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前編
快と不快と 4
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オリヴィアの言葉に、不安になって伯爵を見上げる。
伯爵が、ファニーに小さく微笑んでくれた。
ファニーは、ぎゅっと薔薇の花を握る。
伯爵の笑みが、胸に痛かった。
自分が口を挟むことではない。
そういう立場ではない。
そんなことは、わかっている。
だが、ファニーの心に、やりきれないような切なさが広がっていた。
スッと息を吸い込み、オリヴィアに向き直る。
前リーストン卿や騎士団に恩はあるが、承服できないものはできない。
「オリヴィア様、私は奴隷を買う気はありません」
「お金なら支援金がある……」
「そういうことじゃないんです!」
ファニーの一家は、帝国法を重んじてきた。
平民であるファニーが、文字の読み書きができるのは、幼い頃から父に教わっていたからだ。
父は祖父母から、祖父母は曽祖父母からといったように、帝国法を学ぶために、文字を習っていた。
「私は奴隷制の可否がわからないので、奴隷を買うことはできません」
「可否もなにもないわよ。帝国では奴隷制が認められているわ」
「でも、帝国法には記載されてませんよね」
「当然でしょう。奴隷制は、帝国法とは別法として定められたのだから。あなたは、そんなことも知らないの? ほかの領地の牧場では、多くの奴隷を使っているわ。元手は多少かかっても、長い目で見れば安くあがるからよ」
オリヴィアの言ったことなら、ファニーも知っている。
多くの牧場が、牛舎の掃除や餌やり、そのほかの肉体労働や単純作業を奴隷にさせているのだ。
奴隷には最低限の衣食住を与えればいいので、帝国民を雇うより安く上がる。
そのため、人手が欲しい牧場や農場で奴隷を労働力とするのは当然と言えるのだろうけれども。
「私は牧童です。牧場主じゃありません」
牧場の管理を任されてはいるが、持ち主はあくまでも伯爵だ。
帝国法の起草の中心となったのも伯爵だ。
ファニーたちが、帝国法を重んじてきた理由は、そこにある。
だが、奴隷制は、伯爵が作ったものではない。
伯爵が姿を見せなくなったあとに作られた別法だった。
つまり、伯爵の賛否が不明なままなのだ。
帝国民として、別法に反対まではしない。
とはいえ、領地民として伯爵の意に沿うか沿わないかわからない別法に従いたくもない。
こればかりは、前リーストン卿に恩があったとしても曲げられなかった。
(……伯爵様がいないところで決めた法には従えない……伯爵様が法の番人だって、帝国法の最初に書いてあるんだから)
なのに、帝国はそれを無視して伯爵抜きで別法を作ったのだ。
法の番人と定められている伯爵の意向も問わずに。
なぜ2百年も伯爵が姿を現わさなかったのかはわからない。
けれど、なにかしら理由はある。
だから、胸が痛むのだ。
帝国のために命を懸け、誰よりも奮戦した伯爵を、その帝国が無視したことに。
今では奴隷制は当たり前になっているが、ファニーにとっては違う。
いたたまれなさや、やりきれなさを感じずにはいられないものだった。
奴隷制のことを知ったら、伯爵が傷つくのではないか。
裏切られたような気持ちになりはしないか。
奴隷についての話を聞くたび、そう思ってきたのだ。
「ベル、あなたは自分の立場が……」
「オリヴィア・リーストン。私は、お前に口を開くことを許したか?」
ひやっとするほど冷たい声が隣から響く。
カーズデン男爵家で話していた時と同じだ。
オリヴィアの顔が、一瞬で蒼褪めた。
青色の瞳に怯えが漂っている。
「ただの1日も命令に従えないとはな」
オリヴィアはなにか言おうとしたのだろうが、すぐに口を閉じた。
口を開くことを許されていないからだ。
(私も勝手に喋っちゃった……あとで叱られるかな……でも、しょうがない。事前に人手を確保できてなかったのが原因だもん)
伯爵に「困ったこと」を訊かれ、つい正直に人手不足だと話してしまった。
そのせいで、オリヴィアは「良い提案」をしようとしたのだろう。
奴隷を使うのが一般的になっている帝国では、身内だけでやりくりしているほうがめずらしいのだ。
(オリヴィア様は好意で教えてくれようとしたんだって言いたいけど……これ以上、勝手に口を挟めないよね……)
オリヴィアに反論せずにもいられなかったが、出しゃばり過ぎたのを悔やんでもいる。
そもそもオリヴィアの頼みを自分が上手く躱せていれば、話がややこしくなることもなかったのだ。
「私の羊は、私が守る。それよりも領主を失った男爵領の乱れを抑えるために、お前を向こうに残したのだ。この機に乗じて、罪を犯す者も増えるからな。お前は、そんなこともわからないのか」
男爵領は、伯爵領よりも人が多い。
伯爵の言うように、領主不在では混乱をきたす。
伯爵がオリヴィアと騎士団を男爵領に残した理由を、やっと理解した。
「男爵領は、今のところ私があずかっている。それを踏まえ、騎士団とともに秩序を維持しろ。これが、私の命令だ。わかったら行け」
オリヴィアが黙ってうなずく。
「あまり私を煩わせるな。リーストン卿でいたいならば」
ファニーでさえ首をすくめたくなるほど冷たい声だった。
直接、叱責を受けたオリヴィアは背筋が凍る思いをしたに違いない。
深々と頭を下げ、足早に去って行く。
その姿を見送りつつ、次は自分の番だと覚悟を決めた。
「ファニー……」
「すっ、すみません! 私も伯爵様に許しを請うべきでした!!」
目を閉じ、ガバッと頭を下げる。
まだ口を開いていいとは言われていないことも忘れていた。
「許し? それはどういう……」
「伯爵様のお許しもなく、口を開いてしまいました!」
しーん。
返事がないので、頭は下げっ放し。
体を直角に折り曲げ、目もつむりっ放し。
どんな叱責でも受ける覚悟だ。
「あ……いや……ファニー、あなたは自由に話してくれてかまわないのですよ?」
「え……?」
「ともかく頭を上げてくれませんか?」
ゆっくりと頭を上げ、伯爵を見上げる。
伯爵は困ったように、苦笑いを浮かべていた。
「あなたとリーストン卿とでは立場が違います。ですから、私の許しなど必要ありません。気兼ねなく話をしてもらうほうが、私も嬉しいのです」
「そう、なんですね」
きちんと理解できてはいないが、うなずいておく。
おそらく担う役割による責任の重さの違いだろう。
牧童は、領地の秩序を守るような役割は担っていない。
(臣下には厳しく、民には優しいってことかな)
平民であることを不満に思ったことはないが、得をしているような気分になったのも初めてだ。
ファニーは、自分よりも重い責任を担っているオリヴィアを気の毒に思った。
伯爵が、ファニーに小さく微笑んでくれた。
ファニーは、ぎゅっと薔薇の花を握る。
伯爵の笑みが、胸に痛かった。
自分が口を挟むことではない。
そういう立場ではない。
そんなことは、わかっている。
だが、ファニーの心に、やりきれないような切なさが広がっていた。
スッと息を吸い込み、オリヴィアに向き直る。
前リーストン卿や騎士団に恩はあるが、承服できないものはできない。
「オリヴィア様、私は奴隷を買う気はありません」
「お金なら支援金がある……」
「そういうことじゃないんです!」
ファニーの一家は、帝国法を重んじてきた。
平民であるファニーが、文字の読み書きができるのは、幼い頃から父に教わっていたからだ。
父は祖父母から、祖父母は曽祖父母からといったように、帝国法を学ぶために、文字を習っていた。
「私は奴隷制の可否がわからないので、奴隷を買うことはできません」
「可否もなにもないわよ。帝国では奴隷制が認められているわ」
「でも、帝国法には記載されてませんよね」
「当然でしょう。奴隷制は、帝国法とは別法として定められたのだから。あなたは、そんなことも知らないの? ほかの領地の牧場では、多くの奴隷を使っているわ。元手は多少かかっても、長い目で見れば安くあがるからよ」
オリヴィアの言ったことなら、ファニーも知っている。
多くの牧場が、牛舎の掃除や餌やり、そのほかの肉体労働や単純作業を奴隷にさせているのだ。
奴隷には最低限の衣食住を与えればいいので、帝国民を雇うより安く上がる。
そのため、人手が欲しい牧場や農場で奴隷を労働力とするのは当然と言えるのだろうけれども。
「私は牧童です。牧場主じゃありません」
牧場の管理を任されてはいるが、持ち主はあくまでも伯爵だ。
帝国法の起草の中心となったのも伯爵だ。
ファニーたちが、帝国法を重んじてきた理由は、そこにある。
だが、奴隷制は、伯爵が作ったものではない。
伯爵が姿を見せなくなったあとに作られた別法だった。
つまり、伯爵の賛否が不明なままなのだ。
帝国民として、別法に反対まではしない。
とはいえ、領地民として伯爵の意に沿うか沿わないかわからない別法に従いたくもない。
こればかりは、前リーストン卿に恩があったとしても曲げられなかった。
(……伯爵様がいないところで決めた法には従えない……伯爵様が法の番人だって、帝国法の最初に書いてあるんだから)
なのに、帝国はそれを無視して伯爵抜きで別法を作ったのだ。
法の番人と定められている伯爵の意向も問わずに。
なぜ2百年も伯爵が姿を現わさなかったのかはわからない。
けれど、なにかしら理由はある。
だから、胸が痛むのだ。
帝国のために命を懸け、誰よりも奮戦した伯爵を、その帝国が無視したことに。
今では奴隷制は当たり前になっているが、ファニーにとっては違う。
いたたまれなさや、やりきれなさを感じずにはいられないものだった。
奴隷制のことを知ったら、伯爵が傷つくのではないか。
裏切られたような気持ちになりはしないか。
奴隷についての話を聞くたび、そう思ってきたのだ。
「ベル、あなたは自分の立場が……」
「オリヴィア・リーストン。私は、お前に口を開くことを許したか?」
ひやっとするほど冷たい声が隣から響く。
カーズデン男爵家で話していた時と同じだ。
オリヴィアの顔が、一瞬で蒼褪めた。
青色の瞳に怯えが漂っている。
「ただの1日も命令に従えないとはな」
オリヴィアはなにか言おうとしたのだろうが、すぐに口を閉じた。
口を開くことを許されていないからだ。
(私も勝手に喋っちゃった……あとで叱られるかな……でも、しょうがない。事前に人手を確保できてなかったのが原因だもん)
伯爵に「困ったこと」を訊かれ、つい正直に人手不足だと話してしまった。
そのせいで、オリヴィアは「良い提案」をしようとしたのだろう。
奴隷を使うのが一般的になっている帝国では、身内だけでやりくりしているほうがめずらしいのだ。
(オリヴィア様は好意で教えてくれようとしたんだって言いたいけど……これ以上、勝手に口を挟めないよね……)
オリヴィアに反論せずにもいられなかったが、出しゃばり過ぎたのを悔やんでもいる。
そもそもオリヴィアの頼みを自分が上手く躱せていれば、話がややこしくなることもなかったのだ。
「私の羊は、私が守る。それよりも領主を失った男爵領の乱れを抑えるために、お前を向こうに残したのだ。この機に乗じて、罪を犯す者も増えるからな。お前は、そんなこともわからないのか」
男爵領は、伯爵領よりも人が多い。
伯爵の言うように、領主不在では混乱をきたす。
伯爵がオリヴィアと騎士団を男爵領に残した理由を、やっと理解した。
「男爵領は、今のところ私があずかっている。それを踏まえ、騎士団とともに秩序を維持しろ。これが、私の命令だ。わかったら行け」
オリヴィアが黙ってうなずく。
「あまり私を煩わせるな。リーストン卿でいたいならば」
ファニーでさえ首をすくめたくなるほど冷たい声だった。
直接、叱責を受けたオリヴィアは背筋が凍る思いをしたに違いない。
深々と頭を下げ、足早に去って行く。
その姿を見送りつつ、次は自分の番だと覚悟を決めた。
「ファニー……」
「すっ、すみません! 私も伯爵様に許しを請うべきでした!!」
目を閉じ、ガバッと頭を下げる。
まだ口を開いていいとは言われていないことも忘れていた。
「許し? それはどういう……」
「伯爵様のお許しもなく、口を開いてしまいました!」
しーん。
返事がないので、頭は下げっ放し。
体を直角に折り曲げ、目もつむりっ放し。
どんな叱責でも受ける覚悟だ。
「あ……いや……ファニー、あなたは自由に話してくれてかまわないのですよ?」
「え……?」
「ともかく頭を上げてくれませんか?」
ゆっくりと頭を上げ、伯爵を見上げる。
伯爵は困ったように、苦笑いを浮かべていた。
「あなたとリーストン卿とでは立場が違います。ですから、私の許しなど必要ありません。気兼ねなく話をしてもらうほうが、私も嬉しいのです」
「そう、なんですね」
きちんと理解できてはいないが、うなずいておく。
おそらく担う役割による責任の重さの違いだろう。
牧童は、領地の秩序を守るような役割は担っていない。
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