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繋がれ、広がれ 支援の輪

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4月19日
洗濯支援をスタートしてから2週間近くが過ぎた。
当初1週間で行政が配布した防災毛布の洗濯を終えたら戻る予定だったが、会社でもゴールデンウイーク前まで継続することが決まっていた。
そのあたりは総務の鈴木にいやんが上手く事を運んでいる。

鈴木にはもう1つ大きな仕事があった。毎日、多賀城から送られてくる洗濯支援の報告の概要をまとめてTV局や新聞社などのメディアにメールやファックスで送り、現地での洗濯の窮状を伝えていた。
すでに宮城県を中心にした新聞社やネットニュースなどに取り上げられていたが、被災地以外の人は災害時に洗濯が必要だということはあまり気づいていないだろう。
いやそれだけではない。
震災が発生した当日、濡れた服を着たまま命からがら避難所に逃げ込んだ人が電気も暖房もない場所で寒さに震え、翌朝命を落としたという話しもあった。暖を取るものは毛布だけ。毛布が冷たい床からの断熱材であり、防寒着となるが、着替えはなかったようだ。
それが今では配り切れないほど集まり倉庫のスペースを埋め尽くしていた。
衣類は配って終わりという訳には行かない。
食糧であればいくら届いても日々減っていくが衣類はそういう訳には行かない。

アパレルメーカーから送られて来たものの多くは倉庫にあった売れ残りを仕分けもせずに段ボールに詰め込んである。需要が少ないSや3Lなどのサイズが多く、それは被災地においても需要が少ないものである。
また、個人から送られてくる古着の中には破れた毛布やどう考えても今ここで必要だとは思わないドレスのようなものもあった。わざわざ送料をかけて送って来るのだから善意であることは確かなのだが、それにしてもひどいありさまだ。
それらの衣類は避難所を閉鎖し、日常生活に戻るときには被災した自治体が費用を負担しゴミとして処分せざるを得ない。

衣類がなければ当然困るが必要な時に命を守ることができず、十分な数が揃った後も延々と在庫処分のように送られてくる衣類を日々片付けて倉庫のスペースを無駄使いしていることに多くの被災者は疑問を感じていた。

須田は業務用洗濯機メーカーの社員ではあるが、クリーニング師免許や繊維製品品質管理士の資格を持っており、この洗濯活動を通じて災害時の衣類の支援について考えていた。
洗濯は日常生活で毎日のように必要なことだが災害の時には盲点になっている。そればかりではない、衣類の支援が全体的に盲点となっていることに気づく者は少なかった。

その日から多賀城に山崎ざきさんが入っていた。交代で須田は伊豆の国市の本社に戻り、多賀城での支援が終わった後の対応をまとめる予定であった。

夕方、須田はざきさんが乗って来た車で東北自動車道を南下した。
4月の初めにはまだ段差や工事個所が多かった道も走りやすくなり、復旧の速さを実感した。すでに一般の車両もたくさん走り、サービスエリアのガソリンスタンドも観光シーズンと変わらない程度にしか混雑していなかった。
須田の携帯が鳴ったのは、蓮田のサービスエリアだった。すでに多賀城から伊豆の国市までの2/3を走っていた。
須田はサービスエリアに車を停めて都内に入る前に休憩をしていたところだった。
電話の相手は総務の鈴木にいやんであった。
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