アダルト漫画家とランジェリー娘

茜色

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誠也のスランプ

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 久々のスランプだった。
 プロットもネームも問題ないのに、原稿に向かおうとすると上手い具合に手が動かない。ヒロインのランジェリー姿を描こうとすると、モヤモヤした雑念が浮かび上がってきてどうにもスムーズに仕事が進まない。

 それもこれも珠里があんなことを口にしたからだ。例のセクシーな下着を着てみたいなどと突拍子もないことを言うものだから、あれ以来誠也の脳内にはいかがわしい幻影が浮かんでは消え、おかげで仕事がはかどらなくなっている。
 デビュー2、3年のヒヨッコじゃあるまいし。この程度のことで仕事に支障をきたすとは情けない限りだ。だが事実、原稿がちっとも進まないので編集の野村に心配されている。

「音原くんさぁ、オレがせっかくセクシーランジェリー提供してあげたのに、なーんで逆に滞っちゃってるわけ?」
 元はと言えば、アンタがあんな下着を持ち込んだからだろう。誠也はそう反論しかけたが、それを言うと珠里に話が及ぶのでぐっと口を噤む。

「まあ、今までも何回かスランプ期ってあったけどねー。そういう時はアレだ。可愛い珠里ちゃんに慰めてもらって、どこか一緒にドライブでもすればすぐ治っちゃうんじゃなかったっけ?」
 だから今回はそれができないんだって。誠也はイライラしながら「なんとかしますんで、ご心配なく」とめいっぱい作り笑いを浮かべた。

「頼むよー。音原くんはまだまだ期待されてるんだからさ」
 野村は顎髭を引っ張りながら、「お世辞じゃなくてホントだよ」と真顔になった。それから仕事部屋の隅に置いてある古いソファの上で、カバンの中からゴソゴソとハガキ大のカードを取り出した。

「これさ、招待状。今度うちの社長がホテルのバンケットルーム借りて感謝祭的パーティーやるのよ。月末に花火あるじゃん。あれに合わせて、花火見ながら飲み食いしましょうってヤツ」
 差し出されたカードを受け取ると、隣駅に最近できたばかりのホテルの名前と、野村が勤務する『月光社』の社長名が記されていた。ここの社長はたまに気まぐれで「なんちゃらパーティー」と銘打って、社員や作家たちを呼んで慰労会を催すのが趣味なのだ。
 なるほど、ここのホテルの最上階なら、たしかに花火がよく見えるかもしれない。ただ、こういう集まりはどうしても億劫なので、誠也が参加することはさほど多くなかった。

「今回はさ、音原くん、ぜひ来てほしいんだよね」
「なんでですか?」
「あのさ、このパーティーで発表するらしいからまだ内密なんだけどね。来年早々、新しい月刊誌が創刊されることになったのよ。それがね、『オトナの感性に訴えかける、クールでスタイリッシュな漫画誌』っていうのを目指してるんだと」
 適当に聞き流していた誠也は、野村の言葉にピクリと反応した。

「で、編集長に就任するのが北川さんて、オレの先輩なんだけどね。その北川さんが、創刊号に描いてくれる作家を今選んでるとこで。でね、音原くんに興味持ってるんだよね」
「……え。俺、ですか?」
 誠也は思わず前のめりになりかけた。

「北川さん、むかし音原くんが描いてたSF系の作品のファンだったんだって。もちろん今のエロの方も読んでて、そっちも好きらしいよ。でね、昨日オレんとこ電話かけてきて、音原くんって前に描いてたようなジャンルをまたやる気ないかなって。もしその気があれば、来年の創刊号から連載頼めないかなって」
「……本当に……?」
 誠也は思わずゴクリと喉を鳴らした。

「もちろんさ、音原くんはうちの稼ぎ頭でもあるから、こっちとしても全面的に『はい、どーぞ』ってキミを差し出すのはキツイのよ。だから引き続きうちでも描き続けてほしいんだけど、そこはあっちとのスケジュールを調整して、例えば隔月にペース落とすとか、考えようはあると思う。何より、音原くんの今後の作家人生を考えたら、元のジャンル……っていうより、もっと大人向けの新ジャンルに挑戦するのって、悪い話じゃないと思ってね」
 誠也は呆けたような表情になった。
 アダルトジャンルはそれなりに面白いし、今は納得して描いている。だが本音を言えば、昔描いていたような作品をもう一度描きたいという気持ちは捨てきれていなかった。そのチャンスが、思いがけずこのタイミングで転がり込んできたということか。しかも以前のような少年誌ではなく、もっと上の世代を対象にした雑誌だ。描ける範囲も更に広がるということではないか。

「あ……、俺で良ければ、ぜひやりたい、です」
 誠也がいつになく殊勝な声を出すと、野村が「そうだよね」とにんまり笑った。
「そう言うと思った。だからさ、その花火パーティーの時に、北川さんに紹介するよ。連れてきてくれって頼まれてんの。その時、具体的な話もできると思うよ」
「わ、分かりました。行きます」
 思いがけない展開に、誠也は手のひらで口元を覆って大きく息をついた。こういう形でチャンスが転がり込んでくるとは、人生何が起こるか分からない。

「じゃあ、それまでに仕事がんばっといて。あ、ここの会場結構広いから、同伴者1名までOKだって。良かったら珠里ちゃん、連れておいでよ。特等席で花火見られるし」
 珠里の名を言われ、ハッとした。そうだ。誠也がまた以前のような作品を描けるかもしれないと伝えたら、珠里はきっと心から喜んでくれるだろう。
 でもまだ話すのは早い。ぬか喜びさせて話が流れたら意味がない。珠里に予定がなければ、当日パーティーに連れて行って、その場で話を聞かせてやりたい。
 誠也は社に戻る野村を見送りながら、久しく感じていなかった野心のような熱いものを胸に感じ始めていた。

 だが、物事すべてがそう都合よくもいかない。珠里は花火大会の日、会社の同期たちと集まる約束をしているとのことだった。

「私、あっちは断る。別に行きたくなかったし、誠ちゃんとパーティーの方に行きたい」
 珠里はそう言ったが、誠也はやんわり諭した。
「友達と浴衣、買ったんだろ?今更断ったらその子にも悪いだろうが。そっちの約束が先なんだ、行ってこい」
「でも……」
「出版社のパーティーなんて、退屈だぞ。オッサンが多いし。それに花火は川べりで見た方がたぶん綺麗だ」
「うん……」

 珠里は本気で残念がっていた。誠也としても珠里を連れていきたいのは山々だが、考えてみれば、社会人の珠里には身内より大事な付き合いというものがある。子供じゃあるまいし、先約を取り消してまで誠也に同行させるのはこちらの身勝手というものだろう。
 珠里は渋々納得した。その顔を見ていたら強引に連れていきたい気持ちが湧いてきたが、それはすべきではないと自分の我儘をグッと抑えた。


 雨の週末はふたりとも家で過ごしていた。
 7月にしては気温も低めで静かな日曜だ。食材の買い出しも昨日のうちに済ませていたので、珠里も今日はのんびり本でも読みながら過ごすようだ。誠也はと言えば、あまり進捗していない仕事に本腰を入れるべく仕事部屋に籠っているが、相変わらずペンの進みが遅い。

 ヒロインの顔を描こうとすると、なぜか珠里の顔に似てしまうのだ。
 野村にもらった例の下着やネットの画像を参考にランジェリーのデザインを考えてあれこれラフを描いたのだが、どうも「これ」というイメージが湧いてこない。珠里に似たヒロインに着せようと思うからか、きわどいデザインを描こうとするとなぜか躊躇してしまう。
 白い面がなかなか埋まらない原稿用紙を前に唸っていると、控えめにドアがノックされた。珠里がマグカップに入れたコーヒーを持ってきてくれたので、礼を言って受け取った。

 珠里は仕事机にチラリと眼をやり、瞬時に現状を理解したようだった。
「誠ちゃん、もしかしてスランプ……?」
「いや、んー、何というか……」
 机の上には黒いランジェリー。しまった、出しっぱなしにするんじゃなかったと思った時には既に遅く、珠里の手がひょいとその下着を取り上げた。

「ペンが進まないの?」
「……久しぶりに、ノリが悪い」
「そうなんだ。原因、何だろうね」
 おまえだよ、とは言えない。

「それ、誠ちゃんが考えたデザイン?」
「ん?ああ、まあな」
 脇に置いたA5のスケッチブックには、下着姿の女の子のイラストが数点、鉛筆で描きなぐってある。どれも雑で気合が入っていない。珠里はまじまじとラフ画に見入り、それから誠也の顔をじっと覗き込んだ。

「……イメージ、まとまらないの?」
 珠里は漫画制作については素人なのに、誠也の状態に関してはいつだって鋭い。隠しても意味がないのは長年の経験で分かっている。
「これだ、っていう決め手がまだ見つからなくてな」
「そうなんだ」
 真正面から見つめられると、情けないことにドギマギする。濁りのない綺麗な眼に捕らえられただけで、自分がひどく汚れた存在に思えてきて腹の奥がムズムズしてきた。

「誠ちゃん……」
 恥じらうような、妙にか細い声。部屋の空気が不意に濃くなったような気がする。
「私、モデルになろうか」
「……へ?」
 一瞬意味が分からず、誠也の口から間の抜けた声が出た。
「これ。この下着、私が着てみようか」
 珠里が黒いランジェリーを誠也の目の前にかざした。

「……え。何言って……」
 脳内がフリーズする。
 モデル……?着てみるって、俺の前で……?

「ただ下着眺めててもイメージ掴めないなら、実際に女の子が着てるところを見ればアイデア湧くかもしれないよ」
 だから、私が着て見せてあげる。頬をほんのり染めながら、珠里がそう呟いた。
 


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