月と琥珀

海乃うに

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月と琥珀

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 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。それを聞き、リルはため息をこぼした。世界の滅亡に対する悲しみからではなく、あと七日でこの地球を離れられるという安堵からである。
 地球として知られている惑星は、言ってしまえば月の民の箱庭にすぎない。その箱庭は月を統治する時期女王の選定試験のため百年に一度つくられ、試験の終わりとともに消滅を迎える。それは遥か昔よりつづいてきた儀式であり、そうとも知らずに生きているのは地球に住まう人間だけだ。彼らは愚かにもこの惑星や宇宙について考えを巡らせ研究までしているが、リルにはそれが滑稽でたまらない。
 リルはテレビを消し、窓の外を見た。そのとき冷水を張った銀の皿からリルの名前を呼ぶ声が聞こえた。親友のメルである。
「ねえリル、さっき計算していたのだけど、あなたの地球もあと一週間で終わりじゃない?」
「そうよ。どう? 久しぶりの月は」
「最高。よく十年も離れていられたと思う」
「ミルは元気?」
「うん。私より半年も先に戻ったもの。すっかり肌の色も白くなってる」
「いいわね」
 リルは手元に置いた銀の皿の縁を指先でなぞった。様々な花が彫られた繊細で美しい皿。それは女王候補に選ばれた際、現女王のエナから直々に手渡されたものでありリルにとって命と同じくらい大切なものだ。この皿が唯一、リルと月を結んでいる。
「でも」
 ぼんやりしていたリルを、メルの声が呼び戻す。
「でも、なに?」
「さすがに離れる前はすこし淋しくなったのよ。だから私、最後の一週間なんて色々見てまわっちゃった」
 夕日とか川とかね。そう、メルが付け足す。
 月に戻れば夕日や川や、海などを見ることはできなくなる。もともと月の民はそんなものの存在を知らずに暮らしているのだから関係ないと言えば関係ないのだが、女王候補として地球を知ってしまえばいわゆる自然というものはなかなかに愛しくもあった──もちろんそんなものに対する記憶など、月に戻ってしばらくすれば色褪せてしまうのだろうけれど。
「だからって、地球に残る気持ちになんてならないけどね」
 メルの言葉にリルは笑った。そんなのはばかげている。ばかげているが、でも月にはこんな昔話があった。
 
 むかしむかしのことでした。
 月の女王になるはずだった少女は、地球の男に心を奪われ月へ帰ることをやめてしまったのです。
 そうして彼女の肌は日に焼けて色づき、ほどなくして死んでしまいました。

 そんな、短い昔話だ。
「でもあのおはなしって、私たちが地球に同情しないようにするための教訓みたいなものじゃない」
 リルが吐き捨てるように言えばメルも「そうよね」と笑う。
「そうよね。とにかくはやく会いたいわ」
「私もよ」
 リルはそう言ってメルとの会話を終えた。
 月の王国では百年に一度、女王がかわる。リル、メル、そしてミルの三人は時期女王候補として十年に渡る選定試験を受けており、それがもうじき終わろうとしていた。
 選定試験として、まずは女王候補それぞれに地球が用意される。そこは彼女たちが十歳の誕生日から二十歳の誕生日までの十年間を過ごすための惑星であり、そこにあるすべてが時期女王としての素質を見極めるために用意されたものだ。この十年の間に女王候補たちは人々とのふれあいを経験したり様々な知識を身につけることになっており、そうして二十歳の誕生日を迎えたものから月に帰って最終試験を受けるのがならわしだった。
 用意された地球は、そこに住む女王候補が離れるとまもなく砕け散ってしまう。地球に生きる人々は、でもそうと知らずに爆発が一年後に迫る時期がやってくるとかならず宇宙の研究だかなんだかを通してその事実に気がつき騒ぎ立てていた。今回もまた巨大な惑星がいくつも地球にぶつかり、爆発を起こすという観測がなされているようだ。
 確かにそれは事実である。女王から渡される銀の皿は月と地球を結ぶものであり、そこには月の力が込められている。その力こそが、地球をつくりあげる核となるものだ。しかしあまりに強大な力であるがゆえに宇宙の要素を引き寄せてしまう。その結果が惑星の衝突であり、地球の消滅だった。銀の皿に込められた地球を育む力は十年しかもたず、その力が尽きるときこそが地球の最後の時である。
 冷水を捨て、リルは窓から街を眺めてみた。
 ああ、と思う。
 ああ、確かに美しいかもしれない。
 リルの住む街には坂道が多い。街のいちばん高いところには時計塔が立ち、そこからは街を一望できる。坂を下れば細い道が複雑に交差しているけれど、長年ここで暮らしていた彼女にはどれも歩き慣れたいつもの風景だ。きっとここを初めて訪れる人は迷子になってしまうであろう小道を、でもリルなら迷わない。そのくらい、ここでの生活が当たり前のものになっていた。
 リルは坂道を下り川沿いを歩くことにした。川沿いには芝生が広がり、家族や恋人、あるいは友人たちと過ごす人々の姿がちらほら見られる。みんな、知らないのだ。本当はこの地球がただの箱庭であることも、ただ月の女王の選定のために生み出された未来のない命であることも、そうして今ここを歩いているリルがこの星を離れた途端この地球は宇宙の塵となってしまうことも。
 知らずに最後の時をかみしめる人間たちを横目に歩く。


 地球。
 人々がなんとか幸せに人生を終えようとしているこの地球は試験のために整えられた環境であるため、何もかもが完璧な生命体というわけではない。なにより、まがいものの命である地球は正しく老いるということができないでいた。
 月の民の技術をもってしても老いという現象を再現するのは少々難しいことである。だから地球では、人はどんなに長くても七十歳までしか生きることができなかった。もちろん若くして事故や病気で命を落とすものもあるが、とにかく人は七十年しか生きられないというのが地球に住む人々の特徴である。
 そもそも月の民に寿命はない。彼らは疲れれば自分の意思で半永久的に眠ることもできるし、年をとったり若返ったりもできる。女王候補の少女たちは地球にいる間だけ十年分老いることになるが、それも月へ戻れは好みの年齢に変わることができるというものだ。
 街を歩くうち、リルは無性に水が恋しくなり川沿いを歩いた先にある空き地へ向かった。月の王国を流れる川は星屑でできており、地球のように水が流れているわけではない。地球の方が月より素晴らしいなど間違っても思わないが、しかし水の豊かさという点だけは地球を優れていると認めざるを得なかった。
 川沿いは芝生が広がり緑の公園と呼ばれている。そこを歩けば水の匂いがわかるし、日の光を受けて川面はきらめきを放つ。それから、風。まさか地球を愛しいと感じるときがくるなどと思ってもいなかったが、確かにもうすぐここを離れるのだと考えればすこしだけ淋しさがこみ上げてきた。
 淋しい? 私がこの世界を終わらせるのに。
 リルは一瞬でもそんなことを考えた自分に嫌気がさし、はやく気持ちを静めようと川沿いの小道を進んでいった。この奥の空き地は、いつ来ても誰もいない。
 今日はでも、先客がいた。
「やあ」
 知らない相手だというのにその人物はリルを見つけると気さくに声をかけてきた。リルと同じくらいの年をした、きれいな顔立ちの青年だった。手にはスケッチブックを抱えている。
「なにしてるの? こんなところで」
 相手が親し気に声をかけてくるのであればリルもまた同じように対応する。なんといってもこの惑星はリルのためにつくられたものであり、そこで暮らす人々もまたリルを素晴らしい女王とするための命でしかないのだから。
 ここで、恐れるものなどなにもないのだから。
「今朝のニュースを見ただろ? あと一週間だから最後にきれいなものを描いて残そうと思ったんだ」
「でも、世界が終わるなら絵を描いたってそれもなくなるんじゃないの?」
 すべて砕け散るのよ、とは言えない。だって私は助かるのだもの。
「スケッチブックを土に埋めてもだめかな」
「地球ごと消えたら同じよ」
「君、変な子だなあ」
「あなたこそ」
 リルはめんどくさいと思いつつなぜか彼が気になり芝生に腰をおろした。しばらく彼が絵を描くところをぼんやり眺めているうちに、どうして彼が気になるのかに気がつく。
「あなた、瞳の色がきれいだわ」
「ああ」彼はそう言うと絵筆を置きリルの方を向いた。「祖母譲りなんだ」
「なんと言うのかしら、その色。なにかの色だとはわかるのだけれど」
「琥珀」
 彼はそう口にし、リルの方へ歩み寄った。
「琥珀だろ? 樹液の化石さ」
「こはく」
 リルはその響きを味わうようにゆっくりと発音した。琥珀。長い年月をかけて樹液が固まってできる美しい化石。宝石ではないのに、宝石のようにすてきな透明。
「それより、ねえ君。名前は?」
「リル」
「よし。じゃあリル、僕の方を向いて座って」
 リルはわけがわからず、ただ彼が自信に満ちた声をしているのでつい言われた通り体の向きを変えた。
「そのまま動かないで」
 そう言うと彼はスケッチブックのページをめくり、まっさらな世界に鉛筆を走らせた。すばやく動かすので小気味の良い音が鳴り響く。
「なにをしているの」
「言ったろう? 最後にきれいなものを残しておきたいって。リル、君はきれいだ」
 そうしてちらりと顔をあげ、リルを見る。すぐまた視線を落とし手を動かす。
「君みたいにきれいな人を残しておかない手はないよ。待って、すぐにスケッチを終えるから」
「ばかみたいね」
「なんとでも言えよ」
 ほんとうに、ばかみたい。
 リルはそんな言葉を飲み込んだ。だって私のことはわざわざ残さなくても大丈夫だもの。私たち月の民は永遠を生きるもの。


 翌日、リルはふたたび昨日と同じ場所までやって来た。
 明日もここで待ってる。
 前日の夕暮れ時にそう言われ、でもリルは返事をしなかった。しなかったが心のなかでは頷いていた。あの琥珀色の瞳にすっかり見惚れてしまったからだ。
「そろそろあなたの名前を教えてくれてもいいでしょう?」
 リルはその日、何度目かわからない質問を重ねた。それでも目の前の彼は決して教えようとはしない。
「またそれか。いいじゃないか、そんなことは」
「だって不公平だわ。あなたは私の名前を聞いたのに」
 リルはあくまで女王候補であるという威厳を忘れないよう努める。背筋をぴんとのばし、遠くを見据えるような目つき。それを彼が美しいと褒める。
「僕には必要だったんだ」
「なぜ」
「描くために」
 決まっているだろう? という顔をされる。
「知らないわ。私、絵なんて描かないもの」
「そうだろうね」そう言って、彼は前日描いた下描きに絵具をのせ始める。「君は描く人じゃない。描かれる人だ」
「どういう意味?」
「美しいということ。さあ、僕を見て」
 リルが目を向ければ、琥珀色の瞳が見つめ返してきた。その視線にとらわれて、リルの胸は甘く疼く。今までに知らなかった、気持ち。
 月の民にとって地球に住む人間はかわいそうな生き物であり、それと同時に感謝すべき生き物でもある。彼らは月の女王選定のためにつくられた儚い生き物であり、ただリルたちのような女王候補を育て上げるためだけにその命を使い捨ててゆくのだから。決して自分たちのためには生きず、ただひたすら女王のために命を削る──地球とはそういう惑星だと言い聞かされて育ってきた。
 それが、である。
 目の前の琥珀色の瞳を持つ彼は、リルのために命を燃やしているようには見えなかった。むしろリルが彼のために地球での最後の時間を費やしてしまっている。
 そうして彼の描くリルの絵は三日目に完成した。
「いるかい?」
 完成した絵を見せられてリルは首を横に振った。
「もらっても仕方がないわ」
 だって月へはなにひとつ持ち帰れないもの、とは言えずリルはそっけなくそう答える。
 月へ戻るときは銀の皿に冷水を張り、女王から月の扉を開いてもらう。そうして水に飛び込めばあとはそのまま月へつながるようになっていた。残された皿もろとも地球は消えてなくなり、二度と戻ることができなくなるという仕組みだ。
「まあそうか」
 彼はでも、それを地球がなくなるからととらえたようだ。無理もない。ここに生きる人間たちは彼らの使命を知らないのだから。
「あと四日はなにを描くの?」
 美しく描かれた自分を見つめながらリルはたずねた。自分の瞳の色に、灰色がかった青い瞳にがっかりする。
「君を描きたい」
「なぜ? もう私のことは描いたでしょう」
 そう言いながら振り向けば、おもいのほか近くに彼が立っていてリルは息を飲んだ。そうして瞬く間に琥珀色の中へ吸い込まれてゆく。
 琥珀色。白銀である月の世界には存在しない、色。
「私、あなたの瞳に映ると私も琥珀色になるのね」
 目の前の瞳に映る自分はこれまでに見たことのない色をしていた。理由はわからないが、どうしてもそこから目を逸らすことができない。
「そうかい?」
「ねえ、まだ私を描くのならあなたの瞳に映った私を描いてちょうだい」
「どういうこと?」
「私の瞳も、肌もぜんぶ琥珀色にして描いて」
「無理だよ。君の肌は白くてそれが美しいのだから」
「でも、いや。お願い、あなたの瞳に映った私にして」
「でも僕にその色は見えない」
 それを聞き、リルはうつむいた。確かに彼の瞳に映った自分を描いてくれと言うのは無理な頼みだ。そもそもなぜ自分は人間などにものを頼んでいるのだろうか。
「ああ、わかった」
 そのときふいに彼がリルの手をとった。
「何を、」
「ほら」
 絵筆を渡される。夕日がふたりを照らした。もうすぐ、今日が終わる。
「君が色を塗るんだ」
「え?」
「僕が君の絵を描くから、色は君が塗るんだ。僕の瞳に映る色は君にしか見えないのだから」
「でも、」リルは絵筆を受け取り、すこしためらいがちにつづけた。「私の目に映るあなたも見たいわ」
「それなら一緒に描こう」


 その日以来、ふたりで一枚の絵を描き始めた。絵を描き、互いの瞳を見つめ合う。残り四日で完成させなければならず、ふたりは朝から夕暮れまでを共に過ごした。
「最後まで名前を教えてくれなかったのね」
 ふたりの絵が完成した日の夕方、リルはそう咎めた。咎めながら、でもリルの声には笑いが含まれている。ただ風が吹いて水が流れて、夕日で染まるこの場所に名前も知らない人物とふたりでいられるだけで言葉にできない気持ちになった。
「ねえ、あなたはこれで良かったの?」
 しばらくの沈黙の後、ふいにリルがそうたずねた。
「これ?」
「最後の一週間を私と過ごしてそれで良かったの?」
「言ったろ、最後だからきれいなものが必要だって」
「でも、家族か、友達と過ごすとか……」
 それが地球に生きる人々の普通なのでしょう? とリルは心の中で付け足す。
「いや」
 彼は絵筆を片づけながらつづけた。「僕に家族はいない。祖母と暮らしていたけど去年死んでしまった」
「どうして」
 たずねてから、後悔する。聞かなくてもわかりきっていることではないか。
「老衰」
 やっぱり、と思った。
 この箱庭で、人は七十年を超えて生きられない。それ以上は月の力が管理できないからだ。七十年以上の命を管理できないかわりに、豊かな自然を保障していた。
 リルは彼の美しい琥珀色の瞳が祖母譲りだというのを思い出した。自分のための惑星がこんなにも美しいものを生み出すのと同時に、時が来れば容赦なく葬ってしまいもするという現実に指先が冷たくなってゆく。老衰。つまり自分が殺したようなものだ。
「さ、帰ろう」
 彼が言い、でも絵は置き去りのままだった。
「絵は?」
「置いてゆこう。僕らのかわりにここで朝日を見てくれるかもしれない」
「……そうね」
 別れてしばらくしてからリルは振り返った。もう一度最後にあの瞳を見たいと思ったからだ。けれどすでに遠くにいて、そして彼の名前を知らないリルはなんと呼びかければ良いのかわからない。
 なにより辺りは真っ暗で、きっともう瞳の色など見えやしない。
 ああ、と思った。
 ああ、こうして世界はこのまま朝日を浴びることなく滅んでゆく。


 その夜、リルは眠らずに夜空を眺めていた。月を眺めるのはこれで最後だからだ。月に戻ればもう外側から月を眺めることなどできない。
 この十年、ずっと美しいと思いながら眺めてきた月のはずなのに、リルはどうしても集中できなかった。心に浮かぶのは琥珀色のあの瞳だけだ。
 どうして? 理由はわかっている。リルはもう一度月を眺め、それから覚悟を決めて銀の皿に冷水を張った。
「エナさま、すこし良いでしょうか」
 そこでリルの言葉はつかえてしまう。なにを言えば良いのだろう? 私は一体なにをしようとしているのだろう。冷水の向こう側では月の女王であるエナが凛とした静けさを身にまといリルのことを見つめ返していた。白くて、そして冷たく美しい。
「リル、言葉が出てこないのならすこし話しても良いかしら」
「はい、もちろんです」
 冷水に映るリルの表情を見て、エナが優しい口調で語り始めた。
「これまで誰にも話したことがないおはなしよ。私とあなたの秘密にしてくださいね」
「はい」
「きっとあなたも噂を聞いたことがあるでしょう? 私たちは永遠の時を生きるもの、色々な話を耳にしているはずだわ」
「噂、ですか」
「私が女王になったときの試験について。女王補佐はテナひとりだけれど、本当ならもうひとりいたのよ」
 リルは息を飲んだ。まさか、あの昔話のことだろうか。あれは単なる教訓ではなく実話だったと、エナは言うのだろうか。
 月の女王の選定試験に敗れたものは、女王補佐として女王を支える役職を与えられることになっている。現在エナのそばにはテナという人物がおり、良き相談相手としてエナのことを支えていた。女王と女王補佐は十年に渡る選定試験を共に耐えたからこそのつながりを持っており、補佐は女王にとって欠かせない存在である。リルたちもまたリル、ミル、メルのなかから女王が選ばれたあかつきには残りのふたりが補佐として新女王を支えることになっていた。
「エナさま、でも」
 リルは慌てて彼女を止めようとする。もしも本当にもうひとりいたとして、それではその人はどうなってしまったのか聞くのが怖ろしかったからだ。
「良いのです、リル。きっとあなたには必要なおはなしだから。でもミルやメルには秘密よ」
「……はい」
 エナは冷水の向こうで優しく微笑んでみせた。
「私とともに女王候補に選ばれたのはテナと、それからニナという人でした」
 聞いたことのない名前にリルは息を飲んだ。
「ニナは感受性が豊かだったの。そうね、リル。あなたとよく似ていたわ」
 似ていた、と過去のかたちで語られることにリルの鼓動ははやくなる。寿命を持たない月の民はいつ、どんな場面であっても誰かにとっての過去となることがないからだ。それなのに今聞かされている物語はすべて過去として扱われている。その初めて覚える違和感は、どこかひやりとしてリルの心をざわつかせた。
「ニナはとても優秀でした。きっと彼女が女王になるという噂で持ち切りだったもの。でもね、私やテナが月に戻って、彼女の試験終了の日がやってきても、ニナは地球を離れようとしなかった」
「どうして、ですか」
 たずねるリルの声がかすれる。興味と、それからほんのすこしの恐れ。
「恋をしたの」
「こい」
「そう。美しい水や日の光や、それからそこで出会った青年に恋をしたの。瞳の色が美しくて、彼の目に映る自分を見た瞬間に恋に落ちたと言っていたわ」
 リルはなにも言うことができず、ただ黙って水面に映るエナを見つめる。
「羨ましかった」
 ふいにエナがそうつぶやき、リルは目を見開いた。まさか女王であるエナが誰かを羨ましいと言うことがあるとは。それも、試験から脱落したようなものに対して。
「羨ましかった。そうやって心の動く彼女が羨ましかった。良いですか、リル。なにかを愛しいと思ったり恋をしたりすることは誰にだってできることではありません。そうやって胸を打つ気持ちというものは、誰にだって備わっているものではありません」
「でも、私、」
「地球に残ればあなたはいずれ年老いて死ぬでしょう。それでも感動や恋といった一瞬のきらめきは、たとえ月で永遠に生きたとしても得ることのできないものです」
 そこでエナは一度言葉を切り、リルの名前を優しく呼んだ。
「リル」
「はい」
「私は無責任に、あなたに死ねと言っているわけではないのよ。もちろん、あなたが月へ戻ってきてくれればとても嬉しい。でもここへ一度戻ればあなたのその地球は消えてなくなります。そしてあなたは永遠に死なない。よく考えてください」
「でも良いのでしょうか、だってそんな、戻らないだなんて」
「誰もがそうした気持ちになるわけではないの。私だって百年ほど前に地球にいたのだからわかるわ、なによりも美しいものはきっと今あなたのなかで渦巻いている感情だとわかるの。それはここでは決して手にできるものではない」
 それからエナは地球の仕組みを説明した。エナのはなしによればもともと銀の皿の力は十年しかもたず、力を失う前に割ってしまえば宇宙を引き寄せることもなくなり、地球は存続しつづけることができるのだそうだ。ただしそうすればリルは二度と月に戻ることはできないし、地球はゆるやかに老い始めるため、いずれ自然は破壊される。そしてなによりリルもまた人と同じように年を取りやがては死ぬということだった。
「エナさま」
「リル、考えるのです。もしもあなたがあなたの感情をなによりも大切に思うのならそこで命を無駄なく使いなさい。もしもあなたが月の民として永遠の時を生きるのなら、私はあなたを抱きしめましょう」


 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。さきほど入ってきた速報によりますと、観測されていた惑星は地球から大きく逸れ、我々の世界を脅かす危険はなくなったとのことです。繰り返します、観測されていた惑星は大きく逸れました」と言う。そこまで聞いて、リルはテレビを消した。その傍らには粉々に砕かれた銀の皿があった。
 立ち上がり窓を開ける。
 木々のざわめきが聞こえ、まぶしい日が降り注いでいた。
「今日あの人に会えたら、今度こそ名前を教えてもらえるかしら」
 リルはそうつぶやくと急いで川辺へ向かった。きっと今頃、あの絵が朝日に照らされているはずだ。
 外に出る。風が吹く。
 地球。
 もしもそこに七十歳以上の人間が住んでいるのだとすれば、それは月の民が恋に落ちたことを意味している。
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みんなの感想(1件)

スパークノークス

おもしろい!
お気に入りに登録しました~

海乃うに
2021.09.13 海乃うに

コメントありがとうございます。すごくすごく嬉しいです!
お読みくださってありがとうございました!

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