伯爵様のひつじ。

たつみ

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前編

散歩と牛歩と 3

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「よく似合っています。とても可愛らしいですね」
「全部、ナタリーが用意してくれたんですよ。管理小屋のほうも、みんなが修繕してくれてました。なにからなにまで、ありがとうございます。伯爵家の人たちは優秀ですね」
 
 気恥ずかしそうに笑うファニーは、本当に愛らしい。
 牧童姿のファニーも良いが、シンプルなワンピースも似合っている。
 きっと何を着ても可愛らしいのだろうが、それは彼女自身が愛らしいからだ。
 服装での印象はあるにしても、根本的なファニーの姿が変わるわけではない。
 
───いくら着飾っていても、美しいと思えない女性も多かったからな。
 
 伯爵の周りにも、女性はいた。
 その多くは、ドレスや宝飾品を身に着け、着飾っていたのだ。
 
 攻め落とした国や帝国領土となった土地に民の女性もいたが、彼女らは、騎士を恐れ、近づいては来なかった。
 騎士とは呼べない下位の歩兵たちとは話しても、馬上の伯爵に声をかける女性など皆無。
 
 そういう民の中にこそ、美しいと思える女性がいたかもしれない。
 だとしても、伯爵とて怯えている女性に自ら声をかけはしなかった。
 なので、気づきようがなかったし、今さらの話だ。
 
(伯爵様)
(わかっている。そう急かすな、ナタリー)
 
 ナタリーは、ファニーの身支度を整えている。
 ただし、1箇所を除いて。
 
「ファニー、こちらへ」
 
 さっきまで座っていたイスの向きを変え、手で促す。
 なんの疑いもない様子で、とことこと歩いて来る様がまた可愛らしい。
 すとんとファニーが腰掛けたところで、伯爵は、その足元にひざまずいた。
 
「えっ? は、伯爵様っ?」
「あなたを散歩に誘いに来ました」
「あ、あの……」
「さほど歩くわけではありませんので、靴を履き替えても良いでしょう?」
「だ、だったら、じ、自分で……」
「私に任せていただけませんか?」
 
 ファニーを見上げ、薄茶色の瞳を見つめる。
 ファニーの頬が、みるみる赤く染まった。
 こくっと、うなずくのを見てから、視線を足元に落とす。
 
 小さな足だ。
 
「では、失礼して」
 
 そっと手でファニーの足を取る。
 ナタリーが置いた靴を手にして、ファニーに履かせた。
 丸みを帯びた茶色い革靴だ。
 紐で締める形のものではないので、すっぽりとはまる。
 
「いかがですか? 痛くはありませんか?」
「だ、だ、大丈夫です……あり、あり、ありがとうございます……」
 
 伯爵は立ち上がり、顔を真っ赤にしているファニーに手を差し出した。
 散歩に誘いに来たというのは、本当のことだ。
 伯爵邸にファニーが恐縮しそうなので、ディナーは諦めた。
 代わりに「散歩」を代案としている。
 
(カーリー、皆について来ないよう言っておけ)
(かしこまりました)
(……遠くから眺めるだけであれば許す)
 
 枝葉えだはもファニーを気にかけているのだ。
 とくにナタリーは近くにいられないのを残念に思うに違いない。
 慈しむという感覚を知らずとも、ファニーを慈しんできた枝葉を、自分の身勝手で遠ざけるのは気が引ける。
 
 とはいえ、2人きりでなければ話せないこともあるのだ。
 伯爵自身は、枝葉の存在を常に感じているので、すでに気にならなくなっている。
 姿が見えていようがいまいが、関係ない。
 だが、ファニーは気にするだろう。
 
(お前たちを邪魔に思っているわけではない)
(わかっております、伯爵様)
 
 カーリーに同調して、枝葉がざわめいている。
 なにか楽しげで、少しばかり居心地が悪かった。
 照れていることさえ伝わってしまうのだから。
 
 とんっと、ファニーの手が、伯爵の手に乗せられた。
 細心の注意をはらい、軽く握る。
 立ち上がったファニーが伯爵を見上げて来た。
 その目を見つめ返す。
 
「ファニーは、半島の南端まで行ったことはないでしょう?」
「そうですね。闇の防壁までは行ったことがないです」
「この辺りは雨ですが、向こうは晴れているようなので、そこに行こうと思っています。いかがですか?」
「是非! 1度、行ってみたいと思ってたんです」
「見張り塔がありますから、鍵を使えば、すぐですよ」
 
 ファニーが、嬉しそうに瞳を輝かせている。
 もとより建前や社交辞令で返事をする女性ではないが、本当に行きたがっていたらしい。
 
 この家から南端までは、闇夜の森を抜け、城塞を越えなければ辿り着けないのだ。
 森はともかく、城塞は、伯爵が眠りについて以降、鎖されていた。
 たとえ外壁前まで来ても、中に入ることはできなくなっている。
 今のところ、鍵を使わず伯爵邸に招き入れたのは、ヴァルガー侯爵令嬢だけだ。
 
「きっと良い景色が見られます」
「初めてなんです。海を見るのは」
 
 そうだろうと思っていた。
 半島は海に面しているが、牧場にいたのでは遠すぎて見えない。
 そして、彼女は牧場を離れたことがないのだ。
 
 伯爵は鍵を取り出して、何もない空間に現れた鍵穴にさしこむ。
 隣に立つファニーが、驚いてか、目をぱちぱちさせた。
 
「行ってらっしゃいませ、伯爵様、ファニー様」
「行ってきます!」
 
 ファニーが、ナタリーに手を振る。
 2人の仲の良さを感じて、苦笑した。
 羨ましさがあるにはあるが、女性同士の親しさに割り込む真似はできない。
 ファニーが最も頼れて甘えられる存在になるべく努力するのみだ。
 
 牛より歩みは遅くても。
 
 カチャッと鍵を回し、外に出る。
 半島の南端にある見張り塔のドアの前だ。
 カーリーからの報告通り、こちらは晴れている。
 遠くまで、すっきりとした青空が広がっていた。
 
「わあ……」
 
 目の前には、空よりも深い青色をした海。
 視線の先にある別の大陸も鮮明に見える。
 
「あれがゼビロスです」
「思ってたより、ずっと近いんですね」
「少し頑丈な船があれば、簡単に行き来できるほどに」
 
 ここよりゼビロスに近い場所はなかった。
 半島を境に、2つの大陸は段々に離れて行く。
 そのため、かつてのゼビロス人は集中的に半島を襲撃していた。
 リセリア南西部もゼビロスに面してはいるが、波が荒く、距離もあるため、頻繁に辿り着けはしなかったからだ。
 
「……本当に……こんなに近いなんて……」
 
 感慨深そうに、ファニーが小声でつぶやく。
 伯爵の手を、ぎゅっと握り締めて。
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