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第二章

戦いの帰結

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 ダーは確信していた。
 長く生きてきたドワーフの彼だったが、これは全身全霊、すべての力をふりしぼった、生涯最高ともいえる一撃であったと。
――だが、もはや受身を取る余力すらのこっていない。
  ダーは脳天からまっさかさまに大地へ落下した。

 「…………あぶない………」

  クロノトールがすかさずダッシュし、受け止めてくれたおかげで、首の骨を折る事態だけは避けられた――ものの、ふたりとも反動でごろごろと横に転がった。
  疲労困憊のダーは倒れたまま、もう身を起こすこともできない。

 「……だいじょうぶ……?」 

  クロノが背を支えてくれたおかげで、かろうじて上半身を起こすことができた。

 「すまんのう、いつも迷惑をかけて」

 「………おとっつあん、それは言わない約束………」

  こんな阿呆な会話をしている余裕はないのだが、反撃はなかった。
  黒魔獣は鋭角な鼻先を地に埋め込んだ、奇妙な姿勢のまま硬直している。さながら頭上から、見えざる巨人の大いなる槌で顔面を埋め込まれたかのようだった。
  死んでいるのか、失神しているのか、怪物は微動だにしない。
  ふう、と安堵の吐息を漏らし、ダーはいった。

「……ドワーフを…甘く、見るから……じゃ」

 それだけの軽口もやっとの状態だった。
  全身を襲う圧倒的な倦怠感。
  手足がしびれ、ぶるぶると震えていうことをきかない。
 
(この手では、しばらく斧も持てまい)
 
 周囲は音もなく、静まり返っている。
 どうしたのかダーが見回すと、誰かがつぶやきをもらした。

「――あのドワーフ、やりやがった……」

「すげえ、あの怪物を倒したってのか」

「信じられんパワーだ! 怪物の頭がめりこんでるぞ!」

 ぱちぱちぱちぱちと、市壁の歩廊から、怪我をして座り込んだ戦士たちから喝采が起こる。
  クロノが誇らしげに、ぎゅっとダーを抱きしめる。
  ダーはしびれ、疲労しきった腕をかろうじて上げて、歓声に応えた。

  黒魔獣はまだ息があるようだが、打ち所が悪かったか、目がどんよりと濁っている。
  脳震盪を起こしているのかもしれなかった。
  しかし、また頭を抜かれては元の木阿弥である。事態は一刻を争う。
  ダーはすーっと深呼吸をして、精一杯の大声をあげた。

 「……今のうちに、人を集めい! とどめを刺すのじゃ」

  ダーが、そう叫んだ瞬間だった。

 「あら、それは困るのよね」

  いつのまにか。黒魔獣の傍らに、黒衣の人物が立っている。
  誰もが驚きに瞠目した。忽然と――まさに忽然と。
 その人物は、気がついたらそこに存在していたのだ。

 「この子にはまだ利用価値があるの。もうひとふんばりしてもらわないと、割に合わないのよね」

  黒衣の人物――あきらかに女性のようだ――はそう言って、黒魔獣の近くに寄りそい、何事かぼそぼそと小声でつぶやいた。
 たちまち、白濁化していた怪物の双眸に、意思の光が宿った。 
 黒衣の女性は、いったい何事を吹き込んだのだろうか。
 魔獣は急激に動きはじめた。地中に埋まった角を、どういう魂胆か、さらに地中へと深く埋没させていく。えぐりこむように。深く。
 意図を測りかねた一同は、呆然とその様子を見守るしか術がない。
――やがて、その行為がぴたりと止んだ。

 (なんじゃ、なにを企んでいる?)

 「――いけない! 皆逃げてください!!」

 後方から、エクセの悲鳴にも似た叫び声がひびいた。
 その声でようやくダーは理解した。黒魔獣の意図を。
 地中に突き刺さった鼻先をえぐりこむことにより、一定の空間を作る。
 そして―――
 
 まばゆい光が、地中に埋まった黒魔獣の顔の隙間から漏れている。
 視界が、灼けた。

(まずいの、このバカ獣は―――)

 やけくそなのか、それとも死なばもろともと考えたのか。
 鼻先を地中に埋めこんだままの状態で、黒魔獣はあのすさまじい雷撃砲を放ったのだ。

 どおおおおおおん、と轟音が響いた。
 土が波打ち、砂柱となって立ち上がり、あたり一体を土埃で覆った。
 荒れ狂う砂塵の竜巻が、周囲の人々の視界を土色で洗った。
 ダーは吹きあがる砂粒の痛みに、両目を閉じる。 
 戦場で眼を瞑るのは恐怖をともなう。しかしこのまま目を開けていても、眼球を傷つけるだけで、よいことは何一つない。

 (こういうときは、下手に動かないほうが得策じゃ)

  ダーはこれまでの経験を生かし、そのままの状態で視界が開けるのを待った。

「グルルルルルルルルル」
 
 ごく近距離から重低音のうなり声が聞こえる。
 今回ばかりは、最悪の選択をしたようだった。
 うっすらと両目を開いたダーの眼前に、ふたつの炎があった。
 
 それは、瞋恚しんいの炎に燃える黒魔獣の双眸そうぼうであった。
 額に傷は負わす事ができたが、それは魔獣にとって、さしたるダメージを与えたわけではなかったようだ。
 ただ、怒りに火を注いだ。
 ダーがやったのは、それだけのことに過ぎない。

(……これが現実というやつか。相変わらず、渋い味じゃ)

 ダーはふるえる両手に視線を落とした。
 斧も持てぬ、立ち上がることもできぬ。
 唯一、彼にできることは、声をふりしぼることのみだった。

「クロノトールに命じる! 今より他のメンバーと合流し、戦線を離脱せい」

「…………い、いや………」

「駄々をこねるな。これはドワーフにしかできんことじゃ。おぬしは、おぬしができることを成せ」

「………ドワーフしかできないこと………?」

 ダーはにやりと笑った。できるだけ明るい調子で、

「骨肉の硬さは、ドワーフと人間では比較にならぬ。せいぜいこやつを手こずらせてやるわい」

 クロノの身が、硬直するのがわかった。
 なにかクロノが言い返そうとしたが、会話はそこで打ち切らざるを得なかった。
 黒魔獣が巨体を揺らし、ダーに猛然と突進してきたのた。

(まあ、よい。やるだけやったのだ。もう体はぴくりとも動かん)

 死を目前に迎え、ダーは意外と落ち着いている自分を発見した。
 ここで果てるのは無念な気もしないでもないが、かなりの刻は稼いだ。
 ルカががんばっていたようだし、負傷者も逃げる事ができただろう。
 だが、仲間にしたばかりの、未熟な三人の冒険者のことを考えると、いささか胸が痛まないでもない。
 再び仲間に死なれるのは、つらいことに違いないだろう。
 
(まあ今回は、ちょっくらワシが抜けるだけじゃ。エクセならば、良い方向へやつらを導いてくれるじゃろ)
 
――やがて。
 衝撃が、ダーをつらぬいた。
  
 だが、意識があった。


「なにごとが生じた……?」

 ダーは後方へはじきとばされたものの、死んでいなかった。
 その足元に、黒いものがぼたぼたとしたたり落ちる。
 においでわかる。
 血であった。
 見上げると、黒魔獣の顔があった。
 その鼻先に、なにかがぶらさがっていた。
 背中から、紅く染まった角を生やしている、クロノトールの体だった。
 
 彼女は、命令を守れなかった。
 その身を挺してダーを守ったのだ。

 クロノの巨体は、ピンで留められた虫のように、ぐったりと宙に浮いている。
 黒魔獣がクロノを抜こうと、顔をさかんに左右に振った。
 その四肢は、意思をもたぬ人形のように、ぷらぷらと左右に揺れる。
 やがて、鼻先の角から抜けたクロノの肉体は、受身をとることもなく、どさりと大きな音を立てて大地に投げ出された。
 
 クロノトールは、ぴくりとも動かない。
 うつぶせの状態で倒れている。
 その身体の下から水たまりのような、大量の血が地にあふれている。
 ダーはふるえる手で、自らの足をなぐりつけた。何度も何度も。
 立てる。まだ立てる。
 歯を食いしばり、ふらふらとダーは立ち上がった。
 周囲を見渡すと、戦斧は、そこにあった。

「待っておるがいい。すぐそこへ行くぞ……」

 かろうじて指に引っ掛けるかたちで、ダーは斧を引きずりながら、ゆっくりと黒魔獣に近寄っていった。
 希望はない。
 だが、一矢でも報いてやる。
 決然とダーが前を向くと、暗いなにかが彼の頭上に陰を落としていた。
 黒魔獣の巨大な足の裏が、無慈悲にダーの頭上へと落下する。
 黒衣の女性の哄笑がひびいた。その決意をあざ笑うかのように。
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