96 / 128
after that
紗羅 1
しおりを挟む
待ち侘びたモノが届いたのは平日の昼間だった。
ポスティングされたソレを手にトイレに駆け込み、はやる気持ちを抑えて検査をしてみる。
「お願い」
思わず声が漏れてしまう。
世界が終わらなかったあの日から日常は続いている。
いつものルーティーン。
変わり映えのない毎日。
予定の日に生理が来なかった時には少しだけ期待して、それでもそんな自分を戒めた。
夫に対する裏切りはバレているのか、バレていないのか。以前に比べて会話が減ったような気がするけれど、以前はどれくらい会話があったのかと考えてみてもどこがどう変わったのかを比較することもできない。
結局のところ私たち夫婦の関係は上辺を取り繕っていただけで、仲が良かったわけではなくて仲が良いように見せていただけだったのだろう。
それが淋しいとは思わず、それならばそれで楽だと思ってしまった。
周期通りに来ていた生理が3日遅れたのを確認して妊娠検査薬を注文した。念のため3本注文したソレに陽性の反応を確認した時に沸き起こったのは喜びで、これで貴哉に連絡をする口実ができたと安堵する。
もしも貴哉と紗凪の関係が続いていたとしても、紗凪がその関係を家族に告げるとは思わない。紗凪の恋愛の対象が元々同性だったのかなんて知らないけれど、ふたりがパートナー関係であることは確信している。そして、我が家にとって醜聞になるようなふたりの関係を告げることがないであろうことも確信している。
紗凪はきっと貴哉との関係をひた隠しにするだけでなく、その関係が続くうちはこのまま家族とも疎遠になることを選ぶのではないか。
私が後を継いだとはいえ紗凪だって汐勿の息子なのだから、両親としてもその将来を気にするはずだ。だけど、ただでさえ帰省しない紗凪のことだから告げることのできない関係が続いているうちはこちらに足を運ぶようなことはしないだろう。そうなると私と貴哉が会う機会は無くなってしまう。
大学の頃の大きな集まりがあっても貴哉は来ないだろうし、共通の友人に何かあっても私たちが同席するような機会を作ることはない。強いて言えば、誰かに不幸があれば再会の機会はあるのかもしれないなんてことまで考えてしまう。
貴哉のメッセージから私とは訣別すると決めたのだと伝わってきてはいたけれど、それでも諦めることはできなかった。
自分が手にできなかった貴哉を手に入れた紗凪が妬ましかった。
同性同士だから貴哉の男性不妊を気にすることなく、何の憂いもなく幸せそうな笑みを浮かべることに憎しみさえ感じていた。
結局のところ私は貴哉のことが好きなままで、貴哉との子どもを授かったことで全てをリセットできるのだと喜びに打ち震えた。
だけど、ソレを告げるのは今じゃない。
貴哉に伝える前に家族にバレてしまったら諦めるという選択を強いられるかもしれない。だから誰にも告げず、時間が過ぎるのを待つしかなかった。
本来なら病院を予約して、診察を受け、母子手帳を発行するべきなのは分かっている。だけど貴哉の子どもの存在を隠し通すと決めた時から覚悟はしていた。【産む】という選択肢しかなくなるまでは隠し通すために病院には行かず、細心の注意を払った。
もしもこの子がひとり目なら無理だったけれど、幸いなことに紗柚の時の経験があるから大丈夫だと自分に言い聞かせる。
自分本位なのは分かってる。
だけど自分の幸せのために、そして宿った貴哉との子どものためにはそうするしかなかった。
もしも紗凪が妹だったら貴哉と結婚して、貴哉に寄り添い、ふたりの子どもを望むなんてこともあったのかもしれないけれど、紗凪が孕むことはない。
『ねえ、紗凪。
お腹の中に貴哉の子どもがいるの。
だから、貴哉のこと、返して』
何度も何度も想像するその時のこと。
貴哉は私がふたりの関係を知っているとは気付いていないはずだし、紗凪だって同じだろう。
ふたりの関係を知っているとは気付いていないはずの紗凪に【知っていた】ことを伝えた時にどんな顔をするのだろう。
寄り添って欲しい時にわざと貴哉を呼び出したことを怒るのだろうか。
それとも、自分が手に入れることのできない【子ども】という存在を妬み、泣くのだろうか。
貴哉に縋るのだろうか。
私を罵るのだろうか。
「早く大きくなぁれ」
まだまだ存在を主張をすることのない下腹に手を当ててそっと願う。
諦めるという選択肢が無くなるまでは誰にも知られてはいけないのだから。
悪阻が始まる頃には異変に気付かれないかと不安になったものの、夫も紗柚も普段通り過ぎて、まるで私には関心がないのかと思わないでもないけれど、その無関心さがありがたかった。
昼間十分休めるせいか、朝と夕方から寝るまでの数時間頑張ればいいという環境と、バレてはいけないという緊張感も良かったのかもしれない。
世界が終わるかもしれないと噂をされた時に夫の実家で過ごしたのが楽しかったのか、あれから休日になると度々ふたりで顔を出しに行くようになったのも私には都合が良かった。
落ち着いたら私も顔を出すと言いながら以前よりも多くなった訪問を家事を理由に断り続けるけれど、夫は全く気にしていないようだし、紗柚に至っては私の同行を拒絶しているようにも見える。
少し淋しい気もしたけれど、男の子はだんだんそうなって行くのだと自分に言い聞かせた。
毎日のルーティーンをこなしながら身体の変化に注意を払い、妊娠がバレないように気を付けながらも自分を労る日々。悪阻のせいで体調が思わしくない時も、妊娠のせいで食の好みが変化してもそれをひた隠しにするのが辛い時もあったけれど、貴哉との子どものためだと思えば頑張ることができた。
少しずつ体型の変化を感じるようになり、微かな胎動を感じた時にはあと一息だと自分に言い聞かせた。
体型に変化が出て、胎動を感じるようになれば堕胎をすることができなくなる時期に差し掛かった頃だから。
本当は病院にかかり、その成長を見守りたかった。どれだけ大きくなったのかをエコー写真で確認し、その成長を残したいのにそれができないのが心残りだった。早く母子手帳を手に入れたかった。
「紗羅ちゃん、明日から紗柚連れて実家に行ってもいい?」
日常を取り戻し、あの噂のことなんてみんな忘れてしまったのだろう。
紗柚の学校生活も通常通りとなり、長期休みを迎えた時に夫からそう声をかけられた。いつもなら学校に行っているはずの紗柚が家にいるのは今の私にとっては負担が大きいから喜ぶべきことなのだけど、そんな気持ちを見透かされないように慎重に答える。
「わざわざ確認する必要ある?」
そう言えば何か言い訳じみた返事が返ってくると思ったのに、返ってきたのは「一応ね」という一言だけ。私に許可をとるような口調ではあったものの夫の中では既に決定事項であり、私が反対することもないと分かっていての言葉だったのだろう。
「だったら行ってもいい?じゃなくて行ってくるからって言えばいいじゃない」
夫の言葉に苛立ったのは夫の変化を改めて実感させられたから。
私に対してあんなにも気を遣っていたはずの夫は、いつからか私に対して無関心になっていった。そのきっかけがあの時、家で過ごすと言って貴哉と過ごした時からだと気付いていたけれど、貴哉とのことに気付いたのかと確認することはできなかった。
何かに気付いていていても私に確認する勇気がないことを馬鹿にして、貴哉と過ごした時間を思い出しては孕んでいることを祈っていた。そのせいで夫の変化に気を配ることも無かったのだから当然の結果ではあるけれど、少しずつ体調が落ち着き余裕ができたせいか、夫の言動が気に障って仕方がない。
「じゃあ、明日からしばらく紗柚と実家に泊まってくるから。
また帰る時に連絡するから紗羅ちゃんは好きに過ごして」
その言葉に、その物言いに苛立ちが増すけれど、家事のことを考えずに今後のことを考える時間が取れるのはありがたいと考えて「分かった」と答える。そろそろ中絶の許されない時期を迎えるのだから産むという選択肢しかない。
貴哉との未来のために夫との関係を終わらせる必要があるけれど、どうやって終わらせるか、紗柚にどう話すのかを考える時間も必要だろう。
貴哉に話し、これからの生活の地盤を固め、紗柚に話をして懐柔すれば夫は出て行くしかないはずだ。貴哉の子供を諦めるという選択肢はないのだから、夫は諦めるしかないだろう。
もしも全てを受け入れて、一緒にこの子を育てると言い出したとしても、貴哉と夫を天秤にかけた時にどちらを選ぶのかなんて考える必要も無い。
夫とはそれ以上話すこともなく、いつも通りに1日を終え、翌日もいつもと同じルーティーンで過ごして昼過ぎに夫と紗柚を送り出した。
いつの間にかあちらの実家に衣類を持ち込んだらしく、家を出る時には紗柚のゲームと宿題を入れたスポーツバッグを持っているだけだった。
「ソフトもちゃんと持った?」
思わず言ってしまったのは、これからのことを考えている時に思考を邪魔されたくなかったから。
「別に、近いんだから無ければ取りにくればいいだけでしょ?」
穏やかな口調でそう言った夫だったけれど、その目に侮蔑の色を感じたのは気のせいだったのだろうか。
「ちゃんと持ったし、おじさんのソフトだって借りられるから大丈夫」
そう言った紗柚は私に笑顔を見せることなく、「早く行こう?」と夫を促して私に背中を見せた。
そんな紗柚の様子を成長したからだと自分に言い聞かせ、部屋に戻って貴哉の連絡先を呼び出す。
〈妊娠しました〉
そんなメッセージを送ろうとしたものの、送信ボタンを押すには何かが物足りなくて指が止まる。
助けて。
子どもを諦めたくないの。
夫と別れるつもり。
伝えたいことはたくさんあるのに、どの言葉にも違和感を覚え、結局〈話したいことがあります〉とメッセージを送る。
私との連絡を断つようなメッセージを送ってきた貴哉だったけれど、メッセージを見れば無視することはないはずだ。
夫も紗柚もいない部屋で貴哉からのメッセージを待ちながら、時々感じる胎動にこれからのことを考える。
貴哉と新しい家族と過ごす生活に想いを馳せ、思わず笑顔が溢れる。
こんなことになるとは思ってもいなかったから、紗柚の時に揃えた育児用品は全て処分してしまった。だけど紗柚の頃に比べて育児用品は安くなったし、種類も多様になっている。もう一度1から揃えるのも楽しいし、何が必要で何が不必要かも判断できるから準備に手間取ることはないだろう。
スマホのメモ機能を使い必要な用品を書き出していく。新生児用の肌着とベビーバス。ベビードッドはどこに置くべきか。
紗柚が自分の部屋で寝るようになれば3人で眠ることも可能だろう。
幸せな光景を思い浮かべると、自然に笑顔が溢れた。
ポスティングされたソレを手にトイレに駆け込み、はやる気持ちを抑えて検査をしてみる。
「お願い」
思わず声が漏れてしまう。
世界が終わらなかったあの日から日常は続いている。
いつものルーティーン。
変わり映えのない毎日。
予定の日に生理が来なかった時には少しだけ期待して、それでもそんな自分を戒めた。
夫に対する裏切りはバレているのか、バレていないのか。以前に比べて会話が減ったような気がするけれど、以前はどれくらい会話があったのかと考えてみてもどこがどう変わったのかを比較することもできない。
結局のところ私たち夫婦の関係は上辺を取り繕っていただけで、仲が良かったわけではなくて仲が良いように見せていただけだったのだろう。
それが淋しいとは思わず、それならばそれで楽だと思ってしまった。
周期通りに来ていた生理が3日遅れたのを確認して妊娠検査薬を注文した。念のため3本注文したソレに陽性の反応を確認した時に沸き起こったのは喜びで、これで貴哉に連絡をする口実ができたと安堵する。
もしも貴哉と紗凪の関係が続いていたとしても、紗凪がその関係を家族に告げるとは思わない。紗凪の恋愛の対象が元々同性だったのかなんて知らないけれど、ふたりがパートナー関係であることは確信している。そして、我が家にとって醜聞になるようなふたりの関係を告げることがないであろうことも確信している。
紗凪はきっと貴哉との関係をひた隠しにするだけでなく、その関係が続くうちはこのまま家族とも疎遠になることを選ぶのではないか。
私が後を継いだとはいえ紗凪だって汐勿の息子なのだから、両親としてもその将来を気にするはずだ。だけど、ただでさえ帰省しない紗凪のことだから告げることのできない関係が続いているうちはこちらに足を運ぶようなことはしないだろう。そうなると私と貴哉が会う機会は無くなってしまう。
大学の頃の大きな集まりがあっても貴哉は来ないだろうし、共通の友人に何かあっても私たちが同席するような機会を作ることはない。強いて言えば、誰かに不幸があれば再会の機会はあるのかもしれないなんてことまで考えてしまう。
貴哉のメッセージから私とは訣別すると決めたのだと伝わってきてはいたけれど、それでも諦めることはできなかった。
自分が手にできなかった貴哉を手に入れた紗凪が妬ましかった。
同性同士だから貴哉の男性不妊を気にすることなく、何の憂いもなく幸せそうな笑みを浮かべることに憎しみさえ感じていた。
結局のところ私は貴哉のことが好きなままで、貴哉との子どもを授かったことで全てをリセットできるのだと喜びに打ち震えた。
だけど、ソレを告げるのは今じゃない。
貴哉に伝える前に家族にバレてしまったら諦めるという選択を強いられるかもしれない。だから誰にも告げず、時間が過ぎるのを待つしかなかった。
本来なら病院を予約して、診察を受け、母子手帳を発行するべきなのは分かっている。だけど貴哉の子どもの存在を隠し通すと決めた時から覚悟はしていた。【産む】という選択肢しかなくなるまでは隠し通すために病院には行かず、細心の注意を払った。
もしもこの子がひとり目なら無理だったけれど、幸いなことに紗柚の時の経験があるから大丈夫だと自分に言い聞かせる。
自分本位なのは分かってる。
だけど自分の幸せのために、そして宿った貴哉との子どものためにはそうするしかなかった。
もしも紗凪が妹だったら貴哉と結婚して、貴哉に寄り添い、ふたりの子どもを望むなんてこともあったのかもしれないけれど、紗凪が孕むことはない。
『ねえ、紗凪。
お腹の中に貴哉の子どもがいるの。
だから、貴哉のこと、返して』
何度も何度も想像するその時のこと。
貴哉は私がふたりの関係を知っているとは気付いていないはずだし、紗凪だって同じだろう。
ふたりの関係を知っているとは気付いていないはずの紗凪に【知っていた】ことを伝えた時にどんな顔をするのだろう。
寄り添って欲しい時にわざと貴哉を呼び出したことを怒るのだろうか。
それとも、自分が手に入れることのできない【子ども】という存在を妬み、泣くのだろうか。
貴哉に縋るのだろうか。
私を罵るのだろうか。
「早く大きくなぁれ」
まだまだ存在を主張をすることのない下腹に手を当ててそっと願う。
諦めるという選択肢が無くなるまでは誰にも知られてはいけないのだから。
悪阻が始まる頃には異変に気付かれないかと不安になったものの、夫も紗柚も普段通り過ぎて、まるで私には関心がないのかと思わないでもないけれど、その無関心さがありがたかった。
昼間十分休めるせいか、朝と夕方から寝るまでの数時間頑張ればいいという環境と、バレてはいけないという緊張感も良かったのかもしれない。
世界が終わるかもしれないと噂をされた時に夫の実家で過ごしたのが楽しかったのか、あれから休日になると度々ふたりで顔を出しに行くようになったのも私には都合が良かった。
落ち着いたら私も顔を出すと言いながら以前よりも多くなった訪問を家事を理由に断り続けるけれど、夫は全く気にしていないようだし、紗柚に至っては私の同行を拒絶しているようにも見える。
少し淋しい気もしたけれど、男の子はだんだんそうなって行くのだと自分に言い聞かせた。
毎日のルーティーンをこなしながら身体の変化に注意を払い、妊娠がバレないように気を付けながらも自分を労る日々。悪阻のせいで体調が思わしくない時も、妊娠のせいで食の好みが変化してもそれをひた隠しにするのが辛い時もあったけれど、貴哉との子どものためだと思えば頑張ることができた。
少しずつ体型の変化を感じるようになり、微かな胎動を感じた時にはあと一息だと自分に言い聞かせた。
体型に変化が出て、胎動を感じるようになれば堕胎をすることができなくなる時期に差し掛かった頃だから。
本当は病院にかかり、その成長を見守りたかった。どれだけ大きくなったのかをエコー写真で確認し、その成長を残したいのにそれができないのが心残りだった。早く母子手帳を手に入れたかった。
「紗羅ちゃん、明日から紗柚連れて実家に行ってもいい?」
日常を取り戻し、あの噂のことなんてみんな忘れてしまったのだろう。
紗柚の学校生活も通常通りとなり、長期休みを迎えた時に夫からそう声をかけられた。いつもなら学校に行っているはずの紗柚が家にいるのは今の私にとっては負担が大きいから喜ぶべきことなのだけど、そんな気持ちを見透かされないように慎重に答える。
「わざわざ確認する必要ある?」
そう言えば何か言い訳じみた返事が返ってくると思ったのに、返ってきたのは「一応ね」という一言だけ。私に許可をとるような口調ではあったものの夫の中では既に決定事項であり、私が反対することもないと分かっていての言葉だったのだろう。
「だったら行ってもいい?じゃなくて行ってくるからって言えばいいじゃない」
夫の言葉に苛立ったのは夫の変化を改めて実感させられたから。
私に対してあんなにも気を遣っていたはずの夫は、いつからか私に対して無関心になっていった。そのきっかけがあの時、家で過ごすと言って貴哉と過ごした時からだと気付いていたけれど、貴哉とのことに気付いたのかと確認することはできなかった。
何かに気付いていていても私に確認する勇気がないことを馬鹿にして、貴哉と過ごした時間を思い出しては孕んでいることを祈っていた。そのせいで夫の変化に気を配ることも無かったのだから当然の結果ではあるけれど、少しずつ体調が落ち着き余裕ができたせいか、夫の言動が気に障って仕方がない。
「じゃあ、明日からしばらく紗柚と実家に泊まってくるから。
また帰る時に連絡するから紗羅ちゃんは好きに過ごして」
その言葉に、その物言いに苛立ちが増すけれど、家事のことを考えずに今後のことを考える時間が取れるのはありがたいと考えて「分かった」と答える。そろそろ中絶の許されない時期を迎えるのだから産むという選択肢しかない。
貴哉との未来のために夫との関係を終わらせる必要があるけれど、どうやって終わらせるか、紗柚にどう話すのかを考える時間も必要だろう。
貴哉に話し、これからの生活の地盤を固め、紗柚に話をして懐柔すれば夫は出て行くしかないはずだ。貴哉の子供を諦めるという選択肢はないのだから、夫は諦めるしかないだろう。
もしも全てを受け入れて、一緒にこの子を育てると言い出したとしても、貴哉と夫を天秤にかけた時にどちらを選ぶのかなんて考える必要も無い。
夫とはそれ以上話すこともなく、いつも通りに1日を終え、翌日もいつもと同じルーティーンで過ごして昼過ぎに夫と紗柚を送り出した。
いつの間にかあちらの実家に衣類を持ち込んだらしく、家を出る時には紗柚のゲームと宿題を入れたスポーツバッグを持っているだけだった。
「ソフトもちゃんと持った?」
思わず言ってしまったのは、これからのことを考えている時に思考を邪魔されたくなかったから。
「別に、近いんだから無ければ取りにくればいいだけでしょ?」
穏やかな口調でそう言った夫だったけれど、その目に侮蔑の色を感じたのは気のせいだったのだろうか。
「ちゃんと持ったし、おじさんのソフトだって借りられるから大丈夫」
そう言った紗柚は私に笑顔を見せることなく、「早く行こう?」と夫を促して私に背中を見せた。
そんな紗柚の様子を成長したからだと自分に言い聞かせ、部屋に戻って貴哉の連絡先を呼び出す。
〈妊娠しました〉
そんなメッセージを送ろうとしたものの、送信ボタンを押すには何かが物足りなくて指が止まる。
助けて。
子どもを諦めたくないの。
夫と別れるつもり。
伝えたいことはたくさんあるのに、どの言葉にも違和感を覚え、結局〈話したいことがあります〉とメッセージを送る。
私との連絡を断つようなメッセージを送ってきた貴哉だったけれど、メッセージを見れば無視することはないはずだ。
夫も紗柚もいない部屋で貴哉からのメッセージを待ちながら、時々感じる胎動にこれからのことを考える。
貴哉と新しい家族と過ごす生活に想いを馳せ、思わず笑顔が溢れる。
こんなことになるとは思ってもいなかったから、紗柚の時に揃えた育児用品は全て処分してしまった。だけど紗柚の頃に比べて育児用品は安くなったし、種類も多様になっている。もう一度1から揃えるのも楽しいし、何が必要で何が不必要かも判断できるから準備に手間取ることはないだろう。
スマホのメモ機能を使い必要な用品を書き出していく。新生児用の肌着とベビーバス。ベビードッドはどこに置くべきか。
紗柚が自分の部屋で寝るようになれば3人で眠ることも可能だろう。
幸せな光景を思い浮かべると、自然に笑顔が溢れた。
32
あなたにおすすめの小説
八年間の恋を捨てて結婚します
abang
恋愛
八年間愛した婚約者との婚約解消の書類を紛れ込ませた。
無関心な彼はサインしたことにも気づかなかった。
そして、アルベルトはずっと婚約者だった筈のルージュの婚約パーティーの記事で気付く。
彼女がアルベルトの元を去ったことをーー。
八年もの間ずっと自分だけを盲目的に愛していたはずのルージュ。
なのに彼女はもうすぐ別の男と婚約する。
正式な結婚の日取りまで記された記事にアルベルトは憤る。
「今度はそうやって気を引くつもりか!?」
元カレの今カノは聖女様
abang
恋愛
「イブリア……私と別れて欲しい」
公爵令嬢 イブリア・バロウズは聖女と王太子の愛を妨げる悪女で社交界の嫌われ者。
婚約者である王太子 ルシアン・ランベールの関心は、品行方正、心優しく美人で慈悲深い聖女、セリエ・ジェスランに奪われ王太子ルシアンはついにイブリアに別れを切り出す。
極め付けには、王妃から嫉妬に狂うただの公爵令嬢よりも、聖女が婚約者に適任だと「ルシアンと別れて頂戴」と多額の手切れ金。
社交会では嫉妬に狂った憐れな令嬢に"仕立てあげられ"周りの人間はどんどんと距離を取っていくばかり。
けれども当の本人は…
「悲しいけれど、過ぎればもう過去のことよ」
と、噂とは違いあっさりとした様子のイブリア。
それどころか自由を謳歌する彼女はとても楽しげな様子。
そんなイブリアの態度がルシアンは何故か気に入らない様子で…
更には婚約破棄されたイブリアの婚約者の座を狙う王太子の側近達。
「私をあんなにも嫌っていた、聖女様の取り巻き達が一体私に何の用事があって絡むの!?嫌がらせかしら……!」
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
君に不幸あれ。
ぽぽ
BL
「全部、君のせいだから」
学校でも居場所がなく、家族に見捨てられた男子高校生の静。
生きる意味を失いかけた時に屋上で出会ったのは、太陽に眩しい青年、天輝玲だった。
静より一つ年上の玲の存在は、静の壊れかけていた心の唯一の救いだった。
静は玲のことを好きになり、静の告白をきっかけに二人は結ばれる。
しかしある日、玲の口から聞いた言葉が静の世界を一瞬で反転させる。
「好きになられるからあいつには近づかない方がいいよ。」
玲に対する感情は信頼から憎悪へと変わった。
それから十年後。
静は玲に復讐するために近づくが…
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
愛などもう求めない
一寸光陰
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。
「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」
「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」
目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。
本当に自分を愛してくれる人と生きたい。
ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。
ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる