何が起きていて、何が起きていないか。
 季節の移ろいも時代の変化も、すべてを理解していった。
 
───ずいぶんと変わった。けして、良い変化ばかりでないのが残念でならない。
 
 その眠りは長かったのだろうと思う。
 美しくあれと望んだ国は、ひどく醜く歪んでいた。
 安寧を与え続けた結果に、憂いをいだく。
 とはいえ、最早、どうでもいい。
 
「カーリー」
 
 ゆっくりと目を開き、体を起こした。
 広く清潔なベッドの横に、黒服の男が立っている。
 長年、仕えている執事だ。
 
「お目覚めになられて、なによりでございます、伯爵様」
 
 白手袋をはめた手を胸にあて、会釈する姿には執事然とした風情がある。
 乱れのない短い黒髪と濃褐色の瞳、細い体にスタンダードな執事服。
 さしたる意味はないのだが、年の頃は30代半ばといったところだ。
 
「身支度をする」
「すでに湯を整えております」
 
 ベッドを降り、身に着けていた寝間着を脱ぎ捨てながら浴室に向かった。
 カーリーによって開かれたドアの向こうに湯船が見える。
 床は、以前と変わらず大理石のままだ。
 きれいに磨かれていて、素足に心地いい。
 
 すでに湯気の立っている湯船に体を沈める。
 その縁に首を乗せると、ダークブルーの髪がハラリと落ちた。
 
「清めさせていただきます」
 
 カーリーが、やや長めの髪を手に取っているのがわかる。
 久しぶりの風呂だというのに、体に汚れはない。
 髪や爪の先まで清潔だとわかってはいたが、気分の問題だ。
 どれほど衛生的であっても「さっぱり」する必要はある。
 
「私より長生きをしているくせに、お前は若々しいな」
「管理上、いたしかたのないことにございます」
「人は変わる。外も内も、良くも悪くも」
 
 人とは、そういうものだ。
 他者に流され、環境に流され、己自身にも流される。
 そして、流されていることに気づいていない者も多い。
 
「海から川へと遡って来る魚ならばともかく。流れが穏やかであるほど、釣り竿につけた浮きの動きを気に留めたりはしないものだ」
 
 ほど良く髪が洗い流されるのを待って、立ち上がる。
 湯船から湯が跳ね、大理石の床を濡らした。
 水滴でできた足跡は、できたそばから消えていく。
 
 カーリーが後ろからバスローブを肩に掛けてきた。
 袖を通している間にも、居間に続くドアが開かれる。
 正面に見えた懐かしい絵に、気分が良くなった。
 
 室内には、大きくてしっかりとした木製の肘掛けイスがある。
 背中を深くあずけて腰をおろし、足を軽く組んだ。
 腕は肘置きの上に投げ出す。
 
「こちらを」
 
 いつ用意したのか、コーヒーが差し出された。
 ソーサーを左手で支え、右手でカップを取る。
 顔を近づけるまでもなく、香りが漂ってきた。
 
「匂いには強い快楽がある。実際の味より曖昧であるにもかかわらず、体の奥深くまで浸透し、美を感じさせるのだから」
「ご気分がよろしいようですね」
「ああ、とても気分がいい」
 
 コーヒーを口にして、ほうっと息をつく。
 寝起きにしては饒舌になっているのを自覚していた。
 カーリーも気づいているのだろう。
 あるじに合わせて、カーリーの口数も増えている。
 
「意外、と申し上げるのは失礼にございましょうか」
「いいや、カーリー。我ながら、意外に感じていなくもない」
「それでも、報復はなさらないと?」
「報復とは、対象者がいてこその余興。相手もいないのに、遅ればせながらと報復するなど滑稽だ。1人芝居を演じる気はない」
 
 それに、と思う。
 思って、目を閉じた。
 瞼の裏に見える光景が、たまらなく愛おしい。
 自然と口元が緩む。
 
「置いて来た過去を今しがた拾いきったところだが、興味の持てそうなものは、ごくわずかだ。報復は、その中に入っていない。不服か?」
「まさか。不服などあろうはずがございません。連中が伯爵様の気分を害さなければ良いと考えております」
「害するさ。害さないはずがないだろう、カーリー。私がどういったことに気分を害するかも知らないような連中だ」
「ごもっともにございます、伯爵様」
 
 カップをソーサーに戻し、カーリーに差し出す。
 とん…と、軽く肘置きを指で叩いてから立ち上がった。
 
「今風の小洒落た服装にはしてくれるなよ」
「伯爵様なりのおめかしにございましょう?」
「田舎貴族と馬鹿にされるより、重要なことがある」
 
 カーリーは「重要なこと」について、問わない。
 当然に知っているからだ。
 
 カーリーによって、手早く身支度が整えられていく。
 白いリネンのシャツは袖がたっぷりとしていて、袖口には銀鎖のついた金のカフスリンクス。
 胸元を少し開き、首には緩めに装飾用の薄紫のクラヴァット。
 
 腰下まである銀のウエストコートはシンプルで、膝丈の黒いフロックコートには袖口と裾に銀色の華やかな刺繍がほどこされていた。
 黒いズボンの裾から、革靴についた銀のバックルが、ちらりと見える。
 カーリーの差し出した白い手袋をはめ、シルクハットを頭にのせた。
 
「時流にそぐわない格好だが、上出来だ」
「恐縮にございます」
 
 日常着としてのフロックコートはとうにすたれているし、クラヴァットなど仮装にしか使われていない。
 今時の貴族は、行動と服装がアンバランスのようだ。
 
 外見はシンプルなものを好むが、態度は横柄かつ傲慢。
 華美さを控えた服装こそが虚飾と言える。
 
「いっそ驕奢きょうしゃな己を誇示すればいいものを」
「昨今、そういう者は貴族であれ、商人であれ、蔑みの対象とされております」
「そのようだな。だが、それも表向きに過ぎない。くだらん風潮だ」
「嫉妬と羨望が渦巻く世の中にございます。伯爵様、こちらを」
 
 カーリーの差し出した王笏おうしゃくに似たロッドを受け取った。
 先端にはめこまれている薄紫の宝石は、伯爵領のみで採掘できる代物だ。
 
「いってらっしゃいませ、伯爵様」
 
 返事はせず、フロックコートの裾を翻す。
 ポケットから黒い鍵を取り出し、手に握った。
 
───本当に良い季節だ。目覚めと、そして出会いに。
 
 レセリア帝国キルテス領主オスカー・キルテス伯爵。
 
 建国後2百年余、伯爵の姿を見た者は誰もいない。
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