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東日本大震災発生~出発

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静岡県伊豆の国市にある業務用洗濯機メーカーの社員、松原と須田。
2011年3月10日、2人は車で福井県を訪れていた。もちろん業務での出張である。

3月11日金曜日の午後には予定通り全ての洗濯機の点検を済ませて昼食を食べてから北陸自動車道に入ったのは14時を少し過ぎた頃であった。
北陸道は混雑もなく、15時前には賤ケ岳のサービスエリアを通過して米原のジャンクションの手前を走行していた。
渋滞の案内を示す看板にはこんな表示が出ていた。
『東北地方で地震が発生。走行注意』
ここは滋賀県、帰る場所は静岡県。あまり関係ないと思いつつもラジオをつけた。
14時46分、宮城県沖を震源とする最大深度7の地震が発生。念のため津波に注意という情報が繰り返されていた。
その時点で流れて来る情報では緊迫感はなかったが、助手席に乗っていた松原が同じ日に千葉県に出張に出ていた高石と佐田に電話をしたが『電話が混みあっています』というアナウンスが流れるだけだった。彼らも車で出掛けていたがより東北に近い千葉にいるのが気がかりである。
次に名古屋に来ている三好にも電話を入れたが、話し中であった。彼は新幹線なので心配はないだろう。
本社からも連絡はあった。静岡でも震度4。社内に人的・物的な被害はなかったようだ。とにかく無理せず安全確保して帰って来るようにと事務的な連絡だったが、高石と佐田の安否は本社でもわからないようであった。
「携帯の発信が集中して繋がらないだけならいいんだが」
助手席の松原がそう言いながらカーナビのワンセグのスイッチを入れると画面には津波警報の文字とともに巨大な津波が沿岸に押し寄せる映像が流れていた。
それでも、2人にはまだ直接関係ないことだと思っていた。須田の自宅からも連絡があり、水槽の水が少しこぼれた程度で特に大きな被害はなかったようだ。
このペースなら20時前には会社に戻ることができるだろう。

ワンセグから流れて来る情報は未整理のまま溢れていた。
自分たちには関係ないと思っていた松原と須田であったが、刻々と事態は変化していた。
津波警報は東北だけでなく太平洋岸の広い地域に出されていた。
名古屋にいた三好から連絡が入り東海道新幹線は運転見合わせになったようだが、何とか今夜の宿を確保できたようだ。

静岡県静岡市の薩埵峠は広重の東海道五十三次にも描かれるように、駿河湾に急峻な崖がせり出し、東名高速道路と国道1号線、東海道新幹線と東海道本線が海岸線すれすれのところを通っている東海道随一の難所と呼ばれているところだ。
どうやら津波警報が解除になるまで、この区間は電車も車も一切通れないようだ。
それでも、津波警報が何時間も続くはずがないと思っていた二人はすでに名古屋を超えて静岡県に入るところだった。
【清水IC~富士IC 通行止め】の表示が出続けているが、とにかく行けるところまで行ってみたくなるのが人間の愚かさだ。清水ICから強制的に東名高速を降ろされると一般道は帰路を急ぐ車で大渋滞していた。
国道も、裏道も身動きは取れない。仕方がなく2人は再び高速に乗り西に向かった。
「とにかく高速沿いで宿を探して泊まろう。朝の時点で警報が解除されてたら東名で帰ればいいし、解除されてなかったら中央道で大回りして富士五湖回って御殿場経由で帰れる」
松原の提案に須田は同意した。
何とか浜松の手前の磐田で宿を押さえて泊まることができたが、テレビを見ながらよく眠れない一夜を過ごした。
結局、3月12日土曜日の朝になっても警報は解除されず、東海環状自動車道から中央道に入り河口湖経由で会社に戻ったのは午後になってからのことである。他の社員たちもそれぞれ安全確保しながら午後には会社に戻っていた。

全く影響がないと考えていたのが甘かった。東北で起きた地震が500kmも離れた静岡に影響を及ぼしていた。松原と須田はそのまま会社に残り、東北沿岸部に納品した洗濯機のリストを確認し、修理や復旧についての計画について頭を巡らせたが被害の状況がわからないタイミングで何かを考えても無駄であった。同じ頃、工場の担当者は東北の部品メーカーで作っているものをリストアップして今後の調達をどうするか思案していた。

ニュースを見る限り被害は甚大だった。
須田は義父が住む福島市に食料や水を届けるため、ホームセンターやスーパーを廻った。商品は豊富にあるものの、カセットコンロや水は販売数に制限をかけている。何とか必要であろうものを買ったが、義父とはまだ連絡が付かず自宅にいるのか避難所にいるのかもわからなかった。宅配便も東北への荷物の受付を中止していたため届けるとなれば自分で行くしかなかったが、東北自動車道どころか一般道の国道4号線も通行止めの箇所が多く、ガソリンもほぼ入手できないと報道されていた。
とにかく今行くのは邪魔になると考え、その日は家に帰った。

巨大な地震はさらに大きな恐怖として世界中を震撼させた。
津波によって被害を受けた福島第一原発1号機が15時36分に水素爆発を起こしたのだ。

3月14日 月曜日
1人の被災者も出すことなく会社には全員が出勤し、各地の支店でも書類が棚から落ちた程度の被害が出た程度であった。
しかし、連絡が付かないユーザーや販売店は多数あった。通常業務をしながらも安否確認や問い合わせ対応に人数を割いて修理などにすぐに行ける体制の構築に注力した。しかし、原発を含めた多くの発電所が稼働停止になり電力の需給はひっ迫していた。
静岡県の富士川以東は東京電力管内で50Hzのエリアである。
予期せぬ大規模な停電を避けるためにエリア、時間を区切った計画停電のため、工場は稼働できなくなり、停電中はPCも使えないという非常に不便な状態になった。
原発の爆発はその後も続き2号機から4号機も次々に水素爆発を引き起こした。

3月15日 火曜日
出来る業務を出来る範囲で進めつつ、1日を終えた。
家に帰りニュースを見ていると緊急地震速報が鳴ったと同時に激しい揺れが起こった。東日本大震災の余震ではなく富士山の西側のごく浅い場所を震源とした最大震度6強の静岡東部地震が発生したのは22時31分のことである。
須田が住んでいる伊豆の国市の震度は4であった。
会社から最も近くに住んでいた須田は自転車ですぐに事務所に駆け付け、社内を確認したが大きな被害はなかった。
すぐに何人かの社員が駆け付けてきたが話題は地震そのものではなく、富士山の噴火の前触れではないかということだった。

3月16日 水曜日
昨夜の地震でも社員に被害はなかったようだ。全員無事に出勤している。
社員たちの中から被災地支援の声が上がり始めていた。労働組合から募金を開始するという知らせが回っている。
昨夜の地震で、次は我が身に大きな災害が襲い掛かるかわからないという雰囲気も漂っていた。計画停電と地震の影響で静岡県内でも様々な工場が生産中止や稼働の低下に陥っている。不安は人の行動に悪い影響を与えていた。
十分な在庫がある物でも、非常時に備えて、また東北の親戚や知人に送るための品物を買うためにスーパーやホームセンターには行列ができ、棚は空いている場所が目立つようになっていた。
須田はガソリンが20リットル入る携行缶を2つ買った。手持ちの10リットル缶と合わせて50リットルを入れることができる。県内のガソリンスタンドはいつもと変わらない様子であった。給油量の制限も行列もない。携行缶と車をそれぞれ満タンにした。

「くれぐれもお気をつけて。携行缶から給油するときは特に……」
スタンドの店長がそう言うと
「わかってるよ、こぼすと塗装のツヤがなくなるからな」
「そうじゃないんです、現地はガソリンが全く手に入らないから携行缶持ってるのが見つかると襲われる可能性があるんで、人通りがないところで給油してください。絶対ですよ」

ガソリンスタンド間での情報であった。須田は改めて気を引き締めた。
小型車いっぱいの食料や生活雑貨を詰め込んで、外から見えないように黒いゴミ袋に入れた携行缶を後部座席の下に隠して夜道を走り出した。


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