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5年前の情事(こと)
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「いえ、そんな、デートとかの予定はないので平気なんですけど・・・」
藤堂さんは「そうなのか?」と言う感じで、やや不思議そうに私を見た。週末にデートの予定がない女がそんなに珍しいのだろうか。何気に落ち込んでくる。
そういう藤堂さんの方が、週末はデートの約束があるのかもしれない。だとしたら私がマンションに同行するなんて図々しいにもほどがある。と言うか、もし藤堂さんに恋人がいたら、明日にでもここを出てその人のところへ行ってしまうかもしれない。私は今の今までそういう可能性に思い至らなかった自分の能天気さにますます落ち込んだ。
「その、本当に先約とか、用事はないのか?俺に気を遣ってくれてるなら気にせずに・・」
藤堂さんが探るように聞いてきたので、私は急いで顔を上げた。
「いえ、そんなんじゃないです。本当に用事はないんです」
つまらない独身女の淋しい週末がバレてしまうが、もう見栄を張っても仕方ない。
「あの、まだ持ってこられる荷物があるかもしれないし、部屋の修繕が入るなら家具とか運び出す手配もした方がいいですよね?あと、当面必要なものを買い足さないといけないし。一人より二人いたほうが便利ですよ。だから私、一緒に行っちゃダメですか?もちろん、ご迷惑じゃなければですけど・・・」
『彼女』に頼むからいいと断られる覚悟で、思い切って申し出た。
「迷惑なんて、とんでもないよ。本音を言えばものすごくありがたい。・・・じゃあ、お言葉に甘えて明日は庄野につきあってもらおうかな。お礼に美味い飯でもおごるよ」
そう言って藤堂さんが笑ってくれたので、私は心の底から嬉しくなった。急にホッとして気が緩む。そろそろ自室に戻り、明日に備えることにしよう。
「じゃあ、私も部屋に引き上げますね」
立ち上がったとき、まだ濡れている髪の先から小さな水滴が畳に落ちた。
「あっ、ごめんなさい。濡らしちゃった」
私は咄嗟に首にかけていたタオルを外し、畳をトントンと叩いて水気を拭った。そうしてから、自分がTシャツの下に何も付けていないことを思い出してギクリとした。
藤堂さんの視線が、私の胸元に注がれているのが分かる。
・・・ああ、やってしまった。今日に限って薄手のピンクのTシャツなんて。顔から火が出そうになり、私は急いでタオルを首に戻すとガバッっと立ち上がった。
「そ、それじゃ戻りますね。おやすみなさい!」
「ああ・・・おやすみ。いろいろ、ありがとう」
藤堂さんも心なしか落ち着かない声を出す。私はぺこりと頭を下げると、逃げるように自分の部屋に駆け込んだ。
ドライヤーを手に鏡の前に座り、そっとタオルを外して自分の姿を見る。恐れていた通り、お風呂上がりの汗でTシャツが肌に張り付いて、乳首の形がしっかり浮き上がっていた。心なしか色までうっすら透けて見える。
・・・見たよね。絶対、これ、見られた・・・。
私は恥ずかしさで倒れそうになりながら、ドライヤーを放り出して両手で顔を覆った。
何を今さらだ。5年前、私はTシャツ越しどころではなく、直接この胸を藤堂さんに見られていると言うのに。
見られただけじゃない。優しく触れられ、そして思いのほか激しく愛撫された。たった一度の行為だったけれど、あれからずっと消えない記憶となって私の肌に刻まれている。
私はベッドに突っ伏して深い溜め息をついた。同じ屋根の下で、藤堂さんは今夜何を想うのだろう。あのときのことを、ほんの少しでも想い返したりするのだろうか・・・?
・・・5年前のあの夜。
飲みすぎた私が眼を覚ますのを待っていてくれた藤堂さん。私の酔い方が普通じゃないように見えたのだろうか。「何か嫌なことでもあったのか?」と聞いてくれた藤堂さん。
気付いたら私は、お水をちびちび飲みながら自分の失恋話を打ち明けていた。セックスに慎重になっていたら彼氏にフラれてしまった。笑い話のような私の愚痴を、藤堂さんは黙って聞いてくれていた。
「俺は、庄野はそれでいいと思うよ。それは、その彼氏が悪い。言葉は悪いけど、ヤらせてくれる女が欲しかっただけなんだろう。そんなヤツは別れて正解だぞ」
私を慰めるために、藤堂さんはそんなことを言ってくれた。
女の子が自分の身を大事にするのはとてもいいことだと思う。そう言って、私の頭を撫でてくれたのを覚えている。自分を安売りする必要なんてない。本当に好きな人ができたら、そのとき経験すればいいのだと。
そう言われた途端、何故だかすぐにでも処女を捨てたくなった。本当に好きな人ができたら・・・?私にはそんな未来は決して訪れないのではないかと不安になった。
処女でいることが恋愛のハンデになるのなら、さっさと経験してこんなの何でもないことだと思えるようになりたい。一度でも経験すれば、きっとコンプレックスや臆病さとサヨナラできるんじゃないか、そう考えた。このままでは自分は女性としてちゃんと機能できないような気がして、ものすごく悲しくなったのだ。
「・・・藤堂さん。今夜、私の処女をもらってくれませんか?」
お水を一気に飲み干した後、気づいたら私はそう口にしていた。
藤堂さんはひどく面食らっていた。酔った勢いでそういうことを言ってはいけないと、優しく叱られた。
私は食い下がった。自棄になっているわけじゃなかった。むしろすごく冷静だった。
今これを乗り越えておかないと、自分はこの先ちゃんと恋愛に向き合えない気がするのだと真剣な顔で訴えた。私だって、臆病な殻を破ってちゃんと「女」になりたい。そう言って藤堂さんの腕を掴んだ気がする。
今思い出しても、なんて面倒くさい酔っ払い女だと自分に呆れ果ててしまう。でもあのときの私は必死だった。
「他の人ならこんなこと頼みません。藤堂さんだから、お願いしてるんです」
最後には涙声になっていたと思う。旅の恥、ではなく酒の恥は掻き捨て、みたいな気分だった。
藤堂さんは週明けには札幌に転勤してしまう。この先もう二度と逢えないだろう。だからこそ、お互い後腐れなく夜を過ごせるような気がした。相手が憧れの藤堂さんなら、たとえ一夜限りでもきっと素敵な想い出になる。
「・・・本当に、後悔しないか?」
最後には藤堂さんが根負けした。私が「絶対後悔しない」と答えると、藤堂さんは大きな溜め息を一つついて、おもむろに立ちあがった。
「分かった。ついておいで」
藤堂さんは私の手を引っ張り上げた。大きくて温かくて、泣きそうなくらい安心できる手だった。
ラブホテル街に行くのかと思っていたらそうではなく、宿泊料がそれなりに高い一般のホテルに連れて行かれた。
私が居酒屋のトイレに行っている間に電話で空室を確認していたらしく、藤堂さんはスムーズにダブルの部屋にチェックインした。
「こんないいホテル・・・。そんなに気を遣わないでください」
エレベーターの中で急に怖気づいて赤面している私を見ながら、藤堂さんはいつもより低い声で囁いた。
「おまえの初めての夜なんだ。安っぽいラブホテルの記憶じゃ悲しいだろう」
その言葉を聞いて、この人は本当に優しい人なのだと思った。エレベーターに乗り込むときから部屋に入るまでずっと、藤堂さんは私の手を握っていた。
こんなふうにされたら、本気で好きになってしまいそうで不意に怖くなった。自分で無理やり迫っておきながら、今になって自分の選択に自信が持てなくなった。
もういなくなってしまう人に本気で恋することほど愚かなことはない。今夜この人に抱かれたら、私の心は引き返せなくなるかもしれないと思った。
部屋に入ってからのことは、順序も段取りも正直まともに覚えていない。
シャワーを先に浴びたのが私だったのか藤堂さんだったのか、どんな話をしたのか、タオルを巻いていたのかバスローブを着ていたのか。あまりにも緊張して頭がパニックになって、後で何度思い返してみても正しい記憶が蘇らないのだ。
ただ覚えているのは、藤堂さんが私を抱く腕が信じられないくらいに優しかったことだ。不安を全部呑み込むように大きな胸に抱き寄せてくれ、私が経験したことがないほど甘くて深いキスをしてくれた。
キスは本当にたくさん、何度もあちこちにしてくれた。そんなところにまで、と羞恥心でどうにかなりそうな秘密の場所にもくちづけられた。藤堂さんのキスは胸が苦しくなるほど気持ち良くて、もしかしたら自分は本当に恋人として愛されているんじゃないかと勘違いしそうなほどだった。
挿入されたときは、やっぱり少し痛かった。
藤堂さんは少しでも私の苦痛を和らげようと、できるだけゆっくり動いてくれた。私の反応を確かめながら首筋に優しくくちづけ、感じやすい場所を指先でこまやかに刺激してきた。
藤堂さんが根気強く私の身体をほぐしてくれたおかげで、私はシーツが湿るほどに蜜をあふれさせた。喉の奥から甘い声が自然に漏れだした。そうしたら藤堂さんの動きが急に激しくなったので、私は無我夢中で熱い肌にしがみついていた。
そうして痛みと快楽の狭間であえぎながら、私は藤堂さんの腕のなかで『女』になった。
行為が終った後、私は感情が昂ぶって泣き出してしまった。
藤堂さんがこんなふうに自分を抱いてくれたことへの喜び。喜びを知ったばかりなのに、この人と離れ離れになってしまうことへの悲しみ。
勝手なもので、さっきまで失恋で落ち込んでいたくせに、もう元彼のことなど私の頭から欠片もなくなっていた。それくらい、藤堂さんは私の身体に甘くて深い楔を打ち込んだのだ。
藤堂さんは私が泣いている理由が分からなくて困っていた。
自分から無理に迫ってきたくせに、終われば意味不明に泣きじゃくる女。きっと本心ではものすごく面倒で、嫌気がさしていたと思う。でも藤堂さんは一生懸命私を慰め、ずっと優しく抱きしめてくれていた。
その夜は、身体は気怠いのに頭が冴えてしまってなかなか寝付けなかった。藤堂さんの方が先に眠りに落ち、私は小さなルームライトの下で男の人の穏やかな寝顔をずっと見つめていた。
いつの間に眠ったのか。翌朝7時頃に私が眼を覚ましたとき、隣に藤堂さんの姿はなかった。トイレにでも行ったのかと部屋を見回すと、鞄も、昨夜脱いだコートもスーツもなくなっていた。
藤堂さんが私を残して一人で帰ってしまったことに激しいショックを受けた。やっぱり嫌われてしまったのだ。ひどい自己嫌悪に陥りかけたとき、窓辺のテーブルにメモがあるのに気づいて急いで手に取った。
『先に支払いは済ませておくから、ゆっくりチェックアウトして。
庄野鞠子、自信を持て。おまえは可愛くて、いい女だ』
たった2行の置き手紙。「さよなら」も「またね」も「元気で」もない。連絡先もない。でも、私を力強く支えてくれる優しい言葉。藤堂さんらしい、とも言えた。
私は涙を拭ってそのメモを大事に折り畳むと、お財布の中にそっとしまった。辛くなったらいつでも見返せるお守りのように。それからゆっくり深呼吸し、帰るために服を身に着け始めた。
藤堂さんは「そうなのか?」と言う感じで、やや不思議そうに私を見た。週末にデートの予定がない女がそんなに珍しいのだろうか。何気に落ち込んでくる。
そういう藤堂さんの方が、週末はデートの約束があるのかもしれない。だとしたら私がマンションに同行するなんて図々しいにもほどがある。と言うか、もし藤堂さんに恋人がいたら、明日にでもここを出てその人のところへ行ってしまうかもしれない。私は今の今までそういう可能性に思い至らなかった自分の能天気さにますます落ち込んだ。
「その、本当に先約とか、用事はないのか?俺に気を遣ってくれてるなら気にせずに・・」
藤堂さんが探るように聞いてきたので、私は急いで顔を上げた。
「いえ、そんなんじゃないです。本当に用事はないんです」
つまらない独身女の淋しい週末がバレてしまうが、もう見栄を張っても仕方ない。
「あの、まだ持ってこられる荷物があるかもしれないし、部屋の修繕が入るなら家具とか運び出す手配もした方がいいですよね?あと、当面必要なものを買い足さないといけないし。一人より二人いたほうが便利ですよ。だから私、一緒に行っちゃダメですか?もちろん、ご迷惑じゃなければですけど・・・」
『彼女』に頼むからいいと断られる覚悟で、思い切って申し出た。
「迷惑なんて、とんでもないよ。本音を言えばものすごくありがたい。・・・じゃあ、お言葉に甘えて明日は庄野につきあってもらおうかな。お礼に美味い飯でもおごるよ」
そう言って藤堂さんが笑ってくれたので、私は心の底から嬉しくなった。急にホッとして気が緩む。そろそろ自室に戻り、明日に備えることにしよう。
「じゃあ、私も部屋に引き上げますね」
立ち上がったとき、まだ濡れている髪の先から小さな水滴が畳に落ちた。
「あっ、ごめんなさい。濡らしちゃった」
私は咄嗟に首にかけていたタオルを外し、畳をトントンと叩いて水気を拭った。そうしてから、自分がTシャツの下に何も付けていないことを思い出してギクリとした。
藤堂さんの視線が、私の胸元に注がれているのが分かる。
・・・ああ、やってしまった。今日に限って薄手のピンクのTシャツなんて。顔から火が出そうになり、私は急いでタオルを首に戻すとガバッっと立ち上がった。
「そ、それじゃ戻りますね。おやすみなさい!」
「ああ・・・おやすみ。いろいろ、ありがとう」
藤堂さんも心なしか落ち着かない声を出す。私はぺこりと頭を下げると、逃げるように自分の部屋に駆け込んだ。
ドライヤーを手に鏡の前に座り、そっとタオルを外して自分の姿を見る。恐れていた通り、お風呂上がりの汗でTシャツが肌に張り付いて、乳首の形がしっかり浮き上がっていた。心なしか色までうっすら透けて見える。
・・・見たよね。絶対、これ、見られた・・・。
私は恥ずかしさで倒れそうになりながら、ドライヤーを放り出して両手で顔を覆った。
何を今さらだ。5年前、私はTシャツ越しどころではなく、直接この胸を藤堂さんに見られていると言うのに。
見られただけじゃない。優しく触れられ、そして思いのほか激しく愛撫された。たった一度の行為だったけれど、あれからずっと消えない記憶となって私の肌に刻まれている。
私はベッドに突っ伏して深い溜め息をついた。同じ屋根の下で、藤堂さんは今夜何を想うのだろう。あのときのことを、ほんの少しでも想い返したりするのだろうか・・・?
・・・5年前のあの夜。
飲みすぎた私が眼を覚ますのを待っていてくれた藤堂さん。私の酔い方が普通じゃないように見えたのだろうか。「何か嫌なことでもあったのか?」と聞いてくれた藤堂さん。
気付いたら私は、お水をちびちび飲みながら自分の失恋話を打ち明けていた。セックスに慎重になっていたら彼氏にフラれてしまった。笑い話のような私の愚痴を、藤堂さんは黙って聞いてくれていた。
「俺は、庄野はそれでいいと思うよ。それは、その彼氏が悪い。言葉は悪いけど、ヤらせてくれる女が欲しかっただけなんだろう。そんなヤツは別れて正解だぞ」
私を慰めるために、藤堂さんはそんなことを言ってくれた。
女の子が自分の身を大事にするのはとてもいいことだと思う。そう言って、私の頭を撫でてくれたのを覚えている。自分を安売りする必要なんてない。本当に好きな人ができたら、そのとき経験すればいいのだと。
そう言われた途端、何故だかすぐにでも処女を捨てたくなった。本当に好きな人ができたら・・・?私にはそんな未来は決して訪れないのではないかと不安になった。
処女でいることが恋愛のハンデになるのなら、さっさと経験してこんなの何でもないことだと思えるようになりたい。一度でも経験すれば、きっとコンプレックスや臆病さとサヨナラできるんじゃないか、そう考えた。このままでは自分は女性としてちゃんと機能できないような気がして、ものすごく悲しくなったのだ。
「・・・藤堂さん。今夜、私の処女をもらってくれませんか?」
お水を一気に飲み干した後、気づいたら私はそう口にしていた。
藤堂さんはひどく面食らっていた。酔った勢いでそういうことを言ってはいけないと、優しく叱られた。
私は食い下がった。自棄になっているわけじゃなかった。むしろすごく冷静だった。
今これを乗り越えておかないと、自分はこの先ちゃんと恋愛に向き合えない気がするのだと真剣な顔で訴えた。私だって、臆病な殻を破ってちゃんと「女」になりたい。そう言って藤堂さんの腕を掴んだ気がする。
今思い出しても、なんて面倒くさい酔っ払い女だと自分に呆れ果ててしまう。でもあのときの私は必死だった。
「他の人ならこんなこと頼みません。藤堂さんだから、お願いしてるんです」
最後には涙声になっていたと思う。旅の恥、ではなく酒の恥は掻き捨て、みたいな気分だった。
藤堂さんは週明けには札幌に転勤してしまう。この先もう二度と逢えないだろう。だからこそ、お互い後腐れなく夜を過ごせるような気がした。相手が憧れの藤堂さんなら、たとえ一夜限りでもきっと素敵な想い出になる。
「・・・本当に、後悔しないか?」
最後には藤堂さんが根負けした。私が「絶対後悔しない」と答えると、藤堂さんは大きな溜め息を一つついて、おもむろに立ちあがった。
「分かった。ついておいで」
藤堂さんは私の手を引っ張り上げた。大きくて温かくて、泣きそうなくらい安心できる手だった。
ラブホテル街に行くのかと思っていたらそうではなく、宿泊料がそれなりに高い一般のホテルに連れて行かれた。
私が居酒屋のトイレに行っている間に電話で空室を確認していたらしく、藤堂さんはスムーズにダブルの部屋にチェックインした。
「こんないいホテル・・・。そんなに気を遣わないでください」
エレベーターの中で急に怖気づいて赤面している私を見ながら、藤堂さんはいつもより低い声で囁いた。
「おまえの初めての夜なんだ。安っぽいラブホテルの記憶じゃ悲しいだろう」
その言葉を聞いて、この人は本当に優しい人なのだと思った。エレベーターに乗り込むときから部屋に入るまでずっと、藤堂さんは私の手を握っていた。
こんなふうにされたら、本気で好きになってしまいそうで不意に怖くなった。自分で無理やり迫っておきながら、今になって自分の選択に自信が持てなくなった。
もういなくなってしまう人に本気で恋することほど愚かなことはない。今夜この人に抱かれたら、私の心は引き返せなくなるかもしれないと思った。
部屋に入ってからのことは、順序も段取りも正直まともに覚えていない。
シャワーを先に浴びたのが私だったのか藤堂さんだったのか、どんな話をしたのか、タオルを巻いていたのかバスローブを着ていたのか。あまりにも緊張して頭がパニックになって、後で何度思い返してみても正しい記憶が蘇らないのだ。
ただ覚えているのは、藤堂さんが私を抱く腕が信じられないくらいに優しかったことだ。不安を全部呑み込むように大きな胸に抱き寄せてくれ、私が経験したことがないほど甘くて深いキスをしてくれた。
キスは本当にたくさん、何度もあちこちにしてくれた。そんなところにまで、と羞恥心でどうにかなりそうな秘密の場所にもくちづけられた。藤堂さんのキスは胸が苦しくなるほど気持ち良くて、もしかしたら自分は本当に恋人として愛されているんじゃないかと勘違いしそうなほどだった。
挿入されたときは、やっぱり少し痛かった。
藤堂さんは少しでも私の苦痛を和らげようと、できるだけゆっくり動いてくれた。私の反応を確かめながら首筋に優しくくちづけ、感じやすい場所を指先でこまやかに刺激してきた。
藤堂さんが根気強く私の身体をほぐしてくれたおかげで、私はシーツが湿るほどに蜜をあふれさせた。喉の奥から甘い声が自然に漏れだした。そうしたら藤堂さんの動きが急に激しくなったので、私は無我夢中で熱い肌にしがみついていた。
そうして痛みと快楽の狭間であえぎながら、私は藤堂さんの腕のなかで『女』になった。
行為が終った後、私は感情が昂ぶって泣き出してしまった。
藤堂さんがこんなふうに自分を抱いてくれたことへの喜び。喜びを知ったばかりなのに、この人と離れ離れになってしまうことへの悲しみ。
勝手なもので、さっきまで失恋で落ち込んでいたくせに、もう元彼のことなど私の頭から欠片もなくなっていた。それくらい、藤堂さんは私の身体に甘くて深い楔を打ち込んだのだ。
藤堂さんは私が泣いている理由が分からなくて困っていた。
自分から無理に迫ってきたくせに、終われば意味不明に泣きじゃくる女。きっと本心ではものすごく面倒で、嫌気がさしていたと思う。でも藤堂さんは一生懸命私を慰め、ずっと優しく抱きしめてくれていた。
その夜は、身体は気怠いのに頭が冴えてしまってなかなか寝付けなかった。藤堂さんの方が先に眠りに落ち、私は小さなルームライトの下で男の人の穏やかな寝顔をずっと見つめていた。
いつの間に眠ったのか。翌朝7時頃に私が眼を覚ましたとき、隣に藤堂さんの姿はなかった。トイレにでも行ったのかと部屋を見回すと、鞄も、昨夜脱いだコートもスーツもなくなっていた。
藤堂さんが私を残して一人で帰ってしまったことに激しいショックを受けた。やっぱり嫌われてしまったのだ。ひどい自己嫌悪に陥りかけたとき、窓辺のテーブルにメモがあるのに気づいて急いで手に取った。
『先に支払いは済ませておくから、ゆっくりチェックアウトして。
庄野鞠子、自信を持て。おまえは可愛くて、いい女だ』
たった2行の置き手紙。「さよなら」も「またね」も「元気で」もない。連絡先もない。でも、私を力強く支えてくれる優しい言葉。藤堂さんらしい、とも言えた。
私は涙を拭ってそのメモを大事に折り畳むと、お財布の中にそっとしまった。辛くなったらいつでも見返せるお守りのように。それからゆっくり深呼吸し、帰るために服を身に着け始めた。
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